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 闇の中、重々しいほどの息苦しさを感じて、天玄院(てんげんいん)恭親(やすちか)は目を覚ました。小雨の降る音がさざめいている。照明の消えた部屋の中で、カーテンの隙間から入る曇天の光だけが一筋見えた。  恭親は夢を見ない。いつも暗闇へ落ちるように眠りについて、感じるのは自分の呼吸だけだった。それでも、唐突に苦しみに襲われて目覚めることが多々あった。首だけをもたげて布団の上に目をやる。原因がそこにいることを予想しながら。 「おや、おはよう。恭親」  足を組んだ格好で、袴姿の女がこちらを見ていた。恭親のちょうど腹上あたりに座っているが、重さは感じない。ひらひらと手を振って朝の挨拶を寄越してくる。恭親は溜め息混じりに言った。 「……おはようございます、緋影(ひかげ)さん」  袴の女――羽矢(はや)緋影(ひかげ)はにっこりと笑んだ。嬉しそうだった。  頭をかきつつ恭親が起き上がる。ひらりとベッドから緋影が降りて、そのまま床へ音もなく沈んでいった。階下へ行ったらしかった。恭親も布団を抜けて、寝室の外に出る。まずは顔を洗おうと思った。  祓い屋を営む恭親の、自宅兼事務所が今いるこの一軒家である。築四十四年の6LDKで、恭親独りには広すぎるくらいの家だった。持ち物も少ないので使っていない部屋も多い。それでもここを買ったのは、土地の特徴として呪念が集まりにくい場所だったからだ。自分の領域内を平穏に保つことが恭親の最重要目的だった。 (……まあ、緋影さんがいる以上、本当に安寧の地というのは、俺にはないのかもしれないな)  水ですすいだ顔を上げると、鏡越しに背後の緋影と目が合った。タオルで拭う恭親の一挙手一投足を興味深そうに観察しているが、恭親は放っておいた。毎朝のことなので、相手にするほうが疲れることを分かっていた。黙ったまま居間へ向かうと、緋影もついてくる。 「あ。また、そんな食事で済ませて」  緋影がやれやれと言うように眉根を寄せている。恭親は台所からとってきた食パンを焼きもせず何も乗せず、そのまま食べた。食事に彩りを与えようという気力が失せて久しい。椅子の上で立て膝して腕を乗せ、気怠げにパンを食む。しとしとと降る雨の音が心地良かった。 「……良い日ですね」  ボソリと呟いた声は実に陰気臭かったが、恭親にとっては珍しく、気分の落ち着いた朝だった。 「まあ、今日は依頼もないしねえ。ゆっくりしたらいい……おっと」  テーブルの上にひらりと腰を据えた緋影が、何かに気づいたように窓へ目を移した。つられて恭親も目線を向ける。すると、窓の外から、コツコツ、と小さいノックのような音が聞こえた。恭親は立ち上がり、緋影は肩を竦めてみせた。 「お休みの日、とはいかないようだねえ」  カーテンを開くと、窓ガラスから数センチ離れて、紙人形が浮いているのが見えた。少し開けた窓の隙間からするりと室内に侵入してくる。恭親が手を差し出せば音もなく乗ってきて、その身を開いた。便箋用に使われる式神だった。 「……」  内側に書かれた内容にさっと目を通す。緋影がテーブルの上から尋ねてきた。 「何の用だって?」  恭親は読み終えた式神を小さく折りたたみ、くずかごへ捨てた。 「組合からです。――"返し"の依頼ですよ」
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