絶縁された後の正月について

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 澄んだ空気を肺に満たして、瞬きを二つ。ゆっくりと息を吐ききりながら、影のようにつきまとう思考を追いやった。  鈍色の空の下、家族や恋人たちと新たな年を迎えるために賑わう人々を横目に見ながら、私は息子と二人、アパートに帰る。  両親と、いわゆる「絶縁」状態になって二年目の冬が来た。  保育園に通っていた孫が年を重ね、小学校に進級しようが、クリスマスや正月が来ようが、両親からは何の連絡も来ない。それは、私の本意では無かった。  私がしたことと言えば、長年被っていた「都合の良い子」の仮面をはぎ取り、チリのように積もった不満を両親にぶつけた程度の事だ。さんざん身勝手に振る舞い、幼い私を大人の都合で振り回しておきながら、正当な「文句」をこどもから投げつけられた途端、彼らは私と関わるのを辞めた。  どれだけ撃たれ弱いのだと思うと同時に、「捨てられたのだ」と思った。すると、目の前に一枚、黒いカーテンがかかったような感覚に陥った。  私は両親を糾弾すると同時に、「理想の家族像」を彼らに求めていたのだろう。私を産んだのは、何を言っても愛してくれるような懐の深い両親だと信じたかった。望みは、叶うことなく、渇望へと変わり、私の意識下の底に沈んでいった。  一年目は「私さえ我慢していれば、今でも平和な家族で居られたんじゃないか」と、罪の意識に苛まれていたけれど、「自分を犠牲にするのは終わりにしよう」と決めた今年は微かな痛みこそともなうものの、平静を装える程度になってきた。それでも、海が決して凪ぐ事のないように、「人生の新たな節目を祝ってくれる両親が居ない」という事実に伴う痛みは、消えることはない。  私だけならまだ耐えられるが、両親から見て孫である息子に対しても音信不通なのが、自身の宝物を蔑ろにされているようで心が軋む。  じいじ、ばあばの家に行ってお年玉をもらい、無条件に甘やかされる経験をさせてやれない事実が、喉の奥に突き刺さった小骨のように疼いている。  他の子が当たり前のように甘受している事を経験させてやれない後ろめたさと、「実家」の他にも安全基地を作ってやれない無念さが折り重なって、息子の人生から豊かな物を奪ってしまったように思えた。何せ、息子自身は「じいじ」「ばあば」が大好きなのだから。  それでも、自分がされてきた事は、遅く来た反抗期ではないと言える。 「最近の杏ちゃんとお風呂に入っていると、変な気分になるから、もうやめようか」  記憶の底に沈めたはずの父の表情が脳裏にちらつきそうになり、慌てて心中で、幻影の父の心臓をナイフで突き刺した。しかし、一度溢れた記憶の濁流は留まることを知らず、思い出したくもない記憶を引きずり出して行く。  興味本位で私の胸に触れ、もみしだく父はどんな顔をしていただろう。いつも何も気が付かない母は、家族の何を見ていたのだろう。じゃれあいの延長戦で裸の私を押し倒し、太ももの奥に手をやったあと 「ここから先は、駄目だな」  と言って、触れようとした手をひらひらと抜き取った浅はかな男は、私にとってどんな存在だったというのか?  あの時、「この家に安全地帯などない」と半狂乱になった私の感覚は、正しかったのかも知れない。  もう一度、肺に空気を送り込む。凍てついた酸素が、体の内側から私を突き刺す。  僅かながら、フラッシュバックから生還できた。記憶の逆流が正気を失う程の「洪水」では無かったことに、そっと胸を撫でおろす。  ――早く帰ろう。 「寒いねぇ」  息子の声にふと、正気を取り戻す。今の私は、痛みに浸って蹲っているだけの立場ではいられない。 「本当だねぇ、帰ったらお風呂に入ろうか」 「やだよ、おなかすいたもん!」 「そうだったね、はやくご飯の支度をしよう」  傷ついた心を無意識の奥深くに沈め、やるべきことをする。息子の人生に、私の痛みなど関係ないのだから。  アパートに着いたら夕飯を作って、息子と食べる。お風呂に入って、歯を磨かせる。仕上げ磨きをしてやってから、寝かしつけ――息子の一日を、終わらせてやるための働きかけ。  小さな事が人生を紡ぐのだ。歯を磨かなければ虫歯だらけになってしまうし、落ちているごみを無視すればいつしか家はごみ屋敷になってしまう。小さな行いがその人を創ってゆく。私は、ごみ屋敷と化した実家を思い浮かべた。歯を磨かず、前歯が中途半端にかけた父の笑顔と、際限なくぶくぶくと太っていった母のむくんだ顔とが、ぐんにゃりと歪んで瞼の裏に反転する。  ――ああはなってはならない―― そう思いながら、息子の歯を磨いていると。 「ただいま」  仕事納めのため、いつもより早く帰ってきた夫の声が、リビングに響いた。途端に、眠そうにしていた息子の表情がぱあっと明るくなってゆく。まるで、蕾が開花するように鮮やかな喜びを前にして、私はふと、何かに呼び止められたような気がして、息子の歯を磨いていた手を止めた。すると、息子は私の両手をすり抜けて、夫の元へ勢いよく駆けてゆく。まるで子犬が飼い主の元へ走ってゆくような勢いだった。玄関から二人の愛しい声が聞こえる。 「おかえりなさい! お父さん今日、早かったんだね! 明日は休み? じゃあ、一緒にバトミントンしよう!」 「いいよ、約束だ。じゃあ今日は早く眠らないとな」 「ええっ、まだ見たいテレビがあったのに」 「早く眠ったら、その分たっぷり遊べるぞ」 「本当!? それじゃあ、一緒にゲームも出来る? 電車乗ってお出かけも出来るかな?」 「せっかくの正月休みだ、たまには全部やりきってみようか」  やった-! という歓声が上がった後、息子のはじけ飛ぶような笑い声がころころと転がってきて、自然と笑みが零れた。  夫に対する息子の真っ直ぐな愛に、疑いの余地は一寸も無い。それを目の当たりにして私は、私と夫の築き上げるこの家庭こそが、息子にとっての安全基地なのだと痛感した。決して、この大切な心のふるさとを壊すまいと、心に誓う。  確かに、息子は祖父母に恵まれなかったかも知れないが、夫からの愛を一心に受けて真っ直ぐ育っている。私の愛も、息子の心の養分になっているなら本望だ。足りない物を数え上げればきりが無いが、この瞬間、確かに私たちは満たされていた。  ――それで、良いのだと思えた。 「ほら、明日たくさん遊ぶんでしょ? 今日はもう寝ようね」 「はーい」  幼少期から夢見ていた、喉から手が出るほど欲しかった「暖かい家庭」は今、私の手の中にあった。  幸運と、ひとすくいの毎日の努力が、それを紡いだのだと信じたい。
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