蚕の見る夢

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 しんしんと雪が降る。  深く降り積もる雪が、私の心も閉じ込める。  これが雨ならば、霰ならば、こんなふうに私の心を救うまい。  ただ雪は静かに、世界を白く染めていく。その中で私はひっそりと、ゆっくりと自分を取り戻す。  私がこの町に住んだのは十四の秋から冬のほんの数ヶ月のこと。両親の泥沼の離婚裁判だとか、よくある学校でのもめ事だとか、いろいろなものが重なり、ある日声が出なくなった。右手の人差し指には、自分で噛みつく癖のせいでできた大きなタコまであった。  今まで逆らったことすらないおとなしい娘の声なき悲鳴に、母は驚き、困惑した。  そうして、東北にある自分の実家に私をしばらく置くことにした。春が来る少し前、何事もなかったかのように私は東京へと戻った。あれから二十年。   「しばらくここにいていい? 雪国をモチーフにしたイラストを依頼されたの」  玄関に着くと、口からすらすらと新幹線の中で考えた言い訳が出てくる。仕事帰りに衝動的に新幹線に飛び乗って、ここに来てしまったのだ。荷物も薄いバッグひとつ。化粧水もなければ替えの下着もない。  実際のところ、長年付き合った恋人と別れ仕事も思うようにいかず、にっちもさっちもいかなくなった私は、再び二十年前と同じようにこの場所に逃げてきたのだった。  連絡もなく夜半にやってきた孫娘に、少し驚きながらも祖母はあっさりと迎え入れた。肩や頭に薄く積もった雪を払い、濡れた靴下を脱いで部屋に入る。 「明日から吹雪だけ。今日来てよかった。お汁つくっから、まってな」 「今から? 大変じゃない?」  祖母は、なぜだか夜遅くに里芋の皮を剥き出した。すばやく野菜やきのこ、冷蔵庫から出した鱈を切って鍋に入れるとストーブの上に載せた。  正直言うと、お腹は空いていた。突如ここに来ることを思いついたから、昼からなにも食べていなかった。  ふと、駅からここまで来るタクシーの運転手が、私のパンプスと薄いコートを見てぎょっとした顔を思い出し、笑ってしまった。案の定足はずぶ濡れになり、膝から下は骨の芯まで冷え切っていた。着替えなんて勿論ないから、そのまま濡れたズボンを脱いでストーブで足を温めていた。  ぐつぐつと鍋の煮える音がし始めた。大鍋で煮るとなぜかおいしく感じるのはなぜだろう。 「あんたが昔描いた絵見て、じいちゃんがあんまりうまいんで、仰天してたなぁ。天才だゆうて」 「うまい人なんて世の中には山ほどいるからねぇ」  窓を見ると、雪は先ほどよりずっと勢いを増していた。  真っ白な世界に閉じ込められる新鮮さは、十四歳の私を魅了した。こちらの都合などまるで無視して、疎ましく、美しく雪が積もっていく。    延々と続く曇天だとか、肺まで凍らせそうな澄んだ冷たい空気は、不思議とくたびれた少女には心地よかった。部屋の隅には、祖母が気まぐれに飼った蚕がおり、ただ繭の中で少しずつ姿を変えていく不格好な虫に自分を重ねた。  外は凍えるほどに寒く、暖かい部屋の中で時間を持てあました私は、冬の間祖母の家にこもり水彩絵の具で心の赴くままに絵を描いていた。  自分好みの淡い色合い。重ねていくほどに、混沌とした心が静かな世界に深く沈んでいく。その不思議な感覚は、カウンセリングだとか、教師やら両親の励ましだとか優しさよりも私を癒した。 「ちぃちゃんは絵がうまいねぇ。こんだけうまけりゃ将来は立派な画家さんかな」  時折やってくる祖母の誉め言葉は、どこまでも本気だったが、絵を仕事にすることの難しさは中学生でも想像できた。  祖母は、私に学校へ行けと言ったり、将来のことを心配しすぎたりすることもなく、雪かき要員と話し相手ができたことを純粋に喜んでくれた。  そのほどよい無関心さは、周りの大人たちの責任感による焦燥よりも私を優しく包んだ。  受験に不利になるとか、甘やかすことになるとか、そういう母の不安が何より私には痛かったからだ。結局冬の間に私はこの町を去った。