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野々村が帰ると、再び静寂が診療所を包み込んだ。辺りは小さく響く心電図モニターの音と、患者の寝返りの衣擦れしか聞こえず、丸一日眠っていない成瀬の体に疲労が のしかかる。
――― 昨日は色んなことが あり過ぎた
松岡を村議会に送り出したあと、いきなり彼の元恋人が尋ねてきて。村の観光案内を任されたと思ったら、絵里名嬢の店で客が倒れて救急処置を行って――― と、一日の出来事を振り返りながら机上の時計に目を移せば、午前2時半を指していた。
――― あと30分で交代か
ふと目の前に松岡の顔が浮かんできて『彼も罪な男だ』と苦笑いした。強がる姿が健気で可愛い。あんな子、滅多にいないのに…… と溜息をついていたら、裏口から開錠される音がして当の本人が顔を出す。
「お疲れさま。変わりはなかった?」と、未明にもかかわらず清々しい表情の松岡に
「そんなに早く来なくても。あと30分ありますよ」
「患者さんの紹介書や資料を揃えなくちゃいけないからね」そう言い残すと、松岡は聴診器を首にかけて処置室へ行き、起きている患者と話しを始めた。
「先生、こんな時間まですみません」と恐縮されると、「具合はどうですか?」「慣れない場所でいろんなものに繋がれてちゃ眠れませんよね」と相手を気遣い、その後 診察を終えると戻って来た。
「患者さん、落ち着いていて安心したよ。じゃあ、あとは僕に任せて成瀬君は上がって」
「いいんですか?」
「凄く疲れた顔をしてる。目の下にクマなんか出来ちゃって せっかくの男前が台無しだ。家まで戻るのが面倒なら僕の家に泊まっていけばいい」
松岡が妙に優しい…… というか余所余所しいので『野々村と寄りが戻ったのか?』 と勘ぐったけれど、それなら『自分ちに泊まれば』などとは言わないだろう。
「大丈夫、家で寝てきます」
「そっか。そんなことより……」そう言うと、成瀬の腕を掴んで隅の方へ連れて行く。そして、成瀬が思わず後退りしたくなるほどの至近距離で
「夜中、野々村君が来ただろう?」
「野々村君…… ですか?」
じっと見つめる瞳に嘘はつけないと観念した成瀬は
「来ましたけど、それが?」
「何か言ってた?」
「なにかって?」
「だから、何かだよ」
「それって先生が一番心当たりがあるんじゃないですか?」
図星をさされて言葉に詰まる松岡だったが
「分からないから聞いてるんだ」
「寝付けなくて ここへ来たみたいですよ」
いやいや、それって答えになってない――― と、不服そうな顔をする松岡にボソッと一言。
「先生も罪作りだな……」
「罪作り?」
「いや、なんでもないです」
「君は勘違いをしている」
「すみません、余計なことをいいました。じゃあ、僕は帰らせてもらいます」そう言って立ち去ろうとする成瀬の腕を松岡が再び掴むと弁解を始めた。
「誠意を尽くしても、受け入れてもらえないってあるだろう? つまり、そういうことが招いた出来事だったんだけど…… まあいい、君には関係ないことだ」
「それって、別れる時にありがちな話ですよね」
「でも、これだけは言っておく。僕は一人の相手しか目に入らない。同時に二人なんてムリだから」
何を必死に言い訳してるんだか。妻子がある身で俺と付き合っていたくせに――― と、呆れるのを通り越して いじらしさを感じた成瀬は「そんなにアピールしなくても大丈夫です」と笑いながら踵を返し、背を向けたまま手を振って部屋を後にしたのだった。
――― end
最後までお読みくださり ありがとうございました。
次回、いよいよ二人の関係が動き出します。
お楽しみに!
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