鏡の向こうに

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廊下の奥にある鏡は、物心がついたころからどっしりと立っていた。 叱られたり、悪い成績をとったり、同年代の子と口論したり、何か悪いことが起こるたびにその鏡の前でへたり込んでうなだれていたものだった。誰が磨いたのかわからないけれど曇りなく、陽に当たることがなくて輝きこそしないものの美しかった。磨かれた鏡の中でへたり込む自分は同じ自分の姿であるのに多少は澄んできれいな心を持っているように見えた。 少し大きくなると毎月、あるいは毎週、ひどいときは毎日そこにへたり込んだ。年を追うごとに叱責が増えて、何かに常に追われているかのような焦燥感に苛まれるようになったのだった。憔悴しきって無残な姿を鏡に晒している時でも鏡はなお澄んで美しく、その世界の自分は叱責や罵詈雑言によって悩ましいのではなく、何か恋煩いでもしているかのような憂いだった。 思春期を追い詰められて過ごすうちに、次第に身体もおかしくなっていくのに気が付いた。ある時ついに鏡の前にへたり込んで立ち上がることができなくなった。あまりに長い間へたり込んでいるので、怒鳴り声がして、本来ならだれも来ることのない廊下の奥に大人たちが来ようとしていた。 思わず縋るように鏡を振り返った。もうこの場所も安寧を永遠に失ってしまうのだろうか。焦燥と絶望で虚ろな目をしていた。鏡もこの時ばかりは曇ったような表情をしていて、湖のような美しさを失っていた。 私は思わずかつての澄んだ姿を想って願いを口にした。 「あなたになりたかった」 鏡の中の目がたちまち澄んで機嫌よく潤むのが、一瞬だけ見えた。
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