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松岡が診療所に着いたのと、患者の家族が迎えに来たのは ほぼ同時だった。支えられて後部座席に横たわった患者は礼を言い、松岡は彼とその妻に「向こうの病院には連絡済みで、受付で名前を言えばすぐに診察してもらえる」と話した。
成瀬と二人、見送りを終えて振り返ると、野々村が診療所の入り口に佇み成瀬に向かって会釈した。
「10時のバスで帰るので挨拶にきました。成瀬さん、昨日はありがとうございました」
「もう帰るの?」
「はい。短い時間だったけど村の観光はできたし、診療所の大変さを身をもって知ることができたし。ここへ来ることに迷いがあったけれど、来て良かった」
「予定がないなら もう少しいたらいいのに……」と、成瀬が松岡の方へ訴えるような視線を送ったが松岡は助け舟を出さず、野々村は「お気持ちだけ受け取っておきます」と笑みを浮かべた。そして、
「すみません。実は…… ここへの移住の話、一旦白紙にしてもらえますか?」
「えっ……」
「あの時は酔ってて気が大きくなってたんですが、一晩たったら ちょっと無謀だったかなと思い直して。だから、役場への口利きの話もなかったことに」
野々村の言葉に明らかに肩を落としている成瀬の姿を見て、松岡は『おや?』と思った。
――― 野々村は、成瀬が俺の反応を見るために心にもないことを言ったのだと話したけれど、そればかりではなかったかもしれない
「僕は…… 野々村さんが話してくれた小学校の跡地利用の案に胸を躍らせたんです。そして、あなたみたいな若くて柔軟性があって将来を嘱望される人がこの村へ来てくれるのを心待ちにした。でも…… 仕方ないですね、あなたが望まないのなら」
「成瀬さん……」
「でも、その【一旦】と言う言葉に一縷の望みをかけてもいいですか?」
「期待に沿えない可能性が大きいですけど……」
「良かったらLINE、交換してください」
成瀬のことを『強かだ』と言っていた野々村だから躊躇うのでは? と 心配したが案外すんなり了解すると、二人は肩を寄せ合い操作を始めた。
「いきなり連絡してもスルーしないでくださいよ」
「成瀬さんのほうこそ」
「これから就活?」
「蓄えが尽きるまで しばらくブラブラしようかなと」
「そりゃ羨ましい」
思いのほか仲睦まじい様子を狐につままれたような顔をして眺めていた松岡が
「俺、成瀬君のメールアドレス知らないし、ましてLINE交換なんてしてもらっていない」
「マジですか? じゃあ連絡する時、どうしてるんです?」
「そのスマホに直接電話」
「1年も経つのに……、そりゃ嫌われてますね」
「仕事以外の付き合いって殆どないよね」
「へえ…… 以外」と、つぶやいた野々村は
「成瀬さん、一人身になった上、見知らぬ土地で頑張っている先生を気にかけてやってください、お願いします」そう冗談めかして言うと、「じゃあ、僕はこれで」と踵を返し松岡の自宅へ戻って行った。
その後姿を見つめている成瀬の瞳が潤んでいた。「まさか泣いているのか?」と思わず二度見したら、成瀬が掌で拭ったあと苦笑いをした。
「駄目だな。最近、人と別れる時にむやみに涙が出るんです。もう歳ですかね」
「僕の客なのに色々してもらって感謝している」
「可愛い青年でした。さすが、先生の目に留まっただけある」
「なに、その言い方」
「ま、過去のことは詮索しませんけど」
「それはお互いさま」
「彼はどうだか知らないけれど、僕は好きでしたよ」
「だから、僕とはしてくれないLINE交換をしたんだ」
「交換しただけになってしまうかもしれないけれど、繋がっていたい相手です。友だちリストで見るたびに『今頃、どうしてるんだろう?』って思い出すでしょう」
「意外だ。僕はてっきり嫌っていたんじゃないかと」
「少し生意気だけど5時間もかけて逢いにくるような いじらしさがあって。なのに、先生ったらあんなそっけない態度をとって、見ていて可哀想でしたよ」
「……」
「あんな子から迫られたらフラっとなるかも。『もう一花咲かせてみようか』って気にもなりそうだ」
この聞き捨てならない台詞に、松岡は思わず「成瀬君!?」と声を上げる。それを見た成瀬は「ははは……」と声を出して笑い、診察室へ消えて行ったのだった。
――― end
引き続き番外編をお送りします。
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