プレシャスデイズ 5 ~ スイセンとつむじ風

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 現村長は去年就任したばかりの64歳。高校まで地元にいて、その後 東京の大学に進学し証券会社に就職した経歴がある。そして、早期退職した後は地元にUターンして実家の家業を就いだのだが、妻は田舎暮らしや義理親との同居を嫌って東京に残っているらしく、そんな彼が同世代、しかも妻帯していない松岡に親近感を持ち、会う度に村の再建を語り『一緒に盛り上げないか?』と誘ってくる。その言葉や態度が意外とスマートで、今回の村議会で気持ちが傾いた松岡は縁もゆかりもないこの土地を第二の故郷として一肌脱ぐのも悪くはないーーー そう感じ始めていたのだが…… ーーー 俺がここで出来ることとは一体  地位も財産も家族も失った。唯一残っているのは築き上げた人脈くらい。だけど、何の【うまみ】も無くなった自分に彼らが力を貸してくれるかどうか甚だ怪しかった。  己の利点は人を引き寄せる力だと自負している。生まれ持ったコミュニケーション力に加えて 甘いマスクと そこそこの知力を武器に幾多の伝手やコネクションを得てきた。それを駆使して何が出来るのか? その前に、この村の魅力や売りが分かってなければ交渉相手にアピールやプレゼンのしようがないだけれど、この村が胸を張ってPR出来ることとは…… と、眼下に広がる豊かな自然を見つめながら考え、残りわずかになった煙草を携帯灰皿に押し込むのだった。  診療所に戻って来た松岡は、駐車場で車を降りた時から早歩きになっていた。議会での出来事を成瀬に聞いてほしかったからなのだが、入口を開けたとたん、診察室から笑い声が聞こえてきたので肩を落とした。 ――― 誰か来ている  和やかな雰囲気から、村人が立ち寄って雑談でもしているのかと思いきや、その声音が若い男、しかも どこかで聞き覚えがあったため、松岡はノックもせずに診察室の扉を開けた。すると、そこに思いもかけない人物の横顔を認めて悲鳴に近い声を上げてしまった。 「の、野々村君……! どうしてここへ?」  彼は以前勤めていた病院の医事課にいた元恋人――― 否、正確に言うなら『妻が君に慰謝料を請求するのを避けるため一旦別れよう』と言って自然消滅を期待していた相手だ。  つむじ風のようにやって来た恋人を驚愕の視線でもって迎えた松岡を不服そうな表情で一瞥した野々村だったが、それを満面の笑顔に変えると 「お久しぶりです、松岡先生。休暇が取れたんで遊びに来ました」 「きゅ、休暇?」 「退職される時、『風光明媚なところだから遊びにおいで』って おっしゃったじゃないですか?」 「そ、そんなこと言ったっけ?」 「最近、疲れがピークに達していて。リフレッシュしたいと思っていたら先生の言葉を思い出して、リップサービスだとは分かってたんですが来ちゃいました」 「いきなりだから びっくりしたよ」 「前もって言うと準備が大変だろうと思って。だから、ぜんぜんお構いなく。あ、だけど寝床だけは提供してもらえますか?」  野々村の一挙手一投足一挙に怯える松岡は、二人の会話に耳を傾ける成瀬の顔色をうかがった。彼は穏やかな笑みを口元にたたえているが、目は笑っていない。恐らく気づいているはず。この男が前の地に置いてきた恋人だということに……
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