お嬢様、悪役になる

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「なっ……!」  腕が引っ張られた。振り向くと、矢野がすごい形相をしていた。 「ちょっと失礼」  矢野は真田さんに断りを入れて、私を半個室の隅に引きずるようにして連れていった。 「何を言ってるんですか、姫! 気でもおかしくなりましたか⁉︎」 「何もおかしくなっていないわ。あの人を絶対にクビにしてやるの。その覚悟で私も身を削って挑まないと──彼の決意に負けてしまうわ」  私は真剣に矢野を睨み返した。  これは賭けだ。  どんなことでもする覚悟だと真田さんは言っているけど、彼の心はまだそんなに汚れてはいないはず。  いくらお金が欲しくても、大嫌いな相手とキスをするなんてできるわけがない。  ……そうであってほしい。  お金なんか要らないと言っていた、彼の中にある純粋さを信じたい。  私が大好きな、あの時の真田さんの心を取り戻してほしい。だから。 「大丈夫よ、彼は私のことが大嫌いなはずだもの。キスなんか……できるわけがない」    言葉にすると胸がちくんと痛んだけれど、そんなものは些細な傷だ。私はその痛みを喜んで受け入れる。  これで彼の心を真っ当な方向へ導けるなら。 「甘いですよ、姫」  矢野の手は私の腕をしっかりと掴んで離さなかった。 「もし本当にキスされたら、どうするつもりです? 姫はキスの経験が? あるわけないですよね。だとしたら初めてのキスを、こんな形で奪われてよろしいのですか⁉︎」  矢野の怒りは私の予想を遥かに超えて激しかった。 「望むところだと思っているなら、馬鹿ですよ。とんだ大馬鹿者ですからね! 私はあなたが傷ついて泣く姿を見たくない! そんなあなたを慰める役を引き受けるのも、絶対に御免です!」 「矢野──こ、声が大きい……」  真田さんに様子が変だと思われてしまう。  私は意地悪な悪役令嬢の演技をしているのに。 「あの男があなたを嫌っているからキスをしないなんて、そんな保証はどこにもありません。むしろ、あなたを嫌いだからこそもう邪魔をさせないようにとキスをするかもしれません。そうなれば、傷つくのはあなた一人ではありません。彼の心もまた、激しい後悔に襲われて壊れてしまうかもしれないんです! あなたはこれ以上彼を苦しめるおつもりですか⁉︎」  私は驚いて矢野を見上げた。  私が、真田さんをまた苦しめる……? 「思いもよらなかったようですね。だからあなたは──愚かで、甘いんですよ」
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