汚い手で触らないでください

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 真田さんも無言で矢野を睨み返すと、埃のついた手のひらを厄介払いのように叩いて私たちに背を向けた。  それっきり、彼は二度と私たちを振り返らなかった。  工事現場から戻ってきた私たちを乗せた車がようやく動き出す。  私は彼と一瞬だけ触れ合った指を見つめていた。 「姫。指に泥が」 「いいの」  燕尾服の胸のポケットからハンカチを取り出そうとした矢野をすぐに制して、私は呟く。 「……このままでいたいの」  この汚れは彼と触れた証だ。できればずっと落としたくない。  自然と自分の頬に浮かぶ笑みを感じながら、私はひとつだけあることが気になっていた。  ──あんたには一生わかんねえよ。  そう呟いた時の、彼の暗い瞳が。 「ねえ矢野。ちょっと彼のことを調べてくれない? 彼がなぜ大人に混じって肉体労働なんかしていたのかが知りたいわ」 「冗談じゃありませんよ。なんで私が」  矢野はため息をつく。  私はびっくりして彼を振り返った。 「あなた、私の執事でしょ? どうしたのよ、さっきからイライラして。あなたらしくないわね」 「別に、イライラなんてしてませんよ」 「してるじゃないの。工事現場の彼にもひどいこと言ったし!」 「あれは、姫が私の忠告に背いたからです! あの男には近づくなと申し上げたばかりでしたのに──」  矢野は不本意そうな顔をしていたが、やがてあきらめたように肩を下げた。 「……分かりましたよ。あの男について調べればいいんですね」 「うん! お願いね」  矢野のおかしな様子は気になったけど、それよりも彼の調査能力への期待値の方が優った。  これであの人のことが少し分かる。  そう思うと、今夜は眠れなくなりそうなくらい胸がワクワクした。
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