1章 ならまちの薬草珈琲店

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 乾燥したクロモジの葉1.0gと中煎りのコーヒー豆15gをミルに入れ、重ねたカバーの上から力を加える。賑やかな音を立てながらコーヒー豆とクロモジ葉は細かくなり、回転しながら一体化していく。透明なカバーを持ち上げると、コーヒーの茶色に薬草の緑が程よく混じりあった柔らかな堆積物が見る目を癒してくれる。挽きたてのコーヒー豆と薬草の香りのマリアージュは、薬草珈琲を淹れる者でしか楽しめない秘密のアロマとなっている。  ならまちに店を構える薬草珈琲店の店主、今里琴音は、フィルターをセットしたコーヒードリッパーにその粉を移し、はかりのスイッチに指を伸ばす。スイッチON。もう少しで沸騰しそうな様子のケトルを持ち上げて、フィルターの上からお湯を少しずつ注いでいく。それに応じて、はかりの数値は少しずつ上がっていく・・・55g、58g、60g。いったんそこで止める。しばらくしてまたお湯を注ぎ、160gになったあたりでケトルを置いて、軽くコーヒードリッパーを揺らす。コーヒーがおおむね落ちきったら、薬草珈琲の完成だ。 「お待たせ。クロモジ珈琲になります」カウンター越しにコーヒーを差し出すと、そこでスマホを触りながらリラックスしていた客も「サンキュー」と返す。今日の最後の客は、琴音の中学校からの友達である笠原凛(かさはらりん)だ。  少し弱さや儚さを感じさせるルックスの琴音に対し、凛は健康的で明るいオーラを纏っている。ただ、その瞳の奥には、様々なことを経験してきた大人の様相を読み取ることができる。二人はいわゆる、親友と呼べるような間柄だ。2年前の開店時からずっと、毎週月曜日の晩、凛はこの薬草珈琲店に顔を出している。 「でも、コトリ、最近、やっと笑顔が様(さま)になってきたなー」  コトリとは琴音の中学時代からのニックネームである。琴音をずっと側から見てきた凛だからこそ、琴音の変化にも気づくのだろう。 「ありがとう。この冬で開店2年目だけど、やっと慣れてきたって感じかなぁ。お客さんも固定客が増えてきたから、説明も少なくて済むしね」 「薬草の説明のことね。余裕が出てきたってことかな?・・・でも、このクロモジ珈琲は安定の美味しさやねぇ。この香りが気分を晴れやかにしてくれる。」凛はコーヒーと一緒に出された香草クッキーを頬張りながら、満足げな笑顔を見せる。 「クロモジの葉も、今日の凛ちゃんにピッタリだよって言ってたよ」 「出ました。植物と会話するコトリ先生。」凛はフフッと笑う。「でもごめんなー、仕事が遅くなって、閉店間際になってしまって。でも、月曜の晩はここに来ないと落ち着かなくて」 「クロモジは香りがいいから、気を巡らしてくれるしね・・・でも、いつも来てくれて嬉しい。改めて、ご来店ありがとうございます。」琴音は笑顔で軽やかにおじぎをした。そして、要件をひとつ思い出して付け加える。「そうだ、凛ちゃん、名刺の増刷お願いできる?」 「もちろん。いつもの1000枚でいい?」 琴音はうんうんと首をタテに振る。 「急ぎ?」 「いや、できるタイミングでいいよ。11月にフードフェスがあって薬草珈琲も出店するから、そこで使おうと思って。あの川原さんのデザインした名刺、結構、かわいいって言ってもらえるんだよね」 「川原君が愛をこめてデザインした名刺ですからなあ」 「もう、それいいから笑」  凛はデザイン会社の営業をしていて、川原君はそこのデザイナーだ。琴音と川原君がどちらも独り身のアラサーということもあって、凛は時々このように茶化すことがある。川原君はときじく薬草珈琲店の開店に向けて様々なデザインを手伝ってきたこともあって、琴音と打合せを多く重ねてきた。しかし、二人はプライベートでそう何度も会ったことがある訳ではないので、恐らくこれは凛の定番の冗談なのだろう。ただ、琴音の名刺のデザインに川原君が情熱をかけていた、というのは本当のことらしい。  洗い終えた食器を片づけている琴音に、また凛のほうから声をかける。 「暁子さんが亡くなってから、もう少しで三年くらいだよな。」暁子とは、琴音の母のことだ。 「うん。もう少しでちょうど三年。でも、あの時は本当に凛ちゃんに助けてもらったな」 「私も暁子さんにたくさん良くしてもらったからな。当然のことをしたまで」 「あれからちょうど1年でこの店をオープンしたんだよね。そうそう、こんないい場所も凛ちゃんが見つけてくれて」 「営業やってるからねー。こういう情報は簡単に手に入るんよ」 「なんだか、特にこの数年は、凛ちゃんにお世話になってばかりやなぁ」 「うんうん。大いに私に感謝しなさい。コトリちゃん笑」  琴音と凛が話し始めると、真面目な話と他愛もない話が絡み合いながら、時間がするすると流れていく。凛は琴音にとって数少ない、心地よい時間を過ごせる相手、なのだろう。 「でもなんで、私のお母さんの話題が出てきたの?」ふと疑問に感じた琴音が凛にたずねる。 「いや、ここ数年、コトリはずっと取りつかれたように仕事をしてきたから、ちょっと心配だったんよ。でも、最近、笑顔が戻ってきたみたいで・・・」 「あー、寂しくないか、とか、そういうことかな?」 