左手の晩餐

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 ※ ※ ※  それからまた三年の時が流れ、大学二年生の夏。  所属していたアカペラサークルでの飲み会を終え、僕は同期の女友達である灯里(あかり)と二人で帰り道を歩いていた。    他のメンバーと別れてから五分ほど経過し、僕の下宿先の前に近づいた時だった。 「灯里?」  左隣を歩いていた灯里から嗚咽が聞こえた気がして、僕は立ち止まる。  気のせいではなかったらしく、灯里は両手で顔を覆って震えていた。   「ど、どうした? 大丈夫?」  突然の出来事にうろたえつつ、僕はそっと灯里の背中をさすった。  何か嫌なことでもあっただろうか。どう声をかければいいのだろう。  そう考えていると、灯里が唐突に口を開いた。 「く、やしい」 「え?」 「さっき、言われた、女子、くや、しくて……」  ああ、もしかして。  断片的なその言葉から、僕は彼女の涙の理由を察知した。  ——いいよな女の子は、女子枠もあって。  飲み会の途中、一つ上の男子の先輩が口にした一言。  僕らの大学の理工学部には、その年度から「女子枠」での入試が始まっていた。  灯里が女子枠で入学してきたのかは定かではなかったけれど、大学での学業成績に鑑みて、特別扱いを受けずとも入試を突破する力を持っていたであろうことはほぼ確実だった。  いいよな女の子は、と言った先輩の口調に、決して悪意は感じられなかったけれども。  いや、何気無くさらりと口にされた言葉だったからこそ。  飲みの席では愛想よく口角を上げていた灯里が、内心どれほど唇を噛んでいたのかを想像する。 「わたしのお兄ちゃん、医学部なの」  絞り出すようにそう言った灯里の頰を、重苦しい涙が伝う。  自転車に乗った中年男性が、疲れ切った顔で僕らの横を通り過ぎた。背中にはUber Eatsの大きなリュック。 「小さい頃から、お兄ちゃんは医学部に行くことが決まってて。お母さんもお父さんもそのつもりだったから、お兄ちゃんはたくさん塾に通わされてた。大学受験では二年浪人して、その間予備校も行って。  わたしも同じくらい勉強したかった。小さい頃からずっと物理学者になりたかったの。だけどお兄ちゃんとは違って塾には行かせてもらえなくて、学校の先生に協力してもらいながらめちゃくちゃ勉強頑張った。お母さんもお父さんもはっきりとは口にしなかったけど、わたしが男の子だったら、もっとお金かけてくれたんだと思う。それがわかってて、だから悔しくて、女だからってなめられないように頑張ってきた。なのに、なのに……」  風に揺られた稲穂のようにふわりと、灯里が僕の左腕に倒れこむ。  初めて間近で感じる爽やかな匂い。ブラウスの滑らかな感触。  この華奢な体に、いったいどれほどの宿命が詰まっているのだろうか。    計り知れないその苦しみを自分の中に流し込みたくなって、僕は無言で彼女の背中に両手を回した。
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