1. 取り憑かれました

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1. 取り憑かれました

「あの、すみません亀谷さん……」  おずおずと後ろからかけられた声に私は、 「資料ならそこに置いといて」 と振り返りもせず言った。 遠慮がちに資料の束が私の傍におかれる。 と思ったら机の上に積まれた資料や雑誌やらがどさどさっと雪崩を起こした。 さっき置かれたばかりのマグカップ横倒しになり、さぁっと茶色い波が押し寄せてくる。 私は咄嗟にパソコンを持ち上がり席を立った。 「……っ。何するのっ。私のデータお釈迦にする気っ」  私は思わずコーヒーを運んできた今年入社の大型イケメン新人と女子社員の間でもてはやされている彼、伊沢恭弥のことをキーッと睨んだ。  自分が起こしかけそうになった大惨事に(私がパソコンを避難させたから未遂でおわったわけだけども)息をのんで立ち尽くしていた彼が、ギクシャクと首だけ動かして私を見た。 「すみません。手が当たってしまって……。僕、そういうつもりじゃなくてですね。ああっ、どうしようっ」 アホか。 私は心の中で憤った。 被害を被っているのはこっちなのだ。今やっているのは今月末が納期の作業で正直かつかつだったのに。作業を止めてなるものか。見渡して空いているの伊沢君の席だけだ。(当たり前だけど。だって彼は私生の前に立っている) 「君の席で作業してるから、私の席、拭いといて」  余計なこと、しなくて良いから。ついでに片付けようとかしないでね、とくぎを刺すと、茶色がかった柔らかそうな髪に銀色のフレームの整った横顔が、ピタリと止まった。右手には固く絞られた雑巾が握られている。  こいつ、掃除ついでに私の机の上を片そうとか思ってたな。ほんと、良かれと思ってやることが逆目に出るタイプなんたから。  すみませんとつぶやいた伊沢君に舌打ちして彼の席に陣取る。もう一回パソコンの画面とにらめっこだ。  そんな私たちの様子をデスクの向こう側から見ていた橋下さんと坂田嬢が伊沢君を挟み込む。  彼女達は入社四年目の二人組。  恭弥をあわよくば恋人にと狙う女子社員は多い。  そんな中でも営業部の女性社員の本気度は凄まじいのだが(営業の面々は顔で採ってるんじゃない? ってくらい美形率が高いのだ)、そんな彼女らに及ばないものの、うちの部のこの二人も無駄にキラキラしている。  橋下さんのパッチリとした二重まぶたを彩るアイシャドウは発色の良さからしてどこぞのブランドものだろうなとわかるし、坂田さんは親が弁護士という正真正銘お嬢様だから上から下まで相当お金がかかっている。  二人とも設計なんてどうしてこんなお堅くていろどりのない職業を選んだのだろう。チャラチャラしたいのなら他所に行ってよと言ってやりたい。  まったく。伊沢恭弥め。  仕事は平均的なのに顔面偏差値だけは良いから、女どもにちやほやされ放題なのだ。  まあ、橋下と坂田の気持ちわからないでもない。  設計という専門的な(そして地味な)部署のせいか、どいつもこいつもぱっとしない。ウチは正直空気がよどんでる。そんなところにピチピチの爽やかイケメンがやってきたのだから彼女たちのハンティングの標的にならないはずがないのだ。  伊沢君は今年入社の新入社員。とは言っても、もう二月だから、もうすぐ一年経つのかー。  性格は遠慮がち。大人しくて誠実そのもの。外見以外は特に面白みのない好青年。(褒めてるんじゃあないのよ)  成人男性をこんな表現で紹介するのもなんだけど動作がおどおどとしていて小動物じみている。  私が上司だからと言っていちいち顔色を伺うな。男だろっ。  学生時代にどこぞのコンペで優勝した期待の新人らしいがけど、慎重派なのかすぐ何かと私に確認してきて正直煩わしい。質問頻度が高すぎる。いや、もちろんいい加減な仕事をされたら困るから、いくらでも聞いてもらって良いのだけれど。その度に女子の視線が私に突き刺さる。勘弁して欲しい。  橋下の甘ったるい声が私の耳をたたいた。 「伊沢君、気にすることないんだって」  いや、気にしろよ。 「そうそう、机の上ろくに片付けない亀谷さんがおかしいんだって」 と言ったのは坂田。  