「うん・・まぁそんな感じかな?ちゃんと身体を休められているのかな、とかも含めて」 「真面目な話、凛ちゃんが本当に心の支えになってくれているし、私はいつも植物とお話しすることで癒されてるから、心はもう元気いっぱいです」 「お前は妖精か笑」 「そやね、妖精です笑・・・はいはい、ではそろそろ、お店、閉めるね」 「オッケー」  スマホのライトをつけて、店の照明をスイッチOFF。入口から外に出て、引き戸をガラリと閉める。古民家を改築した薬草珈琲店。入口の上には「ときじく薬草珈琲店」と書かれた小さな看板が町の光に照らされて、その文字をほんのりと浮かび上がらせている。  ならまちでは古い街並みが大切に保存されているため、そこを歩くと、大きな歴史の中で生きているという実感が持てる。広大な元興寺の境内だったこの町は、かつての伽藍の形に沿って道が曲がりくねったりしていて、道路にもクセがある。  8月のならまちの夜。この期間、ならまちの街並みは提灯の灯りで彩られている。奈良公園で開催されている燈花会というイベントと並行して、ならまちの店々にもライトアップが施されているのだ。古い町屋の木の格子も、いつもとは違う美しさを呈している。  凛は琴音を待ちながら、たくさんの提灯で明るさを増した小路をぼんやりと眺めている。北にあるのは近鉄奈良駅周辺の街並みだ。そして、琴音も店の戸締りを終えた。 「お待たせー。帰ろっか」 「よし、帰ろう」  二人はゆっくりと、ならまちの街並みを北に向かって歩いていく。 「凛ちゃん、仕事のほうはどうなん?」 「まぁねー。いろいろあるわね。デザインって正解のない仕事だから、理解のないお客さんだと無駄に長引いたりするしな。まぁ、こっちも悪いところはあるんやけど」 「そっか。これ、韓国の乾燥ナツメなんだけど、いる?」琴音はリュックから、ナツメのたくさん入ったパックを差し出した。 「ナツメは好きだけど、なんで?」 「ナツメには安神作用というのがあって、要はリラックスできるの。今日もクロモジ珈琲だったから、ストレスで気の巡りが悪くなっていたのかなって思って。クロモジで気を巡らした次は、ナツメでさらにリラックスしたらどうかなって思って」 「ほう、ダブルリラックスってことね」 「そう、ダブルリラックス。あと、睡眠の質も高まるかも」 「なるほどー。でも、こんなにもらっちゃっていいの?」 「お店でもちょっと余りそうになってしまってたから、もらってくれると助かるってのもある」 「ありがとう。じゃ、遠慮なく。」凛はカバンにナツメのパックをしまい込んだ。「今日はバイトの佳奈ちゃんは?」 「佳奈ちゃんは両親と食事に行くみたいで、18時あがりでした」 「おー、真奈美さんご夫婦と。佳奈ちゃんは親孝行ないい子やねぇ。今日もあの元気をもらいたかったねぇ。『私の元気はタダじゃないっすよ』とか言われそうだけど」 「言いそう笑」 「そうだ。久しぶりに燈花会を見に行かない?」少し歩いてから、思い出したかのように凛が琴音に提案する。「ちょうど、今日は私とコトリの二人だけだし」 「え?」琴音はほんの一瞬、心が揺らいだかのような表情を見せたが、すぐにそれは笑顔へと変わった。「そうだね。久しぶりに行こう。3年前にお母さんと凛ちゃんと私の三人で行って以来、ずっと行けてなかったな」 「私も同じ。」凛が琴音に優しい笑顔を投げかける。  燈花会とは、奈良公園を数万本のロウソクの光で灯す8月の奈良の風物詩だ。ロウソクの温かい光が夜の奈良公園を幻想的な空間へと変化させる。  琴音と凛は示し合わせをする訳でもなかったが、その足は自然と奈良公園の少し奥まった場所へと赴いた。そこでは少し大きい池の真ん中に小さなお堂が浮かんでいて、お堂も橋もロウソクの炎で美しく飾られている。池の水面にもロウソクの光が映っている。  しばらくその光景を二人並んで眺めてから、凛は琴音のほうをチラリと見た。夜の暗がりの中、琴音は柔らかなロウソクの明かりに顔を照らされながら、過去の出来事を慈しむような、遠く、儚げな、それでいて優しさに溢れる表情を見せている。  その刹那の後、凛の耳には「そうか・・・」と琴音が言ったように聞こえた。しかし、凛が無言で何?と目配せしても、琴音は首を横に振りながら「大丈夫。」と笑顔で応える。なんだろう。でも、話したくないんだったらそっとしておいてあげようと思い、凛もそれ以上は聞かないこととした。・・・そうして凛も視線を前に戻し、光の陰影とこの時間を改めて心に刻んだ。 「凛ちゃん、今日はありがとう。久しぶりに燈花会に来れて良かったよ。」しばらくして、琴音のほうから凛に声をかけた。その表情は優しく、この短時間の散策を有意義に過ごせたようだった。 「奇麗だったな・・・じゃあ明日もあることだし、帰ろうか」 「うん」  言葉を交わさなくても、一緒にいるだけで価値のある時間もある。凛はそのように考えながら、琴音と並んで帰りの方向に向かう。  やがて少し大きな通りに差し掛かり、今日はありがとうとか、ナツメ食べるわ〜とか言葉を交わしながら、二人はそれぞれの帰路についた。凛は西へ、琴音は南へ。 (著者注:燈花会は、正式には「なら燈花会」です)
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