プレシャスデイズ 5 ~ スイセンとつむじ風

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 松岡の心中を知ってか知らでか、成瀬がすました顔で 「『次の就職先がきまってないなら、こっちでワーキング・ホリデーでもしたら?』って冗談を言っていたところに先生が帰って来て」 「野々村君、考え直した方がいいよ。君、長男だろ? 実家をほっぽり出しちゃマズいって」 「今は令和の時代ですよ。家を継ぐとか継がないとか 一体いつの時代の話をしてるんです?」  と、こともなげに言う野々村に加勢するように 「野々村さんって事務職でしたよね。ちょうど、村役場で欠員が出ているから僕が口利きしておきましょうか?」 「成瀬さん、よろしく頼みます」 「住む場所も手配できるけど、どういったところが希望なの?…… あ、それは先生に任せた方がいいのかな?」と、成瀬が嫌味っぽく尋ねたら 「どうして松岡先生に頼まなきゃならないんです? できれば、僕は成瀬さんの世話になりたいな」そう言って見つめる顔が はにかんでいるのを認めた松岡は脳天を殴られたような衝撃を受けていた。  ――― まさかコイツ、成瀬に!?  松岡が成瀬と野々村の顔を交互に見比べてその真意を探ろうとした時だった。女性の つんざくような悲鳴がして振り返ると、出入り口に近い通路に男性が倒れており、一緒に飲んでいたらしい客たちが「どうした!」「大丈夫か!」と叫びながら駆け寄っている。最初、状況が掴めなかった松岡と成瀬だったが、飲食中に意識を失ったことがわかるや否や、同時に席を立つ。 「先生!」「成瀬さん!」と、安堵の声と共に場所を譲られた二人は倒れた男を仰向きにした。 「倒れる前はどんな様子でしたか?」と問いかける松岡に、「急に大人しくなったと思ったら、いきなりひっくり返って」 「食べている最中でしたか?」 「さあ、どうだろう。頼んだものは殆ど食べつくしてたんですけど」  松岡が男の肩を揺さぶって「大丈夫ですか?」と、意識状態を確認する。そして、呼吸と脈を診ているあいだ、成瀬が連れの客らに「すぐに【AED】を持って来てください」と声を掛けた。 「【AED】?」と意味が分からず顔を見合わせる彼らの向こうで「あれでしょ! 電気ショックするやつ」と別の客が言い、絵里名嬢が「駐在所にあるから取って来て!」と叫ぶと、誰かが勢いよく外へ飛び出して行った。  松岡が着ていた上着を脱ぎ捨てる。成瀬が「誤飲による窒息ですかね?」と尋ねると「分からない。だとしても、胸骨圧迫すれば詰まったものが出てくる」そう言いながら、倒れた男の横に膝立ちになり胸の上で掌を重ねた。  腰を据え、腕を垂直に伸ばすと体重をかけて胸を押す。1秒間に2回、それはリズミカルに行われ、松岡の額にうっすら汗が滲んできた。  成瀬が絵里名嬢に「診療所へ搬送できるよう車の手配を」と頼んだあと「代わります」そう言って心臓マッサージを引き継いだ。  思ったよりAEDの到着に時間がかかる。必死に処置を行う二人を見かねた野々村が「今度は自分が」と、成瀬と交代して圧迫を開始する。病院で研修を受けたのか、最初はぎこちなかった動きも次第に慣れてきて、懸命に続けた。  戸が開き、オレンジ色のケースを抱えた男が雪崩込んできた。 「持ってきました~っ!」と、額に玉の汗をかいて戻って来た彼からAEDを受け取った成瀬は、ふたを開けて電源を入れる。成瀬からパッドを受け取った松岡はそれを患者に装着し心電図の解析を待つ。『ショックが必要』と音声が聞こえるや否や、取り囲む客たちに向かって「離れて!」と指示を出すと、ボタンを押して除細動を行った。
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