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距離にして、たった数メートル足らず。
ささやき声さえ聞き取れそうなその場所で、男は呑気にひっくり返ったままアオイを見つめている。
(……気配もなかった)
アオイの背に冷たいものが流れた。声をかけられるまで、そこに男がいることさえ気づかなかったのである。
「ごめんごめん、驚かせたかな。勝負中は声をかけないほうがいいかと思って」
男は細身の黒いスーツ姿。幼く見えるが実際それほど若くはないだろう。少し白髪のある頭はすっかり乱れ、汚れた地面に広がっている。
40歳前後か、とアオイは算段した。人の年齢を見極めるのは難しい。
同時に、人の善悪を見極めるのも難しい。
「躊躇のない攻撃が素晴らしい。良い腕だね」
ひっくり返ったまま、スーツ男は笑っている。毒のない、妙に人懐っこい……犬のような笑顔だ。
そして彼は、その笑顔そっくりな犬を抱きしめている。
「ほら、ポチもすごいねって言ってる」
男は無邪気な顔をして、犬の手をつかんで振って見せた。
笑顔で動物を連れていても、いい人間とは限らない。アオイは笑顔で人を殺す人間を大勢見てきた。子供を油断させてさらう、そんな卑劣な犯罪者も多くいる。
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