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成瀬が渋々承諾し、着替えるために更衣室へ消えると、野々村が松岡の袖を引っ張り診察室の隅へと連れて行く。
「成瀬さん、気が進まないみたいですけど」
「そんな風に見えた?」
「『自分は遠慮します。お二人でどうぞ』って言ってたじゃないですか」
「彼ってね、二十数年前に同じ病院で働いた元同僚なんだ」
突然、成瀬との なれそめを話し始めた松岡に目が点になる野々村。しかし、話はお構いなしに続く。
「あの頃、男性看護師さんが少なかったんだけど出来る人でね、研修期間を終えたばかりの僕なんて よく世話になったもんさ。だから、この診療所で再会した時には【地獄に仏】だと思った。案の定、右も左も分からない僕をサポートしてくれて、1年間辞めずに続けられたのは彼のお蔭なんだ」
「だから、どうしたっていうんです?」
「僕らが飲みに行くのに誘わないわけにもいかないだろう?」
「誘って断られたんだから無理強いしなくてもいいのに」
「もうすぐ彼が戻ってくる。君との時間は飲み会のあと、家でゆっくりね」
そう言って、二人が元の場所へ戻ったのと成瀬が姿を現したのは ほぼ同時。成瀬は松岡の愛想笑いと野々村の不機嫌そうな顔を見比べたあと「じゃあ、行きましょうか」と、先に歩き始めた。
「あと一時間程で陽が沈むから急ぎましょう」そう促がした成瀬は、駐車場に停まった車まで来ると「運転、お願いしてもいいですか?」と、松岡に頼んだ。
「もちろん!」と、にこやかに答えた松岡は、キーレスエントリーで開錠すると二人を招き入れる。が、てっきり隣に来ると思っていた成瀬が後部座席に座ろうとしたため前に来るよう誘うと「助手席じゃ案内しにくい」という理由で断られてしまった。
こうして一人寂しく運転席に座った松岡は、バックミラー越しに並んで座る歴代の恋人たちを見比べながら感慨に耽っていた。
――― まさか、こんな光景を目にすることになろうとは
十中八九、成瀬は隣の男が最近まで付き合っていた相手だと気づいている。が、野々村の方は顔色をうかがっても真意が掴めず小骨が喉にひっかかったような気持ちの悪さだ。
野々村とは、ここへ移住する前『一旦、別れよう』と言って以来、ほとんど連絡を取っていなかった。数回送られて来たメールにも気のない返事を返しただけで、自分が終わりにしたがっているのは察しているはず。なのに、いきなり尋ねて来たのは復縁を迫りにきたに違いない。だから、その気がないことを分からせるため、そして成瀬には『今は君だけだ』とアピールする意味で二人の馴れ初めや現在の関係を語ったというのに、成瀬本人の余りのそっけなさに(恐らく、愛想をつかされた)松岡の心中は穏やかではなかった。
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