あー、あー。正論あんがとねっ。  でも私あなた方と違って、そんな暇ありませんからっ。 「納期が押してて、イラついてるのは分かるけどさ、亀谷さんってキツイから」  ごめんねっ、仕事できるんで。仕事振られちゃうのよっ。 「かわいそう、伊沢君」  はいはい。かわいそう、かわいそう。  目の前でこれ見よがしに交わされる会話にイラつきながらつい心の中で合いの手を入れてしまう。  こういう時……あら、伊沢君気にしなくて良いのよー。掃除してくれてありがとー。と言った方が正解なのか。  ニコニコ後輩のドジを笑って済ませれば良いわけ?  それ、無理だから!  だって、仕事でしょ……って思うのはいけないのか?  そもそも私が仕事人間なのが問題なのか。  我ながら対人関係のスキルゼロ……事務的、愛想なしな人間だから?  だって仕方ない。入社以来いや学生時代からこれで通して来た。 ーー女に愛想って必要ですかッ?  私、亀谷静香三十歳。この建築会社で設計部第一設計課の主任をしている。 ーー仕事にオンナである必要なんてない。 だから、私は仕事が……好・き♡ 「……ちょっとあなた達、しゃべってばかりいないで仕事しなさい」  伊沢君に砂糖に群がるありみたいに集まっていた連中に向かってひやりと一言言ってやったら、おお怖っ……だって。なにそれ、何が怖いわけ? 鬼の形相してたわけじゃない。  カリカリとしてる気持ちを落ち着けようと一旦トイレに立つ。  洗面台に手をつき覗き込んだ鏡には、ファンデーションでも隠しきれない目の下の隈にカサついた頬した冴えない三十女が映っている。  思わずため息が漏れた。  私、常日頃無表情で通してるけど、決してロボットじゃない。  日々繰り返される嫌味や当てこすりに心がすり減らないほど強くもない。  ただ、自分の弱さに蓋をしてやり過ごしているだけ。  部下たちに多少疎まれたからってその度に嘆いていたら仕事はできない。そんなことでへたれてミスでも打てば、こちらの評価が下がる。クビを切られでもしたら……考えたくない。 恋人のいない私にはもちろんその先の結婚に逃れるすべもない。 私は、仕事にしがみつくしかないのだ。  そう、私はただ仕事にしがみついて、現実で溺れまいと、水中で足をばたつかせているみにくいアヒルなのだ。 童話のアヒルは美しい白鳥になったけれど、私が白鳥に変身する日はやってこない。それが現実ってやつだ。 背中越しにトイレから出ていく女子社員の後ろ姿をつい目で追う。体にピタリと張り付くニットにひらひらと金魚の尾鰭のように華やかなシフォンのスカート。すれ違う瞬間、鏡ごしに送られた視線に少々傷ついた。  女って生まれつきそういう生き物なの?  周りの同性と比較して自分の価値を値踏みする目。その目が鏡越しに言っていた。私の方が上ねって。  鼻白んだ私は鏡の中の自分を改めてチェックする。お決まりの淡いグレーのパンツスーツ。肩口までの髪はツヤがなく私を女だと判別するための装備にすぎない。ファッションセンスでもあればもう少し女らしくなれるのだろうか。  無理、無理。基本、会社で設計図や申請書類とのにらめっこの毎日だから、普段服装なんて気にもかけてないもの……。では、会社にこもりっきりか、というとそうでもない。クライアントの打ち合わせもあれば、建設現場に足を運ぶこともよくある。だからまあ服装は動きやすさ重視で、パンツスタイルが多い。スカートはもう何年も履いてない。  いつまでもトイレで油を売っているわけにもいかず私は渋々席に戻った。何食わぬ顔をしてパソコンに向かう。 「高橋さんは港湾の現場だそうです」  戻ってきた私に向かって伊沢君が報告してくる。(私を見つけるとすぐ寄ってくるのはどうなんだろう。彼は入社して半年経つのに。男って、いいとこ見せたがる生き物なんじゃあないの? こいつに見栄とかプライドはないんだろうか) 「あー、工事始まってるアソコね」  高橋さんは私より一年上の中堅社員。彼が今やっているのは新設の駅周辺の複合商業施設の案件だ。工事が始まっても、私たちの仕事は終わらない。細かな設計変更やいろいろな確認作業のためしばしば現場に呼び出される。私は了解と短く応じた。  