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行きずりの男が目をくれる。情欲の目で。イエスキリストの山上の垂訓によれば、翔子はしょっちゅう姦淫されていることになる。それ程いい女であり人妻である。
夫の内田佳祐は彼女を悪妻だと思っている。スポーツとは縁遠く伝統芸能を鑑賞したり神社仏閣巡りをしたりする自分と違ってマリンスポーツを趣味としていて浜辺でナイスバディを武器にビキニ姿でブイブイ言わしているような気がしてならないし、他にもゴルフも乗馬もやるし、虚栄心が強く宝石などで飾り立てることを始め旅行やグルメやレジャーも好きで金がかかってしょうがないのだ。その代わり、いい女だけに魅力的には違いなく、自分をより魅力的に見せるコツまで心得ていて体を使う趣味だけでなく読書も好きで純文学に通ずる才媛と来ているから佳祐の作品の愛読者でもある、そういう意味では良妻だ。
しかし、趣味が違うことを良いことに自分の知らない所で何をしているか分かったものではない。実際、彼女と出会い結婚に至ったのは、彼女からファンレターをもらったのがきっかけだったのだが、彼女にとって趣味並びに利点を生かせる自分の財力が目当てで結婚したのではないのかという疑念が内田には常にあった。
じゃあマリンスポーツやゴルフや乗馬に付き合って確かめればいいじゃないかとなるところだが、翔子にはそれぞれやるのに仲間がいて、その方面に暗い内田は足手纏いになるばかりなのである。
おまけに翔子は内田の趣味を馬鹿にする傾向を示すようになって来た。と言うのは自宅の座敷の縁側で林泉を眺めたり骨董品を弄ったりして風狂に耽っていても飛び石をぴょんぴょん渡って内田を一瞥してから、ふんと言うようにそっぽを向いて、またぴょんぴょんと飛び石を渡って行ってしまうし、にべもなくあんなにがいの飲めないわとか言って茶室で内田と付き合うこともなくなってしまったのだ。
能を見に誘っても現代日本人に直接連絡のない表現や唄い方は見てて退屈なだけで京都の寺や奈良の仏像がなくなっても現代日本人の生活が困らないように能がなくなっても構わない。古い文化が滅びても現代日本人の生活は滅びない。生活自体滅びなければ現代日本人の文化は現代日本人の文化でしかない。オリジナルもオリジナル。伝統の文化を守れもクソもない。京都の寺が焼けたら何のクソの役にも立たない物がなくなって清々したと喜ぶべきで代わりに必要な物を建てれば良いとこんな調子で一向に受け付けない。
馬鹿を言うでない!私には能も京都の寺も奈良の仏像もなくてはならない物なのだ。考えてもみなさい、京都のような古都がなくなったらどれだけ日本が味気なくなることか、螺鈿細工を剥ぎ取った漆器のようなものだと内田が反駁しても私は東京のような新都が好きと翔子はひと言で返すのである。しかし、房事はお盛んなのである。だから内田は満足してしまうのであるが、何しろ日本文学に通じている癖に日本の伝統とか文化とか武士道とかいう話になると、馬鹿にしててんで相手にしないのである。
殊に武士道を馬鹿にする所以から夫を決して裏切らない貞節な妻を理想とする内田にとって翔子は甚だ厄介な悩みの種であった。
だから男友達と一線を超すことはないかと冷や冷やものの毎日を送る内田であったが、そればかりが彼を懊悩させるのではない。彼は世間に認められながら誰も自分の作品の要諦を理解する者はいないと孤独に喘いでいるのである。翔子の美貌と理解力だけが救いなのだが、ある日、書斎に来て本棚から抜き取った書物をぱらぱらめくる彼女に言った。
「そうやってる時の翔ちゃんは安心なんだけどな」内田は二回りも歳が離れている翔子をそう呼ぶのだ。
「そりゃそうですわ。ここは佳祐さんがおっしゃるには聖域なんですもの」
「そんな意味で言ったんじゃない。書物に親しんでいる時は、という意味で言ったんだ」
「そんなこと分かってますわ。またアウトドアの趣味を危険だとおっしゃって詰る気でしょ」
「そうじゃない。他の男といる時が心配なんだ」
「何を心配なさるの?」
「また、そういう時だけ空とぼけて。いけない子だね」
「ふふ」と思わす吹き出す翔子であったが、「また、そういう流し目を使って男を見る。ほんとにいけない子だ。私は心配でならない」
「だって私の旦那様なんですもの」
「何言ってる。他の男にもそうするんだろと言っているのだ」
「するもんですか。私をどういう女だとお思いなの?尻軽とでも思って?」
「分かってるじゃないか、私の心配するところを」
「まあ、失礼しちゃうわ」
「ハッハッハ!」
翔子は内田の気に入る言葉遣いの巧みさで彼を笑わしたのだった。
「ま、しかし、翔ちゃんはもてるには違いないからな」
「もてるかどうか分かりませんけど、そのお積もりで私と結婚なさったんでしょ」
「ま、そうだが、翔ちゃんが安吾の堕落論や悪妻論や日本文化私観を読んで共感したに違いないと睨んだもんでね」
これは図星を差していたので翔子は流石大家と恐れ入った。
「だから姦淫も辞さない?」と内田にニヤリとして訊かれても翔子はとんでもないと言うように素知らぬ顔で否定した。
「そりゃあ、若い男にも求められるし、私だけではねえ」
「いえ、私」と翔子は落ち着き払って言うと、そそくさと内田に寄って来るなり嫋々としなだれかかった。「私は佳祐さんだけのもの。佳祐さんだけのものになりたくて結婚したのよ。なのに酷いわ。変な言いがかりばかりつけて」
何はともあれ内田は嬉しくなり、翔子を抱いてやり、「君は巧みだ」
「やだわ、そんな言い方、佳祐さんの意地悪」
「ふふ、ま、今まで通り精々目立たぬようにな」
「やだ、ほんとにやだ、佳祐さんたら」と翔子は甘えるように悶えるように内田にしがみついた。
「ふふ、今のおいしいおいしい立場を手放したくないものな」
「もう、佳祐さん!好い加減にして!」
「ふふ」そうだ、そうやってしがみつけ!しがみつくのだ!
そう思いながら内田はふくよかな乳房の感触を楽しむのだったが、自分は前妻に姦淫がばれて離婚した経歴を持つ男だけに翔子の姦淫を咎めるのは当然であるにしても咎める資格がないとも言えると気づくに至った。
こうなったら翔子が姦淫していないと信じるしかない。そう思って翔子を抱きしめるのだったが、哀しいかな信じがたいのだった。
安吾は堕落論の中で正しく堕ちて堕ちて堕ち抜けと言っているが、その孤独の果てに自分の中に確固たる価値観倫理観を創造するのである。果たして翔子は創造したのちも私を選ぶだろうか、と内田は思うのだが、私が選んだ子だ、必ず私を選ぶに違いないとも思うのだった。
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