辻 天馬

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第39話 手打ち  それから半年くらい経った。もう春の風が吹いていて、俺と斎藤は未だに洗濯物を干すのが仕事だった。  借金の取立てみたいな仕事も、辻村は未成年だから連れて行けない、と断られる。既に20(はたち)になっている斎藤は、頻繁ではないがちょこちょことそういう仕事も増えてきた。洗濯や掃除は一緒にやるが、炊事は俺が1人でやることも多々あった。俺の作る料理は、評判が悪かった。砂糖や塩の加減が雑で、いつも怒られた。  取立てに出掛ける斎藤の背中が大きく見えた。コイツは俺よりも先を走っているんだな、と痛感する。桜庭から貰う斎藤のお小遣いが少し上がったようで、斎藤はよく飲みに連れていってくれた。上がったと言っても大した額ではないだろうが、斎藤は俺の兄貴分として、気持ちよく金を出してくれた。高校の時にカツアゲしてきた奴に奢るというのは、いったいどんな気分なのだ。  春になると抗争は一旦零戦状態に落ち着いたが、夏が近づくにつれ、また頻度が増してきた。また包帯を干す日々が続いた。 「クソッ!組長(オヤジ)も甘いこと抜かしやがって。なにが手打ちだ!」  あの優しい桜庭が機嫌が悪く、いつも上着を掛けているポールハンガーを蹴倒した。若頭補佐の桑山が慌ててポールを直した。桜庭が組長のことを悪く言うなんて珍しい。 「手打ちって、何すか?」  俺は小声で斎藤に聞いた。 「んー、なんか、その、あれだ。仲直りみたいな、なんつーか、もういいにするみたいな」  斎藤に聞いたのが間違いだった。アホがアホに言葉の意味を教えるのは、ペンギンが鶏に空の飛び方を教えるのと一緒だ。  桜庭と桑山、そして桑山の舎弟の長田が、奥の別室に入っていった。時折、桜庭の怒鳴り声が聞こえる。  しばらく経つと3人が奥の部屋から出てきた。なにを話していたが知らないが、話が纏まったようだ。桜庭は急いでいるようで、すぐに出口に向かった。組員全員が頭を下げた。扉に手をかけると振り返り、斎藤の名前を呼んだ。 「へ、へい」  まさか自分が呼ばれるとも思っていない斎藤は、時代劇の岡っ引きのような間抜けな返事をした。 「お前、今日の夜、空けとけ」 「へ、へい?」  斎藤はどう返事をしていいかわからず、更に変な返事をした。桜庭はすでに玄関を出て、車に乗り掛けている。 「空けときますけど、なんですか」  震える声で聞くと、すでに車に乗ってしまった桜庭の代わりに桑山が答えた。 「バカヤロウ!組長が呼んでんだよ」 「あのー、あっし、なにかしでかしたんでしょうか」  更に岡っ引き度が増している。 「盃に決まってんだろ!」  唐突な嬉しい知らせに、ありがとうございます!とデカい声で頭を下げた。後部座席の窓に、桜庭がチラッと手を挙げたのが見えた。斎藤は車が見えなくなるまで頭を下げていた。頭を下げたまま、俺に向かってガッツポーズをしていた。斎藤は、やっと組員になれる。 「遊んでねえで、飯の支度しろ!」  はしゃいでいる斎藤に、兄貴分が一喝した。 「お前、夜は居ねえんだろ。辻村の不味い飯を食わせるつもりか」  はいっ、と斎藤は今までで1番いい返事をして、まだ午後2時過ぎなのに、早速夕飯の支度に取り掛かっていた。俺は流れで軽く貶され、貰い事故のような気分になった。それでも、斎藤が上に上がれる喜びの方がデカい。  良いことがある時は、重なるもんだ。  斎藤が出掛け、兄貴分3人たちと夕飯を食い終わると、兄貴たちは飲みに出掛けた。俺も誘われたが、携帯を見ると舜から着信が入っていた。兄貴分の1人が「弟か?」と聞いてきたので「大丈夫です」と応えたが、「いいよ、掛け直してやれ」と俺を置いて出掛けてしまった。  兄貴たちは、俺が月に2回の弟との電話を楽しみにしているのを知っている。