辻 天馬

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第43話 猫爺  せっかく町を出たのに、岡山に戻されちまった。  岐阜県警から岡山県警に移送されると聞いた時、愕然とした。警察に捕まりたくなくて逃げてたわけじゃない。舜の前から消えるのが約束だから、遠くの刑務所に入れられるのが目的だった。よくよく考えれば、地元で起こした犯罪なのだから管轄の刑務所に入れられるのは当然だった。自分のアホさ加減に溜息が出る。  でも、俺の地元は岡山刑務所から離れているし、刑務所に入っている間は、舜と顔を合わせることはない。面会になんて絶対来ないから、約束はちゃんと果たせる。 こんなことなら最初から岡山で捕まっておきゃあよかった。逃亡するのに無駄な金と、無駄な犯罪を積み重ねてしまった。  刑務所の暮らしは、思ったほど苦じゃなかった。  朝早くに起こされ、ラジオ体操。毎日、掃除と工場で作業。炊事班に選ばれれば、炊事がある。ほんの少しの自由時間があって1日が終わる。玉城会での生活と然程変わりはなかった。  みんな休み時間には外で野球をしていたが、俺は野球が好きではない。待っている時間が長くて、何が面白いのかわからない。アメリカの刑務所じゃないから、バスケットゴールなんてない。俺の休み時間は、野球をやっているのをベンチに座って、ぼおっと眺めているだけだった。  夕方にも休み時間がある。雑居房(ざっきょぼう)で読書したり、何か書き物をしたりする時間だ。家族に手紙を書く者、被害者に謝罪の手紙を泣きながら書いている奴もいた。  同じ雑居房に『猫爺(ねこじい)』と呼ばれている80過ぎの爺さんがいた。岩爺もそうだが、自分より歳の離れた上の人間に渾名をつける時、大抵『爺』を付ける。考えることは、どこへ行っても一緒だ。  じゃあ猫爺の『猫は何かというと、猫爺の喋り方が独特で、特に笑う時はニャーニャー猫みたいな声を出すのだ。 「アンタ、何で捕まったんだよ」  初めの頃、雑居房に1人だけこんなヨボヨボのジジイがいるので、どんな罪で捕まってるのか興味が湧いた。こんなジジイが殺人や傷害事件を起こすと考えにくいし、空き巣なんか窃盗をするような俊敏さも感じない。人の良さそうな顔で、いつもニコニコしているから詐欺でもやったのか。それとも、むかしは超イケイケで、クソヤベえ罪を犯して、とんでもねえ長さの懲役を食らっているのか。 「なあ、何しでかしたんだよ。教えてくれよ」 「ニャハハハハ。秘密じゃにゃ」  笑って誤魔化して、教えてくれない。雑居房の他の奴らに聞いても、みんな知らないと言う。  ある日、猫爺が図書室から借りてきた本を右に置き、ノートに何かをずっと書いている。上から覗くと、漢字ばかり書いていた。右に置かれた本を見ても、漢字だらけで何が書いてあるかわからない。その漢字だらけの本に書いてあることを、ノートにそのまま写しているようだ。漢字の勉強でもしてるのか。小学生の時の、漢字の宿題を思い出した。 「猫爺、何やってんだよ」 「うんにゃ?写経じゃよ」 「シャキョウ?」 「そう。ニャハハハハッ」  何がおかしいのか、嬉しそうに笑っていた。  その本は、どのページを巡っても全部漢字だった。中学の時に嫌いだった漢文みたいなものか。漢文はカナカナの「レ」みたいのがあったり、読む順番のルールが覚えられなくて苦手だった。 「なあ。それ、なんて書いてあるんだよ」  猫爺が畳の上で行儀良く正座して文字を写している背後から、覗き込むような姿勢で俺は聞いた。  すると、猫爺は背中を反らし、頭頂部を下にして振り向いて、わからん、と言ってまたニャーニャー笑い出した。ジジイのくせに体が柔らかく、まるで猫みたいだ。 「これはお経じゃにゃ。意味はわからんが書いてると、にゃんか落ち着く。おみゃーもやってみろ」  猫爺に席を譲られ、俺もお経とノートを前にしてみる。猫爺はジジイのくせに筆圧が強いので、ノートの紙がボコボコと変形している。既に書き込まれているページが膨れ上がっていた。ページを捲ると、阿弥陀経とか華厳経とか法華経とか題名らしきことが書かれ、そのあとズラズラと漢字が縦に並んでいる。右に置かれたお経の表紙を見ると、般若心経と書かれていた。 「こっきゃら、(きゃ)いてみろ」  猫爺が指を差す。  仏説摩訶般若波羅蜜多心経、行を開けて、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、と書いた。 「おみゃー、字が上手いにゃー。元暴走族か」  違うわ、と突っ込んだが、字を上手いと言われて、正直照れるが嬉しかった。続いて、照見五蘊皆空、と書いた。意味は全くわからないが、猫爺の言う通り、なんとなく心が穏やかになってくる。漢字を間違えると、学校の先公のように注意された。1行書く毎に猫爺を見ると、ニャーと頷き次を促される。気づくと夢中で書いていた。  俺はその日から、昼休みの野球の時間も、夕方の休み時間も猫爺と一緒に写経をした。  作業の時間は、何のための部材なのかわからない木をひたすら切って磨く仕事をさせられていた。その作業中も、ひたすら頭の中で写経をしていた。  猫爺とずっと一緒にいるから、他の受刑者と揉めることもなく、模範囚として刑期が短くなり、12年で刑期を終えた。  俺が出所する日、猫爺はまだ雑居房にいた。  なんの罪状かは、最後まで教えてくれなかった。
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