壱 出発の前に

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 俺に手を出すように言う。紐をくれるのだろうか。紐を貰ってどうしろというのか。 「晃一さん、右利きでしたよね。左手にしましょう」  そう言って、紫苑は俺の左手首に紐を結んだ。 「これは……?」 「いざという時に使ってください。一度だけ私の神通力が発動します。自衛用の攻撃可能な神通力が」 「いつも使っているやつか。俺に使えるのか? というか、俺が使っていいのか」 「先程私が使いかけたものを閉じ込めた状態になっているので、貴方が使うわけではありませんよ。他人の神通力を使うことなど普通はできませんし、仮にできたとしてそのようなことをすれば体にかなり負担がかかると思います。人の能力をその内から奪い取って己に取り込むことになりますからね……。使ったのは私、制限……リミッターを外して発動させるのが貴方。貴方の神力ならばこのリミッターを外すことも可能でしょう。ただし、発動するのは一度だけです」  一度だけですからね、と紫苑は念を押した。少し息が上がっていて、整った顔には汗が滲んでいる。こんなに便利なものを作れるのならば普段から持たせてくれればいいのにと思ったが、これを俺に持たせるためだけにこいつは随分と消耗しているらしかった。神は無敵で万能で無限の力を持つ存在なわけではない。この紐を作ること自体初めての試みなのかもしれないし、そう簡単にぽんぽん作れるものでもないのだろう。  こいつは、俺のためにそこまでやるのか。  俺を守ることは偉大なる大神から任されている仕事である。それに加えて、紫苑が受けている「人の子の思い」の大半は俺によるものなので俺が死ねばこいつは大いに困る。だからこいつは多少自分に無理をさせてでも俺の安全を考えた行動を取る。 「使う機会がないように祈っておく」 「はい、何も起こりませんように。それではお暇しますね」 「紫苑様」 「まだ何かありましたか」  窓枠に足を掛けた紫苑が振り向く。窓枠を掴んでいるので両手も塞がっている。そのジャケットのポケットに、俺はチョコレートを三枚詰め込んだ。 「よろしいのですか?」 「おまえ涼しい顔してるけど、この紐作って疲れてるの分かってるからな。友人の功労を称えて渡そう。俺が返せるのはこれくらいだけど」 「あ……。ありがとうございます。友人から貰ったお菓子として大事に食べますね」  嬉しそうに笑みを浮かべて、漆黒の神は夜空へ飛び立った。大きな翼を持つ人影は小さな鳥の形に変わり、かあかあという鳴き声が少しずつ遠退いて行った。
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