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「この間は悪かったね。すごく助かった」
にこりと微笑むと中田さんが私に紙袋を差し出す。
後ろで橋下さんと坂田さんの二人が色めき立つ気配を感じる。
ハイエナどもめ。私が営業部のエースと話してるのがそんなに気になるのか。アンタたちのターゲットは伊沢君のはずなのでは?
優越感を奥歯で噛み締めつつ私は微笑み返そうと表情筋を動かした。
しかし残念なことに、頭の中で思い描いた大人の女性らしい余裕の微笑みができない。口元がひきつり細めた目元が瀕死の蝉のようにピクピクと痙攣する。
それは多分中田さんの前に立っているという緊張と普段顔筋を動かしていないせいで。
自分でも分かる。多分今自分は不気味なえへら笑いをしてあるであろうことを。
(絶対中田さんに変な顔って思われてるーっ)
絶対的な確信と凄まじい絶望感に打ちのめされる。ただ、崩れ落ちたくても背後にいる橋下と坂田の目が気になって膝をつくなんて無理と、なんとか足を踏ん張る。
結局私の心の友は自分自身のちっちゃなプライドだけなのだ。
中田さんが憐れむような目で見下ろす想像に震えながら、ちょっと伏せてしまっていた視線を持ち上げる。
あんまり見つめたら気持ち悪いって思われるかも……。でも目を合わせて話したい欲求が勝った。だって、せっかく中田さんと話す機会なのだ。仕事でなければ彼は私のことなんて相手にしないだろう。
果たして、中田さんはきらめくような微笑みを口元に浮かべ私を見てくれた。天使だ。中田さんの後ろに羽が見える気がする。
それでようやく胸の中の動揺が落ち着いた。
イケメンの……いや、中田さんの笑顔の効能ってすごいなぁ、とつくづく思う。きっと何かの新薬の材料なんじゃないかってレベルですごい、効果テキメンに私の荒れた心を癒してくれる。
彼が無理を聞いてもらったと言ったのは多分、先週頼まれた急な設計変更のことだろうと見当をつけて私は返事する。
「ああ、あの件ですか。なんてことありません」
しゃらりと顔筋ひとつ動かさずこともなげに言った私だけど、実はそのくせ背後でこの会話を聞いているだろう伊沢君のことをちょっぴり意識してしまった。
というのも……。
〈なんてことない〉なんて嘘っぱちだったから。
実はその時の(……もというべきか)私は他にも案件を抱えてあっぷあっぷだったのだ。
中田さんの頼みじゃなかったら、キレて机でも椅子でも蹴飛ばしていただろう。
だけど、他ならない中田さんからの頼み……断れるわけがない、というか断れない。
少しでも良いところを見せたくて……伊沢君を巻き込んだ。
中田さんからの仕事だってとこを黙って、「最重要顧客の仕事だから!」と手伝わせた。
ふと、ついさっきコーヒーをこぼした時の伊沢君の顔が頭に浮かぶ。彼だって疲れていたからあんなミスをしたのだ。あー……きっと今の中田さんとのやりとりでバレたよね……「最重要顧客」が中田さんだって。
私が……中田さんのこと好きだってバレてしまっただろうか、伊沢君に。
なんだ結局アンタもミーハー女の一人じゃないか、って軽蔑しているかもしれない……今この瞬間に。
私は、目の前の中田さんを見ているのに、心はどうしようもないくらい、後ろにいる伊沢君を意識してしまっていた。
こんなに追い詰められた気持ちになるのは入社後はじめて任された仕事でクライアントとの打ち合わせ日時を間違えて待ちぼうけを喰らわせた失敗をした時以来かもしれない。
「なんてことなくないよ。こちらこそ申し訳なかった。あの仕事、君の都合を考えずに急に頼んだのに。あぁ……でもほんと助かったよ、ありがとう」
そう言って中田さんは私の方に一歩足を踏み出した。
中田さんは脚が長いからそれだけで彼の手が、自分の手を握りしめて立つ私の腕に触れそうになる。(あ……)思わず後ろに下がって中田さんの手を避けようとする。でも彼の方が一瞬早く私の手をぎゅと握りしめてきた。
男らしく大きな両手が私の手を優しく包む感触にドキッとしてしまう。
中田さんの手のひらは少し乾燥してカサカサしていて、でも指先は柔らかく暖かかだった。
「……っは」
ーーなんてこと! こんな日が来るなんて!
