肆 祇園の夜に

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 俺は左手首の紐を撫でる。いざとなったら、これを……。だが、これはなるべくこれは使いたくない。それに、紫苑のことを信用していないわけではないが実際にこれが使えるのかは不明なのだ。危機的状態に陥って使おうとして、上手くいかなくておろおろしながら捕食されるという未来もありえる。 「着いた! ここよ。お腹いっぱい食べるわよ!」 「ついさっきでっけぇ抹茶パフェ食べたばっかりなのによく入るよなぁ」 「さっきじゃないし、デザートは別腹だもん」  それは食後のデザートに使う言葉だと思う。  ガイドブックを穴が開くほど睨み付けた美幸が選んでくれた店だ。どんな料理を食べられるのか楽しみだ。尤も、俺達が今日訪れた飲食店はそのほとんどが美幸のおすすめである。  今日の夕食は高校生のお小遣いでも安心な焼肉店だ。近くにはもっと高級な焼肉店があるが、そういうところは修学旅行で訪れるべき場所ではない。 「四人で予約してる曙です!」  そして、案内された個室で俺達は舌鼓を打った。  美幸が予約してくれていたメニューはすき焼きセットだ。この味のすき焼きが高校生のお小遣いで食べられるとは、なんていい店なのだろう。美幸はいい店を選んでくれた。いつもありがとう。 「美味しいね。友達とみんなでご飯食べると楽しいし。あたし、毎日修学旅行でもいいなぁ」  肉を卵に潜らせながら日和が言った。栄斗と美幸がそれに賛同する。  確かに、毎日現地で見学や体験ができれば充実した学習ができそうだ。しかし、そうなると座学が疎かになってしまわないだろうか。やはり机に向かって座って勉強するのは大事である。なんて、こんなことを言えばまたガリ勉だ何だと言われそうだが。  ところが、日和の発言を否定したのは俺ではなかった。日和本人が、肉を食べ終わってから「やっぱ駄目だ」と言った。 「毎日修学旅行だったらユキに会えない。死んじゃう。あたし恐ろしいこと言ってたね。なしなし。やっぱりさっきのなし」 「東雲ちゃんは本当にインコちゃん好きだよねー」 「早く帰りたい。まだ修学旅行楽しみたい。早く、帰りたい。まだ……。うおぉ……。うお……っ」 「ひ、日和ちゃん……! 気を確かに!」  おまえのことをクラスのマドンナだと信じているやつには絶対にその姿見せるんじゃないぞ。  様子がおかしくなっている日和に栄斗と美幸の意識が向かっている間に、俺はひよに豆腐や春菊を分けてやった。ひよは卵の付いているものを特に気にせずに口にしている。男の子の姿をしている時には何でも食べるのか、それともヒヨコは卵を食べるのだろうか。共食いにならないのか?  幸せそうにしているひよから、鍋に手を付けない友人達に目を向ける。ずっと修学旅行ならば良いということに同意したことを栄斗と美幸は日和に詫びている。インコの元へ帰るべきでインコも待っていると慰めており、全体的に様子がおかしくなり始めた。 「おい、誰も取らないなら俺が食べるが」 「あっ、待てよ晃一!」 「こーちゃんは日和ちゃんに何も言ってあげないの?」 「何を言ってやればいいんだ」 「大丈夫。大丈夫。朝日君は何も言わなくていいよ。あたしもう落ち着いたから」  湯気の向こうでひよりが微笑む。そうか。それならいいのだが。  俺は肉を取った。各々鍋を突き、平穏な食事に戻って行く。
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