壱 出発の前に

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 嬉しそうにチョコレートを食べていると普通の人間のように見えてしまうな、などと考えている俺の視界には漆黒の翼が揺れ動いていた。  俺の目には人ならざる者達の姿が映る。  それは例えば蛇のような体を持つ女であったり、失われた村に祀られていた鬼であったりする。人ならざる、とは言えないかもしれないが、幽霊も見えるということが小学一年生の時に曽祖父の葬式で証明されている。  俺の目に映る存在は妖と幽霊の他にもいる。神様だ。  チョコレートを口の中で転がして甘さに頬を綻ばせていると威厳というものが全く感じられないが、目の前にいるこの黒ずくめは神様である。有翼の美青年、紫苑。実の名を雨影夕(あまかげせき)咫々祠音(たたしおん)晴鴉希命(はるあけのみこと)という齢千年を超える神格化した八咫烏(やたがらす)であり、平時は異様に綺麗だと名の知れたカラス、夕立(ゆうだち)の姿を取っている。  一介の高校生である俺の部屋になぜ神が現れるのかというと、それは偏に俺が翡翠(ひすい)(げき)だからである。覡とはすなわち男の巫女のことだ。しかし、神社の関係者というわけではない。翡翠の覡というのは言うなれば選ばれし者である。神を導くとされる翡翠の神通力を操る人の子のことを翡翠の覡と呼ぶ。  その人の子を食べれば妖はたちまち神格化すると言われ、俺は度々妖に追い駆けられる。そんな俺を警護している彼は最初の依頼神(いらいにん)であり、とても偉いという大神達から任命された俺のお目付け役である。 「あっ。晃一さん、普通の鳥にチョコレートを与えてはいけませんからね」 「知ってる。まあ、おまえ以外の鳥に何かをあげることなんて滅多にないけどな」 「美味しかった、ありがとうございます。これで夜を明かせそうです」 「足りたのか」  紫苑はチョコレートの包み紙を丁寧に畳んでからゴミ箱に放る。 「供物に必要なのは物理的な量ではなく思いですからね。翡翠の覡たる貴方からの供物であれば、一晩過ごすには十分足りるでしょう」 「そうか」  人の子の思いは神の糧になる。数多の神社に祀られ数多の思いを受け取っているような神であれば食事をほとんど摂らなくても平気らしい。社を持たない紫苑の場合はそのようにはできないので食事が必要だが、人の子の思いというものが大切な糧であることに違いはない。  俺は机の前の回転式椅子に腰かける。壁の時計を確認してから、紫苑はベッドに腰を下ろした。現在の時刻は午後九時半を少し回ったところである。 「チョコ食べに来たわけじゃないだろ。用件は」 「そのガイドブック、京都のですよね。チョコレートの横の。修学旅行まであと少しですね」 「あぁ、そうだけど。……そういえば修学旅行には付いて来るのか?」  紫苑は俺のお目付け役であり護衛である。夏休みに函館へ行った時には当たり前のような顔をして付いて来た。
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