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矢野はしっかりと首に巻いていたネクタイを緩めながら、横目でチラリと私を見た。
「姫の方こそ大丈夫ですか? さっきの出来事……結構こたえているのでは?」
窓に映った自分が酷く暗い顔をしていることに気づく。
「意地悪なお嬢様の役なんて、やっぱり姫には似合いませんよ」
「……ありがと」
確かに、けっこう辛かった。
好きな人に自分からわざわざ嫌われに行って、結局彼を救えないまま逃げ帰るしかなかったなんて。
「もう──諦めます?」
私はドキッとして矢野を見た。彼はいつになく真面目な顔をしていた。
「あの男、相当強情ですよ。姫の脅しも全く利かなかったじゃないですか。『江藤ゆみ』で説得しても聞くかどうか──いや、きっと無理です」
「でも、私のせいで彼はあんな目に遭っているのよ。放っておくなんてできない……」
「姫が責任を感じる気持ちは分かります。ですが、あの男に関わればあなたはもっと傷つくことになります」
「私なら大丈夫よ」
「俺は嫌です!」
私は思わず言葉を失った。
仕事上では常に一人称を「私」で統一している矢野だけど、彼が本気で感情的になった時、それが「俺」に変わることが以前から稀にあった。しばらく聞いていなかったその一人称の新鮮さもあるけれど、それよりも驚いたのは彼の表情だった。
「……嫌ですよ。姫のそんな傷ついた顔を見るのは……」
眉間に皺を寄せた矢野。
彼がこれほど感情を顔に出すなんて、ほとんど初めてのことに思えた。
私が絶句していたからか、矢野は自分の興奮状態に気づいたらしく「失礼いたしました」と仕切り直した。
「とにかく、私はあの男が嫌いです! もうあの男に姫が関わるのは断固として反対いたします!」
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