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攫われた弟
宮藤愛姫を追い返してからもうどれくらい時間が経っただろうか。
二時間はまだ経過していない。
もしかしたら、一時間も経っていないかもしれない。
それでも真田は、既に限界を感じていた。
──どう考えても、あなたにこの仕事は向いていません。
彼女の執事の言葉が彼の頭を巡る。
そんなこと、言われなくても分かってる、と記憶の中で執事に反論する。
これしかないんだと飛び込んだ仕事だったが、ただ座っているだけで務まるほど甘くはなかった。隣に座ったからには何か喋らないといけない。しかしそのトークの引き出しが真田は極端に少なかった。
酒臭い。タバコ臭い。女の香水がきつい。音がうるさい。何もかも嫌だ。
何より一番嫌だったのは、酒のボトルを一本注文するだけで札束が簡単に動くことだ。
喉から手が出るほど自分が欲しているものを、こんなに簡単に手放すバカがいる。推しをトップにさせたいという気持ちは分からなくもないが、何かがズレていると思う。
「あなた、今日初めてなの?」
機嫌が良さそうな、化粧の派手な女が声をかけてきた。この女もきっとどこかの店で働くプロに違いないと思った。
「お祝いに一本入れてあげる」
真田は何故か断りたくなった。こんなふうに金をもらっていいのか疑問だった。報酬とは、もっと労働して労働してやっと貰えるありがたいものであるという感覚が拭えない。
「お礼くらい言いなさいよ」
犬になれ、そして自分に懐けと言われている気がした。
「すみません」
向いてない。またあの執事の言葉を思い出す。
こんなところで働いていける気がしない。ここでうまくやっている未来の自分の姿が全く想像できない。
真田はふと、さっきの変態お嬢様の悲しそうな目を思い出した。
命令通りにキスをしようとした真田に、ショックを受けたような彼女の顔。
それがずっと心に引っかかっている。
彼女は何をしに来たのだろうか。本当に遊びに来ただけなのか。自分をからかいたかっただけなのか。執事と言い争ってまで、彼女が自分にキスをしろと迫ったのは何故なのか──。
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