左手の晩餐

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 ※ ※ ※  運転手の男に促されるままバンに乗った僕は、十分後、居酒屋のテーブル席で彼と向かい合っていた。 「なんでも好きなものを食べてくれ」  僕が読める向きにメニュー表を広げながら、男が飄々と言う。夜道ではよくわからなかったけれど、彼の髪は明るいブラウンに染められていた。 「……ありがとうございます」  置かれた状況に頭が追いつかないまま、僕は適当な食べ物を注文して、メニュー表をテーブル端のスタンドに戻す。 「大学四年生ということは、就活生かな?」 「はい」 「そうかそうか」  彼は平坦な声音でそう言うと、グラスの烏龍茶を一口飲んだ。 「あの、なんか、すみません」  ちらっと自分の手元のジョッキに目をやりながらそう言った僕に対し、彼は「気にしないでくれ」と微笑んだ。 「僕は車だからね。お腹も空いていないから、遠慮せず君が好きなものを食べていいよ」  ちょうどその時、注文した食べ物のいくつかが到着した。僕は割り箸を手に取り、「いただきます」と手を合わせて香ばしい唐揚げを口に運ぶ。深夜にふさわしくない脂質が、食道を通って僕の全身を温めた。 「何かあったのかい?」  彼が飄々とした笑顔のまま、僕に訊ねる。こういう大衆居酒屋があまりに合わない人だ、と思った。 「いえ」  否定の言葉を返したのは、秘密にしたかったからではない。 「逆です。何もないんです」  アルコールのせいか、一日の疲れのせいか。  あるいは、目の前の謎めいた男性に二度と会わないことを、どこかで直感していたこともあるかもしれない。  ししおどしが傾くように、言葉が口からこぼれ落ちた。 「就活をしていると、いやでも思い知らさるんです。自分には、何もないんだなってことを」  思い知らされる。  次々と、思い出される。  例えば、まだ声変わりもしていなかったあの日のこととか——。
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