目がまわりそうだ……あぁ、呼吸ってどうするんだっけ。
好かれてるって今にも勘違いしそうな自分自身を持て余してしまう。
(これは好意じゃない! 社交辞令だから。勘違いしちゃダメ、勘違いしちゃダメ……)
私は心の中でそう唱えるだけで精一杯で、中田さんのこの行動にどんなふうに対応したらいいのか良い案が出せないうちに、彼の手は離れていった。
その後、私の手に残されたのは大きな紙袋。
重たいってわけじゃないけどそれなりにずっしりしてる。
戸惑いながら受け取った紙袋の中身を上から覗くと、それは美味しいことで有名な老舗洋菓子店の焼き菓子だった。確か本店でしか扱っていない限定品で、行列に並んでもなかなか買えないはず……。もしかして並んでくれたのだろうか。私のために?
そうは思っても、
「そんな。お気持ちだけでもう……仕事をしただけですから」
と言ったのは、後で恥ずかしい思いをしたくないからだった。
遠慮して紙袋を返そうとする私の手の甲を中田さんが押さえる。え、これで直接接触二回目! やばい、嬉しくて倒れそうだ。
「みんなで食べて欲しいな。これからも迷惑かけるだろうけど、よろしくね」
そう言われてようやく気がついた。
(あー……、私にくれたってわけじゃないってこと)
危なかった……、そしてよく我に返ったと自分を褒めてあげたい。
正直本心を言えばがっかりしたけれど、私の中ではかえって中田さんの株が上がった。私ばかりを持ち上げず他の人にも配慮するところが大人だ。私も周囲からあの人ばかりと思われずに済むから助かる。中田さんが営業で抜きん出て成績が良い訳だ。さりげなくこういうことできるんだもの……された相手はイチコロだろう。
「……では、ありがたくご馳走になります」
「うん、ぜひそうしてくれると嬉しい」
軽く首をかしげて笑うその瞳ににじむ柔らかな優しい光はデキる男特有の自信と色気を含んでいた。
去って行ってしまったその背中をなんとなしに見送り、ふわふわとした気持ちでデスクに戻るとまちかまえていた感じの伊沢君が私に声をかけてきた。
「先輩、このメールなんですけど……」
「は?」
我ながら、返事をした声があからさまに平坦だった。
だって、まだ中田さんとの会話の余韻に浸っていたい……。
私が不機嫌だと察した伊沢君は、
「あ、誤送信ですね、多分……。会計課宛だと思うんで、まわしときます」
た、勝手に自己完結した。
ちょっとかわいそうかなって思わないこともなかったけれど、それで済むなら大したことではないのだろうと私は彼の言ってきたことをを大して気にしなかったんだ……。
*
ウチの会社は基本残業NGなので(つまり基本じゃない時もある。そういう時は徹夜になることもある……不本意だけど)六時に仕事を切り上げ、七時過ぎには私は自分のアパートに帰りついていた。
疲れた、首も腰も痛い……というかもお死んでいる。
ふらふらしながらシャワーを浴びパジャマに着替えてゾンビのようにベッドに倒れこむ。
夕食は……食べる気力が起きなくてすっ飛ばすことにする。明日の朝レンチンすればいい。
食事なんてさ、自分を動かすための燃料でしかない。動けるならそれで……。
で、ふと考えた。私が味を楽しむ食事をしたのっていつのことだろう?
今日も忙しかった。突然の設計変更なんてざら。その度に現場へ行って変更箇所や部材の仕様について確認して。
設計ってデスクワークだと思ってたのに。めっちゃ歩いてる。とほほ、歩数計つけたらきっとものすごい。
設計=デスクワークっていう期待を裏切られた気もするけど、世の中案外そういうものなのかもしれない。
事務の子だって、受け付けの子だって……座ってばかりじゃないはず。受け付けなら歩かないだろうか、そういうのは偏見?
