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矢野は私に背を向けて行ってしまった。
私は矢野から受け取った日傘をさして、バルコニーから地上の真田さんを見守り続けた。
じりじりとした暑い日差しが花壇に注がれている中、真田さんは脇目も振らずに働き続けていた。肘まで捲った白いシャツに泥がついている。ズボンはとっくに泥だらけだ。
工事現場で彼を見た時もそうだったことを思い出す。
真田さんはいつも自分のためじゃなく、誰かのために懸命になっていた。
不器用だけど、真っ直ぐに。
彼は本気で6時までに仕事を終わらせるつもりだ。
たとえ残り5分しかなくても、彼はゆみとの約束を果たすつもりだ。
もう一人の私に。
頑張ってと言いたいのと同じくらい、もうやめてと言いたかった。
昼食の時間になっても、真田さんは一秒も休まない。作業をやめない。時折汗を拭いながら、飲まず食わずで土を掘っては埋めていく。
全部、私のために。
このままじゃ倒れてしまう。
見るにみかねて、私は水のペットボトルとタオルを抱え、部屋を飛び出した。
◇
「大変そうね」
私の声に気付いて、真田さんが額の汗を拭きながら振り向いた。
白い日傘をさしながら、背中にタオルと冷えたペットボトルの水を隠して近づいた私を、彼は無視して作業に戻る。
「ちょっと! 私が声をかけてあげてるのよ。無視しないでよ」
「俺はあんたみたいに暇じゃねえんだよ」
「ちょっとは休憩しないと、倒れるわよ」
「このくらいで倒れたりしねえよ。貧乏人なめんな」
ダメだ、やっぱり喧嘩になっちゃう。
どうしたらいいのか分からずに立ち尽くしていると、真田さんが手を止めてこちらを見た。
「あんたがいると気が散るんだよ……」
「どうして? 見ているだけじゃない」
「気になるんだ。朝からずっと……俺を見てただろ」
ドキッ。バレてた。上を見ないから気づいてないと思っていたのに。
「何でだよ。俺なんか見てても面白くねえだろ」
「お、面白いわ。あくせく働いている人を見ているのが一番楽しいの」
「……このド変態」
眉間に皺を寄せた真田さんに、私は水とタオルを差し出した。
「だから、倒れないで。私の楽しみを奪わないでよ」
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