きみは流星

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☆  あかりと出会った時、僕は、大学病院で働く勤務医で、彼女は、配属されてきたばかりの研修医だった。  正直言って、彼女と初めて出会った日のことは、全く覚えていない。研修医は、毎年何人もやって来ては辞めていくし、彼女のことも、そんな大勢のうちの一人としてしか認識していなかった。  だから、彼女を「遠坂あかり」として認識したのは、夜勤明けに立ち寄ったプラネタリウムで、声を掛けられた日が最初だった。 「白鳥先生?」  目を開くと、見覚えのある女性の顔が、僕を覗き込んでいた。周囲がやけに明るいことに気がつく。今、自分がどこにいるのか分からなくて、束の間混乱した。 「ああ、良かった」  ほっと息をついて、彼女が言う。 「スタッフさん、とっても困ってたんですよ。どんなに呼び掛けても起きないから、どうしようって」  はやく出ないと、次の回が始まっちゃいますよ。  彼女に言われるがまま席を立ち、プラネタリウムの外へと出る。どうやら、公演時間のほとんどを、寝過ごしてしまったらしい。箒を手にしたスタッフが、苦笑を隠し損ねたような表情でこちらを見ていた。 「えっと、きみは確か……」 「遠坂です。研修医の」  そう言う彼女の横顔は、頬がこけていて、顔色が悪かった。大きな目の下には、青っぽい隈ができている。 「なぜ、こんなところに」 「先生と同じ理由です。ただ星を見に来ただけ。そしたら、眠ったままびくともしない先生の姿をお見掛けして」 「なるほど」  呟きながらも、夜勤明けにプラネタリウムに立ち寄るような酔狂が、自分以外にもいることに、僕は驚いていた。 「星がお好きなんですね」  僕の言葉に、彼女の瞳が固まった。 「……別に、そういうわけじゃありません」  では、私はこれで。  ぺこりと頭を下げて、すたすたと立ち去っていく。ヒールから伸びる細い脚が、なぜだか痛々しげに見えた。  しかしその一週間後、僕は再び遠坂あかりに起こされることになった。 「いい加減にしてください」  パチパチと目を瞬く僕を、彼女の呆れ顔が見下ろしている。 「ほんと、迷惑ですよ。プラネタリウムの方にも、私にも」 「……すみません」  情けなさと申し訳なさに、身を縮こまらせる。今日も懲りずに、チケット代1900円を無駄にしてしまったらしい。  肩を落とす僕を見て、あかりが表情を緩める。 「眠いなら、寄り道しないで家へ帰ればいいのに。なんか、先生って病院にいる時と印象違いますね。病院じゃ、隙なんてひとつも見せないような雰囲気なのに」  人の心が分からない、氷の外科医。  陰で自分がそう呼ばれていることを、僕は当然知っていた。  自分ではそんなつもりはないのだが、僕の言葉は率直すぎて、人を傷つけるらしい。泣かせた研修医の数が、片手で数えられなくなる頃には、僕は完全に孤立していた。その噂は、当然この人の耳にも入っているのだろう。 「病院のみんなが知ったら、びっくりするでしょうね」 「言わないでくださいね」 「言いませんよ、もちろん」  楽しそうに言うあかりを見ていると、少しだけ愉快な気持ちになった。  建物の外へ出ると、夏の日差しが目に滲みた。  太陽に照らされると、彼女の顔は、さらにやつれて見えた。他人のことを言えたものではないが、不健康そのものだ。 「遠坂さんこそ、顔色悪いですよ。はやく帰って眠らないと」 「そんな言い方って、女性に対して失礼ですよ」  じろりと僕を睨む。それから、「まぁ、おっしゃる通りなんですけど」とため息をついた。 「人は死んだら、星になるって言うじゃないですか。私、研修医になってまだ半年も経ってないのに、数え切れないくらいたくさん、人の死を見てきたんです。……最初は本当にショックでした。何日も眠れないくらいに。だけど、今ではなんだか、人の死に慣れていく自分がいて。そんな自分が、恐くて」  振り返り、さっきまで自分たちがいたドーム状の建物を指さす。 「だから私、ここへ来るんです。星を見て、亡くなった人たちのことを思い出すために」 「死んだ人が星になるなんて、科学的にあり得ません」  僕の言葉に、あかりが目を見開いた。  若い研修医が、よく陥るジレンマだった。患者に感情移入し過ぎて、自分の心のバランスを崩し、辞めていく。そういう人を、これまで何人も見てきた。 「死んだら、人は塵に帰るだけです。それ以上でもそれ以下でもありません。いちいち感情移入していたら、身が持ちませんよ」 「……そんなことは、分かってます、けど」  呟き、うつむいたその顔を見て、ああ、と思う。やってしまった。僕はまた、不用意な言葉で人を傷つけた。 「ごめんなさい、失礼します」  去っていく背中を、僕は、追いかけることができなかった。  その数日後のことだった。  くたくたに疲れきった身体を伸ばしながら病院を出ると、そこにあかりがいた。  信じがたいのだが、状況的に、僕のことを待っていたらしい。寄りかかっていたコンクリートの壁から背中を離し、「お疲れさまです」と呟く。  その日は準夜勤といって、昨日の夕方から深夜までの勤務だったのだが、急患が出て、退勤がこんなイレギュラーな時間になってしまった。だから彼女は、いつ退勤してくるかも分からない僕を、ここでひたすら待ち続けていたことになる。 「あれから、自分なりに考えてみたんです。あの時の先生の言葉の意味を」  辺りには静けさが満ちていた。夜明けの空に、薄紫色の雲が漂っている。 「ああいう言い方って、ちょっと、どうかとは思います。無神経で、率直すぎ。正直言って、傷つきました」 「……はい」 「でもあれは、先生なりの優しさなんですよね? 分かりづらいけど」  目を瞬く。彼女は、微笑んでいた。 「あの日、家に帰ってから私、久しぶりに自分の顔を鏡で見ました。酷い顔でした。ちょっと、自分でもびっくりするくらいに」  まさに、医者の不養生ってやつですね、と苦笑する。それから、表情を改めて僕を見た。 「綺麗事に聞こえるかもしれないけど、それでも私はやっぱり、覚えていたいんです。亡くなった人のことも、未熟な自分のことも。だから、それができるくらい、強い人になりたいなって、そう思いました」  だから、ありがとうございます。  そう言うあかりの瞳は、とても美しかった。そのまなざしに、思わずたじろぐ。  僕は、この人のことを、少々見くびっていたのかもしれない。僕が思っていたより、この人は、ずっと強い。  あかりが、朝焼けの空を指さす。その先に、一粒の星が輝いていた。あれは、明けの明星。金星。夜明けの狭間に光る星。 「私、ほんとは星が大好きなんです。こう見えて、学生の頃は天文部だったんですよ?」  目を細めて、あかりが笑う。  思い返せば、あの時からだろう。  僕の心に、彼女が住み着くようになったのは。
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