汚い手で触らないでください

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 彼は空になった汚い砂袋を持って、「どけ」と言いながら私の横を通り過ぎようとした。埃が舞って目をつぶった瞬間、柔らかい土の上でバランスを崩した私は尻餅をついた。  ピンクのドレスが泥に塗れる。 「おい、真田! お嬢さん転んじゃったじゃねえか。お前のせいだろ? 助けてやれよ」  誰かが叫んだ声に、私は反論しようとした。  違う。彼のせいじゃない。  彼が私にぶつかったわけじゃない。私が自分で転んだだけ。足元が悪いところにヒールで乗り込んでしまった私の自業自得。 「あの……」 「……ったく」  彼は小さく舌打ちをした。そして、砂袋を下ろして汚い軍手を外した。  手袋を外してもなお爪の内側まで汚れている彼のゴツゴツした大きな手。  彼は無言でそれを私に差し出す。  こんな場所なのに、私は夜会でダンスに誘われた時のように胸を躍らせてしまった。    迷惑そうな顔をしているけれど、彼の心はやっぱり優しい紳士なのだと思う。  自分のせいじゃないのに、言い訳もしないところが男らしい。  私はドキドキして言葉を失い、貧弱で白い、爪の先まで輝いている自分の小さな手をおずおずと差し出した。  色も、形も、大きさも、何もかも違う私たちの指先が触れ合う。  その時だった。 「姫!」  突然、そこに燕尾服の矢野が駆け込んできた。矢野は真田さんを見ると、いつもの矢野らしからぬ敵意を剥き出しにしたような表情を見せて言った。 「うちの大事な姫に──汚い手で触らないでください」 「矢野、そんな言い方……!」  たしなめようとした私を、問答無用とばかりに矢野がお姫さま抱っこする。 「参りましょう。クラシックのコンサートに遅れます」 「下ろしてよ、恥ずかしい。自分で歩くわ」 「いけません。姫はご自分が思っているよりずっと鈍臭くていらっしゃいますので」  久々に出た毒舌で微笑む矢野だったけど、背後にいた真田さんを振り返ったその瞳には再び鋭い光が戻っていた。 「では、失礼」
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