謹賀新年

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謹賀新年

目を閉じたまま、落ちる。落ちる。落ちる。落ちる。 アマノ羽衣を脱ぎ捨てて、兎は宇宙を、地球に向かって落ちていた。 最初は、息の出来ない苦しみが。次に、全身の肉を焼かれる激痛が、兎の体を襲い来る。 耳元で自分が焼けこげる音を聞きながら、兎はうっすらと黒目がちの瞳を開き、痛みの代償に得る美しい蒼だけは見落とさまいと目を凝らした。 (あぁ、憎たらしくも美しい) 感慨にふける間もなく耳の鼓膜がはじけ飛んだところで、兎は意識を失った。 〇 「ハッ…は、は」 兎はやっと目を覚ました。 安定せず浅い呼吸、満足に動かない手足、皮膚の痛みは引ききっておらずピリピリと痛み、鼓膜は回復したようだが耳鳴りが酷い。 (着いたのか…?) わずかに動くだけの範囲で首を動かし大きな瞳で辺りを見渡すと、何もない空間に大樹が一本だけ生えている光景を確認し、ほっと胸をなでおろした。どうやら無事に目的地に到着したらしい。 安心して空に目を向けると、馴染みある曇天から雪がちらちらと降り落ちてきて、頬にひたりと触れては水へと転じ、焼けこげた皮膚の上を滑っていく。 “―――…♪” (…ん) 優し気で、透き通った、聞けば蕾もほころぶような耳心地の良い音が、耳鳴りに交じって聞こえた気がする。痛みをこらえながらも首を動かしそちらを見ると、こちらに向かってくる人影がうつり、兎は肩でゆっくり溜息をついた。 そうであった。ここは箱庭。御使いの場所。毎度来るたび落下の衝撃か、はたまた月の悪戯か、記憶が頭から抜け落ちているがたった今はっきりと思い出した。 「…ト、ら」 傍で見下ろす人影の名を呼ぶ。かすれてはいるが、声はほぼ機能を取り戻しているようだ。 「ふふふ、さすがに何度も頭を打てば物覚えも好くなるようじゃの、卯よ」 鼓膜の調子も整い始め、呼びかけに応じた寅の声が頭の中で心地よく響く。内容自体は馬鹿にされた感が若干否めないが。 肺が修復されたのか、急に呼吸が楽になり、卯はその場に身を起こす。 「ご壮健そうだな」 少年とも少女ともとれる華奢な体が所々焼けこげた姿は見る者すべてに心痛を与えるのだろうが、傍らに立つ女形の獣に効果はない。むしろ見世物を楽しんでいるようですらある。 「ふふ、立つのを手伝ってやろうか?」 「ご配慮痛み入るが不要だ。既にほぼ完治した」 「いつ見ても不便な体だのう。いや、神からすれば便利な体か」 「誠おっしゃる通りだよ」 卯は皮肉交じりにそう言うと着物についた雪を払い落とす。童子水干と呼称される姿は月で着用している着物と似ているが、服の色彩が紅白染めになっている点が異なっている。今や紅白を見るたび地球を感じざるを得なくなった。 「ずっと寝ておれば膝枕などしてやったぞ?吾は今気分が好いからのう」 「ご遠慮させて頂くよ。後に皮をはがされ吊るされては困る」 「ふふふ、それは経験から出た口か?」 「…」 長い耳を指先で弄ばれるのをさせたいようにさせながら、大樹へと向かう途中でとあることに気が付く。雪が頭に積もらない。目線の先では雪がちらついているのに、体を濡らしている気がしない。 「寅」 自分よりもはるかに身長の高い寅の姿を上向いてとらえたとき、卯は驚きで目をむいた。 「な、な、何をしてらっしゃるんだ貴女はッ」 あまりに優雅に、自然に、当然のように持っていたので全く気が付かなかったが、寅が頭の上にさしているのは傘ではなく緑の生い茂った枝である。この世界に枝が採取できる場所など一箇所しかない 「…?なにか吾がしたか?」 「そ、それは件の大樹の枝じゃ」 「そうだが、それがどうした」 ここまで言っても何を焦っているのか分からないでいる寅とは逆に、卯の心中は焦燥で満ちていく。 「それがどうしたって、四季神様の大樹であらせられるでしょう!?」 「では卯は吾の頭に雪が積もっても好かったと申すのか、ひどいのぉ」 心底傷ついたと言わんばかりに着物の袖を目元にかざし、悲し気に眉を下げる姿を見ても、卯は少しも怯まない。 「よくよく考えてみれば――…」 そこで言葉を飲み込んだ。 卯を見る寅の目が、愉し気に、愉し気に、三日月形に笑んでいる。反応を見て楽しんでいるのだろう。 (そう。よくよく考えてみれば、寅が自分をむかえに来ることなど今までに一度もなかった) それが今年はどういう訳か、わざわざ大樹の下からこうして出てきていたのだから傘を手にしていてもおかしくはない。それが大樹の枝だったという話である。 「面白かったであろ?」 「…どこが」 「主に、心の臓のあたり」 呆れかえっていた卯の目がまたも丸くなる。 寅の指す言葉の意味はこうだ、月では拍動など必要なかっただろうと。 「…、誠に、心臓に悪かったよ」 「ふふふ、吾も面白かったぞ?卯のそのたいして動かぬ顔が歪む様は極上であった」 「貴女は…、いや。もう構いませんよ、全く。それにしても枝を折られた件はどう申し開きされるのさ」 「せぬ。樹なのだからいずれ元に戻ろう」 悪びれた様子など一欠けらも見せず、寅は真っすぐ前を向いて笑んでいた。何かが起きたとしても、それすらもこの獣は楽しんでしまうのだろう。 大樹の下に着くと折られた枝が目に入り苦笑いを浮かべる。この折れた枝が元に戻るかと一年肝を冷やさなくてはならない。 「ところで、丑もまたご健壮であられたか」 「む、丑か?相変わらずの仏頂面で面白かったぞ」 「それは何より」 「会いにやってやれば好いであろう。丑が牛で、卯が兎の時に」 卯はその言葉を聞いて俯くと、膝を抱えて丸くなる。誰もが寅のように、会いに行きたいときに会いに行けるほど、時間も能力も備えていないのだ。などと返答したところで一笑されてしまうだろうから、卯は口をつぐんだ。 「寅はお会いになっているんだろう。寅から拝聴できるだけで、ウは…」 「毎度のことだが煮え切らぬ獣だのう。そうじゃ、では今度、月まで出向いて攫ってやろう」 「…御冗談を」 「ふふふ、月には強い奴はおるかのう」 本音はそっちだと理解しながらも、減らず口と自信満々の様子に安心感すら覚える。毎度この獣から十二支の役目を引き継ぐこの機会の度に、この獣が神でもあることを痛感するのだ。 「さて、そろそろだぞ」 二匹で空を見上げると同時に、心を静かに満たす低い音が箱庭中に響き渡る。 来る年の瀬、始まりの日。 鐘が一つ突き終わることには、隣に寅はいなかった。卯はおいて行かれた折れた枝を引き寄せて抱えると、ゆっくりとその場から立ち上がる。 寅と同じく前を向き、丑と同じく生真面目に、胸に脈打つ心臓は、卯の全身に熱い心を流していく。白い息を吐きながら、吹雪始めた箱庭の中、瞳の中に月の光輪を浮かべて言った。 「この度も、共に宜しく申し上げる」
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