プレシャスデイズ 5 ~ スイセンとつむじ風

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【午後休診】と書かれた札を診療所の入り口に掛けた成瀬は「村の為に頑張ってきてください」と、松岡に檄を飛ばす。が、当の本人は口をへの字に曲げたまんま。その出で立ちはノーネクタイのスーツで、20年前には無かった腹の出っ張りを見られたくなかった彼は上着のボタンを留めると軽自動車に乗り込んだ。  先日、村長に村議会のオブザーバーの打診を受けた松岡は、それを渋々引き受けた。村唯一の診療所の所長に赴任して約1年。ようやく村人たちから受け入れられ始めた矢先の【誘い】を無下に出来なかったからなのだが、その真意を薄々感じていたので このままハンドルを切って引き返したい衝動に何度も駆られた。  事の起こりは、今から7~8ヶ月前。見慣れぬ高級セダンが診療所へやって来て、供を連れた男が降りてきたのを村人が目撃したことから始まる。彼は、とある国会議員。建設会社の社長時代からの付き合いで、公立病院を辞めた後も『先生は俺の主治医だから』と、地元へ戻ると わざわざ村まで足を運び、健康診断の結果を報告したり、他の病院で受けた治療のセカンドオピニオンを頼んだりしていた。  あの人は公立病院の副院長だったから強力なコネやパイプがあるに違いない――― そんな憶測が村人達の間で囁かれ始め、こうして村議会に召集される運びとなったのだが、当の本人は憂鬱の極みで朝から溜息ばかりついている。  自分は政治や行政に興味や関心がない。しかも、それを行う技量も度量も力量も備わっちゃいない。だけど、先日成瀬と絵里名嬢の店へ行った際、二人から村の実状を切々と訴えられ『力になれることがあれば』と口を滑らせてしまった手前、引き受けざるを得なかった。そう、成瀬の前では【ええかっこしい】の自分は、仕事以外でも頼りにされたくて つい無理をし、見栄を張り、背伸びをしてモノにする機会を虎視眈々と狙っているのである。  14時に始まった午後の議会が17時に終了し、松岡は各議員から ねぎらいや感謝の言葉を受けながら議場をあとにした。一部の議員から「お近づきの印として」と、飲みに誘われたけれど それを「急患が来ているようだから」と、丁寧に断わって向かった先は診療所とは別方向の山道。それを少し昇ったところに見晴らしの良い場所があることを最近知った松岡は、車を降りると大きく伸びをした。  ふと、芳しい香りが鼻孔をくすぐり視線を向けると、山の斜面に遅咲きのスイセンの群生があるのに気づき目を細める。 ――― あの立ち姿って、何となく  そう、凛と背筋を伸ばす姿が成瀬と重なり、しかもその芳香に緊張していた体と心を解されて…… まさしく彼そのものだなと、顔をニヤけさせた松岡は胸元のポケットから煙草を出して火を灯した。  深く吸い込んだあと、ゆっくりと吐き出す。それを何度か繰り返しながら、夕日に映し出された山の陰影や、田植えを待つ棚田、その奥に垣間見える茶畑や防霜ファンを眺めていたその時、自分の村に対する想いが議会に赴く前と後とでは異なっていることに気がついた。
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