長い冬を耐えて迎える春はさぞかし美しいだろうと思いながら。  美大を卒業した私は、小さな会社に勤めながら、こっそりと絵本を描き続けた。この世にはないような美しく優しい世界を。誰よりもそれを必要としていたのはほかならぬ自分だったのかもしれない。  絵の仕事は小遣い程度の収入だったが、それでもよかった。自分の好きに描いているものが金にならないと不満を抱くほどの傲慢さはもうない。  恋人も何人かできたが、一緒に暮らすことはできなかった。私が抱える飢えや渇きは、誰かといることでは満たされなかった。右手を動かし続けることでしか埋められない真空がそこにはある。 「できた。できた」  きっと普段ならもう寝ているはずの祖母が、最後にせんべいを入れた汁をもってきてくれる。  視界が曇ったのは湯気だけのせいではないが、私は目をこすり、なるべく普通の顔をしてそれを頬張った。  熱い。うまい。 「じいちゃん死んでひとりで大変じゃない? 雪かきとか」 「うん。大変だねぇ。近所もみんな年寄りだし」 「私、手伝うから冬の間ここにいてもいい?」 「そりゃいいけどねぇ。仕事大丈夫なん」 「今、イラストの仕事は在宅でできるんだ」  半分嘘だった。絵の仕事はほとんど干からびていて、小さなデザイン会社で貯めたお金は、自分ひとりなら一年くらいは地味な暮らしができるという程度だった。  絵の仕事はあるにはあるが、それで暮らすにはほど遠い。勝てない勝負をして夢見るほどには私はもう若くはなかった。結局、描きたいなら仕事をしながらゆっくり自分のペースで描いていくしかない。  負けは負け、それを認めたほうが生きるのは多分楽になる。なにものにもなれないまま、自分を励ましたり、あわれんだりしながらここまで来たのだ。  明日上司に連絡するのに、このまま辞めさせてくださいと言うべきか、しばらく休ませてくださいと言うべきか考える。どちらにしたって非常識だ。開き直るほかない。  こっちで農業のバイトでもするのも悪くないかななんて思う。逃げているだけなのかもしれない。逃げるは恥だが役に立つ。見たこともないドラマのタイトルを思い出して、許された気分になる。一度も逃げたことがないなんて人と、きっと私はわかり合えない。 「いいんじゃない。やらずにおられんことがあるのは」  心を読んだかのように祖母が言う。  そして気がついた。 「あぁ私、雪に埋もれたこの町で絵が描きたかったんだ」  ふっと小声でもらした言葉は、耳の遠い祖母には聞こえなかったようだ。  たらふく食べたあと、私はすぐに部屋にこもって、もってきた画材を開いた。化粧品のポーチや生理用品を忘れることはあっても、これだけは常に持ち歩いている。一種のお守りのような。 「君はひとりじゃないと、生きていけないんだよ」  別れ際に恋人に言われた言葉が頭をよぎる。  そんな人間がいるだろうかと思う反面、そうかもしれないとも思う。人を騙すより案外自分を騙すほうが難しいものだ。  障子を開けて窓の外を見る。分厚い雪雲に覆われた空には、月も星もありはしない。雪が世界の色を奪い去る。  私は雪の中に寝そべる自分を夢想する。舞い落ちる六花が体を覆い尽くし、世界の一部となる自分を。そうしたらすべて許されるような気さえする。  こんな夜には、静けさがいとおしい。  闇の中雪が降る。音もなく、色もなく。真っ白な景色を見ていると、なぜだか色とりどりの世界が心に浮かんできて、私は無我夢中で真っ白な画用紙に彩りを添えていく。 「誰に必要とされなくても、私にはこれが必要なんだ」  ここで過ごした思春期の記憶は、美しい思い出とは言いがたい。それなのに、苦さと痛みと共にこの窓から見つめた庭が、消えない残像のように私の心にこびりついて離れないのだった。  うたかたの夢のように浮かんでは消える儚い幻想をこの世にとどめるために、私は筆に色を乗せ、嘘を描いていく。  甘く柔らかな嘘を。
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