ベッドルーム

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ベッドルーム

#8  食事を終え、ホテルの部屋に戻った時には、すでに22時を回っていた。  予約した部屋は、広いリビングを中心にして左右にベッドルームがある。何よりそれが僕をほっとさせた。  誰がどう寝るのかは、別として。 「お風呂入れば?私たちはもう入ったから」  ニチカにそう言われ、バスタブにお湯を溜めて入った。  ホテルのバスタブは浅いが、脚を飛ばすことができるのが最高だ。  ずっと家の小さなバスタブで足を折り曲げて入って来たから、足を伸ばしてお湯に浸かるのは格別だ。  僕は何もかも忘れてお湯に身を委ねる。  皮膚が溶け、肉や骨も溶け、お湯と一体化し自分が液体になったように感じる。  水はすごい物資だ。  僕はずっとそう思ってきた。  生命の起源ともいわれたり、その星に生命があるかどうかは、水の存在が大きなカギを握っている。  水はどんなものにも形を変えることができる柔らかさを持ちながら、岩をも削る力がある。  そして、実は水が何かは、本当はいまでもよくわかっていないのだ。  H₂Oはただの化学式でしかなく、水の正体は科学者でも神秘的な存在だ。  ことによって水は、全宇宙の中で最強の物質かもしれない。  そんな水(お湯)に浸かると癒されている。  人間の体の水分は成人男性だと60%。  だから、液体同士で相性がいいのは当然だ。    そんなことを考えていれると、睡魔が破壊的に押し寄せて来た。  ハッと目を見て覚ますと、  周りが歪んでるゆらゆら揺れていた。  あれ?  僕は湯船に浸かっていたはずなのに・・・。  自分の手を見ようとしたが、  手がなかった。  手だけじゃない、足も、胴体も、ペニスもない。  透明になっている。  そして、揺れている。  そうか、僕は液体になったのか。  湯船のお湯と一体化してしまったんだ。  浴室のドアが開く。 「圭太?圭太どこ?」  ニチカが僕を探している。 「おーい、僕はここだよぉ」  湯船のお湯と一体化した僕は叫ぶが、ニチカには聞こえないようだ。ファニーも顔を見せた。やばい。裸だ。いや、僕は液体なのだから、何も見えないのだから大丈夫。 「どこか行っちゃったのこしら、お湯だけ張って」 「とにかく、このお湯は捨てよ」  捨てる?! 「ちょ、ちよい!待って待って。排水溝に吸い込まれちゃうよ」  しかし、お湯は抜かれた。  僕はぐるぐる回りながら排水溝に吸い込まれていく。 「ニチカーっ!栓をしてくれーっ!!」 「圭太!大丈夫?」  目を開けると、目の前にニチカの心配そうな顔があった。  手を挙げてみる。 「あった」  足も、胴体も、そんなに自慢のでもないペニスも。 「あんまり出て来ないから心配して見に来たら、すんごい汗じやない。のぼせちゃうから上がって」  僕は立ち上がるが、クラクラしたので、ニチカに掴まる。その場所が、胸だった。 「やだエッチ」 「ごめーん」  僕はヘラヘラ笑いながら、ニチカに支えられながら湯船から上がった。  まさか自分が液体になる夢を見るとは。  夢はどんなことも叶えてくれる。  フロイトならどんな夢判断をしてけれるだろうか。    そんなことを思いながら、ホテルの白いバスローブを身に纏いリビングに行く。  僕を見るなりファニーが言った。 「めっちゃセクシーだよ、圭太ちゃん」  ニチカはソファで横になり、苦笑いしている。 「ブランデー揺らして、ペルシャ猫撫でてるよね」  僕はガウンを着て、部屋の中をゆっくりと見て歩く。  左右に分かれた寝室を合わせると130平米ある。我が家の倍だ。ここに2泊したらいくらになるのかニチカに聞きたかったが、恐ろしく聞きたくなかった。  飛行機のファーストクラスもリムジンのレンタル代もディズニーのチケットも、すべて天神家払い。  もちろん僕が支払えるはずはないから、すべてニチカが出す。それはつまり天神家が出すということだ。  それでいいのだろうかと考えなくもなかったが、大金持ちならそれくらいは小銭なんだろうかと勝手に良いことにすることにした。  彼女は飛行機の中で、今回使うクレジットカードを僕に見せてくれたが、見たこともないカードだった。  てっきり最上級のブラックカードかと思ったら、そうではなかった。  それはパラジウムカードだった。  JPモルガンが公式に発表しているカードだ。  ブラックカードの上ということになる。  ちょっとした空き時間に調べてみてわかったが、パラジウムカードを持つには、JPモルガンのプライベートバンク部門の顧客であることと、3,000万ドル(約36億円)以上の資産を持っていることが必要とあった。  もちろん、ショッピングの限度額はない。  僕が冗談で、これで家買うってどう?というと、ニチカは平然と、軽井沢に別荘を買った時、親がパラジウムカードを出したよ、と言ったので、冗談が冗談ではなくなってしまった。  そもそもパラジウムとは、原子番号46で、重く融点が高い遷移金属元素のことだ。元素記号はPd。 白金族のひとつで、プラチナと同様に貴金属、レアメタルとして扱われる。 水素を吸収する能力が高いが、水素吸蔵合金として使うには高価なのが欠点であり、 カード表面だけで、12万ほどで取引される。  僕はもはやニチカのセレブリティに慣れっこなってしまっているせいか、パラジウムカードを見てもそんなに驚かない自分に驚くばかりだ。  慣れとは、恐ろしいものだ。  ニチカは生まれた時からなのだから、大概のことは当たり前になって当然なのだ。  生き物は環境に順応して進化する。  僕は、牛丼に順応しているのだろう。  レストランでも飲んだのに、ファニーはルームサービスでまたシャンパンと鴨のコンフィのトリュフとフォアグラ載せというのを頼んで、ひとりシャンパングラスを傾けていた。  僕はずっと、ベッドルームの寝る場所が気になってしょうがなかったが、なかなか言い出せなく、持参したアラン・チューリングの本を読んでいた。 「眠くなってきた」  ニチカが伸びをして言った。  僕は本を閉じる。  腕時計見ると、すでに零時を回ろうとしている。 「だね。明日もあるしね」  僕の言葉にファニーがシャンパンクラスを片手に持ちながら言った。 「いいよ、先に寝てちょうだい。お子ちゃまは早く寝ないと」  僕はニチカを見る。彼女はすでにオフホワイトのパジャマに着替えていた。シルクっぽい。たぶんハイブランドなのだろうが、僕にはよくわからない。だけど、とでもよく似合っていた。 「じゃあ圭太、寝ようか先に」  その言葉を聞き、僕は心の中で、バンザーイと叫んだ。しかし、それを必死に堪え、極めてクールに、そうだねと言った。  立ち上がる僕たちにファニーが言った。 「テレビの音量、最大に上げとくから、安心して、どうぞ」 「えっ、いやぁ、なんの話だか。ハハ」  すっとぼける。彼女はニチカを見た。 「ニチカちゃん、声を出さないのもけっこう刺激的で、い、い、よ」  そして、意味深にウインクした。  ベッドルームに入ると、リビングからテレビの音が大きく聞こえた。 「あそこまで高くしなくてもだよね」  ベッドに滑り込みながら、ニチカが妖しく微笑む。  僕はすでに普通に立っていられない状態で、前屈みになる。  ニチカが僕を迎えるように、寝たまま両手を広げていた。  世界が動きを止める。  本能が僕の理性を軽々と凌駕した。
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