それに、いつもは俺から一方的にかけるのに、珍しく舜の方からの着信。なにかあったのかと、不安も感じた。 『兄ちゃん、聞いてくれよ』  掛け直すと、舜は2コールもしないうちにすぐに出た。冷静な弟が取り乱した様子で心配になった。 「どうした。なんかあったのか?」 『なにかあったなんてもんじゃないよ。俺、レギュラーになれたよ!』  聞けば、夏のインターハイに向けて、レギュラーに選ばれたらしい。今年の1つ上の学年、つまり3年生は名選手ばかりで2年からは舜ともう1人しか選ばれなかったという。 「マジか!凄えじゃねえか!」  こっちはテンションが上がり過ぎて、声が裏返ってしまった。 『今年のインターハイは、他の強豪校からもうちはかなりマークされてるんだ。前回の、今の3年が2年だった時、全国優勝してるからね。かなり選手データも調べられてるんじゃないかって。それで、監督がデータの無い2年から、俺を選んでもらったんだ。なあ、兄ちゃん。俺、やったよ!』  向こうもハイテンションで、途中でなにを言っているかわからなくなってきていた。  良いことが続き過ぎて、大袈裟ではなく本当に夢のようだった。俺は自分がどうこうより、他人が喜んでいる方が喜べる体質なんじゃないかと気づいた。俺なんか、どうでもいい。舜や斎藤が、各々の夢に向かって進んでいることが、自分のことのようで嬉しい。  俺は2人の新たな一歩を、事務所の冷蔵庫に入っていた缶ビールで、1人祝杯を挙げた。  勢いで事務所のビールを勝手に開けてしまったが、それよりもいけなかったのが、俺は酒が弱いことを忘れていた。あまり上手いとも思わなかったから、飲んだこともあまりなかった。ビールの美味さを知るのは、もっともっと後のことだ。  俺は半分も飲まないうちに、事務所のソファで寝てしまった。 「起きろよ」  そう声をかけられて、体を揺すられて目が覚めた。  起こしてくれたのは斎藤。兄貴たちが起きる前に、掃除と洗濯はある程度済ませていなければならない。朝飯だって、ちゃんと作らなければ、また怒られてしまう。  斎藤は、もつ洗濯機だ洗い終えた衣類を籠に入れていた。早く干さなければならない。 「先輩、どうだったんですか。盃って」 「ああ、まあ、俺も、これからは組員だからな」  得意がって言っているが、若干目が(うつろ)だった。 「どうしたんですか?」  ぼおっとしているので、斎藤の肩に手を置いて聞いた。 「あー、昨夜は興奮して、目が冴えちゃって、あんまり眠れてない」 「俺が洗濯物干しますので、先輩はちょっと休んでてください」  そうは言っても斎藤は休まず、一緒に洗濯物を干してくれた。  斎藤は炊事中も、眠そうな顔をしていた。  料理を作っている時、斎藤は妙なことを言い出した。 「警察官って、ええよな。死んだら2階級上がるらしいんや」 「なんだそれ?出世したって死んだら意味ねえじゃん」  俺がそう答えると、少し間を置いて、「そうやな」と呟きた。眠すぎて、アホな上に思考回路も鈍くなっているのか。  その夜、俺が眠りについていると、ガサゴソと音がして目を開いた。枕元に置いてある携帯の液晶画面を見ると、夜中の0時を少し回ったところだった。 「先輩、どこ行くんすか?」 「なんだ、起きてたのか」 「いや、寝てたっす。寝てたけど、起きちゃったっす」 「悪いな、起こしちゃって」 「で、どこへ?」 「ちょっと飲みに行ってくる」 「え?こんな時間に?」 「最近、眠れねえんだよ」  こんな時間までやっている店はあるのか、弟分としては飲みについていった方がよいのだろうか。べつに誘われたわけではないから、ついていくのも迷惑だろうか。それよりも睡魔の方が勝ってしまい、そのまま寝てしまった。  その日、斎藤は帰ってこなかった。
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