壱 出発の前に

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壱 出発の前に

 修学旅行とは学生生活において最も重要なイベントであり、それを楽しまない者は学生ではない。青春を謳歌できないそんなやつは、将来ずっと悲しい人生を歩むことになるに違いない。  これは俺の言葉ではない。腐れ縁の、とある男が言った言葉である。  北海道の短い夏は儚く過ぎ去り、吹き抜けて行く風は徐々に秋の冷たさを乗せるようになる。そろそろジャンパーがいるねなどと話をしながら、人々は長い秋と冬への準備を始めた。  机の上に置いてある京都の観光ガイドブックを手に取り、ぱらぱらとページを捲る。付箋がいくつか貼られており、持ち主が旅行を楽しみにしているのが分かる。星影(ほしかげ)高校二年生の修学旅行まであと数日。行先は定番の京都・奈良だ。数年前までは四泊五日だったそうだが、予算の関係か何かで現在は三泊四日である。楽しい旅行が短いのは寂しいことかもしれないが、その分旅費は安いのだから生徒の実家には優しいのかもしれない。  開けられている窓から部屋に風が入って来る。揺れるカーテンの隙間から鳥のものにしては大きすぎる羽根が一枚飛び込んで来た。そして、大きすぎる羽音と共に上質な革靴が窓枠の上に着地した。 「来ると思って開けておいた」 「寒くありませんでしたか?」 「少しだけ」  現れたのは黒ずくめの美青年である。漆黒の髪に、漆黒の瞳、そして青に緑に光を散らす漆黒の翼。革靴を脱いで定位置の古新聞の上に置き、彼は窓をそっと閉めた。 「こんばんは、晃一(こういち)さん」  窓からやって来た美しい男は穏やかに微笑み、心地よい声で挨拶をした。そのまま何も起こらない状態であれば麗しく不思議な雰囲気を纏う魔性の男である。宵闇に紛れて人の部屋に侵入する危険な男だ。しかし、小さな音がその雰囲気を霧散させた。弱々しく鳴いたのは腹の虫だろうか。 「わ。あぁっ……。おは、お恥ずかしいっ……」  先程まで魔性の男だった眼前の男はわたわたと手を動かし、腹を押さえるか顔を覆うか迷った挙句に頭を抱えて蹲った。 「腹減ってるのか、紫苑(しおん)様」 「た、食べたはずなのですが……。山葡萄を数粒……」 「それは……足りないんじゃないか……? 鳥は体重比で結構食べるんだろ」 「人を大食いのように言わないでください。食べなくとも平気です」  ムッとした顔の下で、腹の虫がもう一度鳴いた。 「んぅ……」 「何か口にした方がいいよな」 「……晃一さん、机の上にある箱はチョコレートですか?」  勉強の合間につまんでいるものである。 「チョコでいいのか?」 「もう遅い時間ですし、今から何かを準備していただくのは申し訳ないです」 「分かった。それじゃあこれを供物として捧げよう」  個包装になっているチョコレートを二枚差し出すと、紫苑は飛び付く勢いで俺の手からそれを奪って行った。しかしその動きさえも優雅で軽やかに見える。
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