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翌日早朝、成瀬と交代して一時帰宅すると、野々村が食事をしているところだった。彼は家政婦の津原と和やかに会話をしていたが、松岡の姿を見ると「先にいただいています」と会釈する。
「患者さんの状態はどうですか?」
「落ち着いているよ。夜、寝付けなかったみたいで、今イビキをかいて寝てる」
すると、松岡の朝食の準備をしていた津原が手を止めて
「【花もめん】じゃ大変だったそうですね」
「隣のテーブルで飲んでいた人が いきなりひっくり返ったからね」
「その人、先生たちが いらして命拾いしましたね」
「すぐに蘇生を開始できたから後遺症が残らずに済んで良かった」
「素人じゃそんな迅速な処置、できませんって」
「村では救急蘇生法の講習とかやってないの?」
「記憶に無いです。私、【AED】とかいう機械の使い方も置いている場所も知りません」
「あそこに いた人たちもそんな感じだったな」
そう言いながら、松岡は昨晩の様子を思い出す。あの時、成瀬がAEDを持ってくるよう頼んでもピンとこなかったようだし、設置場所も知らなかった。唯一、知っていたのは絵里名嬢だけ……
こりゃ近いうちに講習会を開いた方がいいな――― そんなことを考えながら、津原が温め直してくれた味噌汁を啜っていた時、野々村が おもむろに口を開いた
「僕、10時のバスで出発します」
「えっ、もう帰っちゃうの?」
「9時に診察が始まるんでしょう? 先生も成瀬さんも いないんじゃ ここにいる意味ないですもん」
「ごめん、全然相手ができなくて」
「突然やって来た僕が悪いんです。津原さんにもご迷惑をかけしました」
すると、津原がオブラートに包んだような言い方で
「色々あるかもしれないけれど頑張って。疲れた時はここへ来てリフレッシュしに来てください。みんなで歓迎しますから」
「ありがとうございます。今度は津原さんに会いに来ますね」
野々村はそう言ったけれど、松岡は彼がもうここへは来ない気がした。恐らく、成瀬としていた移住の話もなかったことにするつもりだろう。なぜなら、自分とは正式に別れてしまったし、昨晩こんなことも言っていた。『あの人の演技に乗っかって楽しませてもらった』と。つまり、移住は彼の本心ではなかったのである。
診察時間が迫ってきて玄関へ向かった松岡は、見送りに来た野々村と別れるのが名残惜しくなっていた。それは未練とはまた違った感情で、慣れ親しんだ場所で一緒に過ごした相手と離れるのが寂しかったからである。
彼とは愛人として接してきたけれど、廃校の使い道のことで具体的かつ建設的な意見を述べる姿に感心し、頼もしく感じた。こういった若者が定住してくれたら、この村の将来も明るいものになるだろうに…… と考えると引き留めたい衝動に駆られたが、別れた身でそんな図々しいことは言えるよしもない。
靴を履き終え振り返ると、野々村が意を決したように口を開いた。
「僕も一緒に行きます。成瀬さんにも挨拶したいし」
「そうだな。何も言わずに帰ったら彼も寂しがる」
「それから、移住の話…… あれ断ろうと思っています」
「……」
「就職の話も住む場所のことも早めにキャンセルしとかないと迷惑をかけてしまうから」
松岡が頷く。そして、二人は無言のまま診療所へ向かうのだった。
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