そういえば現場といえば、職人さんたちに最初の頃はお嬢ちゃん呼ばわりされてからかわれたものだ。現場の親父どものえげつないセクハラ発言にも、鉄面皮で応じてはや八年。からかわれることは皆無になった。ついでに私にちょっかいを出そうという男性社員も社内に皆無になった。  それで良い。私は女を武器に仕事してるわけじゃないし、営業職ではないので不必要に愛想を振りまかなくてはやってられないわけでもない。それでも女である以上愛想は必須でしょという人間がいることは確かで。 というか大多数で。  男女問わずそういう、いわゆる『普通』の方々からは私は非常にウケが悪い。と、いうか嫌われている。  なんなんだろ……ただ仕事しているだけなのに。人間って面倒だ。  ついでに女の私が同僚の男性社員を差し置いて主任になった時には、部下になった男性社員の扱いがこれまた非常に面倒だった。同僚の頃はそれなりにうまくやっていたのに、意図せず仕事上でライバルになり、私が主任になったときには、彼の態度はすっかり変化してしまっていた。悪い方に。  結果、男って女より嫉妬深い生き物だとその時知った。最初の頃は打ち合わせの時間をわざと教えられなかったり、違う現場を教えられたり(教えたと思ったらそうくるか!)、裏で陰口叩かれたり。結局彼は、私に女のくせに生意気だと捨て台詞を残して退社して行った。風の噂ではデザイン系の個人事務所に転職したと聞いたけれど、その後は知らない。うちの業界は広いようでいて狭い世界だから、そのうち会うかもしれない。彼との再会なんて、あまり嬉しくない未来予想だ。だからその可能性については考えないことにしている。  とにかく仕事をこなして、人の何倍も仕事して。そうして今の私が出来上がっている。  話を戻そう。えーと、なんだっけ。  綺麗に拭かれた私のデスク。少しだけ残ったコーヒーの香り。思い出した。  後輩のドジを笑って済ませられるか、だった。  できない。笑って済ます? どうかしてるでしょ。もう少しで私のパソコンお釈迦になるところだったんだよ。データのバックアップは取っているけど、だからって作業中にパソコンお釈迦にされたらそこで作業止まる。止まるよね。え? パソコンなんていくらでもあるだろって? 冗談言わないでよ。使い勝手というものがあるでしょ。  仕事は毎日押してるし、ほんと毎日ハムスターになった気分で追いまくられてるから。ほら、あの、ネズミが中に入ってカラカラ回すやつ。なんていうの。回し車? あの気分だから、ホント。  しかも指導することになった後輩(伊沢君のことだ)は口下手なのか、未だに(もう何ヶ月経ってるんだか……)仕事の話か天気の話しかしたことがない。  あー、私相手じゃ話しづらい? そりゃ悪かったね。  とにかくまあ、そういうわけで、私としては心を広く持てなくても、そりゃもう仕方ないでしょって感じなわけで。 ……色々愚痴っても仕方ないや、仕事しよ。  半眼になり、今日何回目かのため息をついて思考を切り替えると、私は再びパソコンの画面とにらめっこを始めた。 その時、開いたドアをコンコンとノックする音がした。 「やあ、亀谷さん」  入ってきたのは営業課の中田久志だった。  部内の空気が一瞬で華やいだ気がする。いや、気のせいじゃない。華やいだ。  空気が許容ようギリギリのオゾンをまとって煌めいている。しかも心なしかなんかいい香りがするしっ。  全ては中田さんのせいに違いない。うんそう。きっと、絶対。確実に、そう。  すらりとした八頭身が目をひく。着ているのはなんてことのない既製品のはずなのに眩しいくらいキマっている。私より二つ年上の三十二歳。社内でも一二を争うイケメンだ。(いや絶対一位だけどね)ついでに営業成績も群を抜いていると聞く。彼がわざわざフロアの違う設計部まで足を運ぶなんて珍しい。何か問題でもあったのだろうか。私の胸の鼓動がぴょんと跳ね上がった。  気持ちなんて目では見えないはずだけど、中田さんにこの心の動揺を全て見抜かれそうで、それが怖くて私はみぞおちに力を入れてしまう。
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