友人が少ないから、人に聞くことさえできない。
建築会社には好きで入ったけど。仕事だって充実してるけど。
気がついたら三十歳。
たまに送られてくる結婚を知らせるハガキにも焦らなくなってきた。
ただ、三十の誕生日を一人迎えた朝はなんだか落ち込んだ。
いい歳したオンナのくせして誕生日の朝を一人で迎えるって、すごく寂しい。
白状してしまえば、いつかきっと私だけを見つけてくれる王子様が現れるんじゃないかって淡い期待を捨てきれていない。笑えるでしょ。
職場では無表情鉄仮面の私の正体が、三十歳にもなって理想の王子様を待っている乙女だなんて…。。
(やるせないなぁー)
王子様なんて……。
考えても仕方ないのだ。仕方ない時は眠るに限る。
目を瞑れば黒くて優しい闇が私を包み込む。
私はあっという間に眠りにおちた。
*
嫌な夢を見ていた。
高校時代の夢。
思い出したくないのに、時々夢で再生されてしまう私の黒歴史。
私だって昔からこんな無表情、愛想なしなひねくれ者だったわけじゃない。
学生時代は素直だったし大人しかった。(あ、今だって大人しい。仕事に追われてツンツンしてるけど)
夢の中。
景色が、時が流れてゆく。過去へ、過去へ……。
初めて恋をした、高一の夏。
これは、奥手だった私の初めての恋。
相手は二つ歳上の先輩。
陸上部でハイジャンの選手をしていた人。
部活が終わる夕暮れ時、軽々と白いバーを飛び越え彼の鍛えられた長身がマットに沈む。
私は当時卓球部で、嫌々走り込みの最中。垣間見た先輩が大きな鳥に見えた。一瞬で惹かれた。
羽が付いているみたいに彼の体が宙に浮きバーを超えてゆく。まるでスローモーション。目に焼き付いた。いや。焼き付けた。
現金だけど、それを見て以来嫌いだった走り込みに積極的になった。おかげでスタミナはついた。だって卓球は室内競技。走り込みで外に出なければ、陸上部がいるグラウンドに出るなんてない。
しかしながら、私はラッキーだった。
なんと、委員会が先輩と一緒だったのだ。なんのって図書委員会。当番が一緒になり並んで図書室のカウンターに座った時は緊張のあまり頭が真っ白になった。
先輩が返却の本を受け取る仕草にうずうずして。
時折私を映す視線にうずうずして。
胸の奥からこみ上げてくるそのうずうずに耐えきれず、逃げるみたいに書架の整理に精を出したことは甘酸っぱい恋の思い出だ。
先輩と肩を並べて座っているだけで、駆け足になっている鼓動を気取られそうでいつもドキドキしっぱなしだった。
そして……。
先輩の、最後の当番の日。
私は意を決した。
ラブレターを書いたのだ。
手紙は本の間に挟むことにした。
本を返す瞬間にさりげなく渡すつもりだった。
家で何度もシミュレーションした。
もちろん先輩が一人でいるときに渡そうと考えていた。チャンスがなければ諦めるつもりだった。
その日図書室のカウンターをのぞくと、果たして先輩は一人で座っていた。
渡すなら今しかない……足が震えた。
カウンターまでの数歩が何キロにも思えた。
胸の音ばかりがやけに大きくて。
私の視界には先輩しか映っていなかったんだ。
ようやく先輩の前に手紙を挟んだ本を差し出した瞬間、先輩じゃない別の誰かの手が本をつかんだ。
(えっ!?)
呆然と顔を上げると本をつかんでいるのは私と同じ一年の男子だった。確か隣のクラスの、海藤君。
挟んだ手紙に気づかないで! と願ったけれど、その淡い水色の封筒はいとも簡単に発見されてしまった。
顔面蒼白顔な私と。
何もわかってない表情の先輩と。
そして、海藤君が水色の封筒をページの間から引き出す。
ーーやめて、開けないで。
*
……。
意識が浮上してくる。
私は嫌な夢の残骸をのみくだした。
それを丸めて握ってポーンと放り出すイメージをする。さっきまで見ていた夢が私の記憶の辺境の片隅に転がったところで、パチリと目を開けた。
部屋の明かりがまぶしい。とっさに閉じたまぶたの裏が白く光っている。
時計を見ると針は二時を指している。
まだ真夜中じゃん。
また明かりを消さないうちに寝ちゃったんだ、とためいきがでる。電気、消さないと……。
億劫だけど仕方ない。細目を開いて私は起き上がろうとしたのだが。
(! ウソ? 身体が動かないっ)
布団に仰向けでいる私の視界に、実はそれまで見ないように意識していたソレが否応なしに入ってきた。
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