1章 ならまちの薬草珈琲店

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1章 ならまちの薬草珈琲店

 夜、無数の灯火が闇にほのかな温もりを灯す瞬間、人は何を感じるのだろうか。美しいとため息をつく人。愛する人との追憶に浸る人。遥か遠い記憶への郷愁に囚われる人。太古の昔から流れる血が沸き立つような人。  しかし、それが、植物の囁きを聞き取れるような特別な能力を持つ人間だとしたら?その光景の中で、どのような物語が紡がれていくのだろう。  ー ー ー ー ー ー  近鉄奈良駅。東大寺や鹿で有名な奈良公園へのアクセスのために多くの観光客が行き交う奈良の玄関口。その駅から南へ15分ほど歩いた場所に「ならまち(奈良町)」という歴史地区がある。奈良時代から続く元興寺の旧境内を中心とした景観が今も残り、国内外の観光客を魅了している。格子窓を持つ伝統的な町屋が立ち並ぶ一方で、近年はモダンな店舗も増え、古と新が調和する独特の空間を形成している。  ならまちの静かな一角に、「ときじく薬草珈琲店」と書かれた小さな看板を掲げる店がある。この物語は、そのひっそりとした薬草珈琲店を中心に展開していく。  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  真夏の平日、月曜日のランチタイム。ときじく薬草珈琲店の店内は、控えめながらも活気に満ちていた。 「では、ご注文を繰り返させていただきますね。枝豆のポタージュセットがおひとつ、トマトの冷製スープセットがおひとつ。お二人ともパンはバタートースト。食後の薬草珈琲はスギナ珈琲がおひとつ、ウコンの珈琲がおひとつでよろしかったでしょうか」。二人の客が頷くと、バイトの佳奈は軽く会釈し、元気よくカウンターへ戻る。  カウンターの奥では、店主の今里琴音(いまざとことね)とバイトの佳奈の母親、真奈美が息の合った動きで調理を進めていた。「佳奈ちゃん、ありがとう」と琴音が穏やかな笑顔で応える。  店長の琴音は30代前半の女性。色白で儚げな印象を与えるが、その瞳の奥には強い意志の光が宿っている。彼女が始めたこの薬草珈琲店には、単なるビジネスを超えた使命感が込められていた。琴音はその想いを胸に、今日もプレートの盛り付けに集中している。  ときじく薬草珈琲店では、開店の11時からランチを提供している。スープとパン、サラダ、小皿、薬草珈琲がセットで1,000円+αという良心的な価格設定だ。カウンター4席と小さなテーブル席3つという狭い店舗だが、ランチタイムには常に賑わっている。休日は観光客が目立つが、平日は地元客や固定客で占められることが多い。  12時現在、店内はほぼ満席。カウンター奥の少し窮屈な席は、常連の高橋さんの定位置となっている。高橋さんは歯科医の妻で、健康意識が高く、地域の女性たちを集めて自宅でサロンを開くほどの影響力を持つ人物だ。隣には眼鏡をかけたワイシャツ姿の男性が黙々と食事を楽しんでいる。テーブル席はすべて埋まり、30代前後の女性二人組がふたつ、50代くらいの女性二人組がひとつ。テーブル席の客は、おそらく初めての来店だろう。 「高橋さん、お待たせしました。横からすみません~」琴音は手にしたランチプレートを、高橋さんの横から丁寧に差し出す。 「いいのよ。今日はどんなメニューかしら?」高橋さんはよく、このような解説を求めてくる。 「暑い時期ですので、トマトの冷製スープが気持ち良いと思うのですが、実はトマトにはフェンネルも加えているんです。身体を冷やしすぎないよう、工夫しています。小皿は・・・トマトが重なっちゃいましたが、フレッシュトマトのマリネです。こちらは乾燥した大和当帰葉とオリーブオイルを使って、暑さで消耗した血や体液を補えたらと」。 「ありがとう。いつも体に優しいわね」。微笑みながら高橋さんは箸を伸ばした。  周囲の客も会話に耳を傾け、「マリネ美味しいね」「大和当帰の香りがする?」といった言葉が行き交い、店内は食事を楽しむ和やかな空気に包まれた。ワイシャツの男性も静かにマリネを口に運んでいる。  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  14時。佳奈の母、真奈美はランチで使った食器をすべて洗い終え、今日の仕事を終えた。彼女は昼の忙しい時間帯のみ手伝うこととなっている。店の奥で身支度を整え、帰路につく真奈美。これからは、琴音と佳奈の二人体制となる。 「真奈美さん、今日もありがとうございました。お疲れ様です」 「お疲れさま〜。琴音ちゃんも頑張ってね。佳奈もしっかりね~」  3年前に母を亡くした琴音にとって、真奈美の温かな言葉は特別な意味を持つ。琴音はその言葉を心に留め、「よし、午後の営業も頑張ろう」と決意を新たにした。  しばらくして、ドアが開き「カフェ営業してますか?」と若いカップルが入ってきた。 「いらっしゃいませ」「いらっしゃいませ」と、琴音と佳奈は声を揃える。 「いらっしゃいませ、こちらがカフェメニューです。キッシュやタルトと薬草珈琲のセットがお勧めですよ」佳奈が明るく接客する。 「薬草珈琲って、どんなものなんですか?」と女性客。 「日本には素敵な香りと同時に、体にも良い作用をもたらす薬草や薬木がたくさんあるんです。それをデカフェのコーヒーとブレンドして、香りも健康効果も楽しんでいただくのが薬草珈琲なんですよ」 「へぇ、面白い発想ですね。何かお勧めはありますか?」 「ひとつ質問させてもらってもいいですか?冷えと火照り、どちらか気になることはありますか?」 「冷え・・・ですかね」 「なるほど。夏でも冷房で体が冷えてしまいますよね」 「そうなんです。インターン先のオフィスが冷房強くて・・・」 「こちらの店内は大丈夫ですか?」佳奈が気遣う。店内にはかすかに冷房がかかっている。 「はい、このくらいなら大丈夫です」 「では・・・棗とショウガの珈琲はいかがでしょう?ショウガが体を温め、棗のほんのり甘さが元気をくれます。スイーツは当帰葉入りのカヌレがお勧めです。大和当帰が手足の冷えの解消に役立つかもしれません」 「大和当帰・・・って何ですか?」 「奈良県が注目している薬草なんです。血行促進に良いとされ、根の部分は当帰芍薬散という女性向けの漢方薬の原料にもなっています。セロリに近い香りで料理の香り付けになりますが、スイーツにも意外と合うんですよ」 「ふうん、じゃあそれ、試してみます」 「ありがとうございます」  女性客の注文を受けた後、男性客のオーダーも確認する。彼はキノコたっぷりのキッシュとハトムギきなこラテを選んだ。  琴音は棗1.5gと乾燥ショウガ0.5g、コーヒー豆15gをミルで粉砕・撹拌し、ドリッパーにセットする。もう一つのドリッパーには男性客用のコーヒーをセット。2つの電子はかりを使って同時に抽出を始める。男性客用のコーヒーにはお湯をゆっくり注ぎ、濃い目に仕上げる。抽出が完了したら、女性客用の棗ショウガ珈琲はそのままマグカップへ注ぎ、男性客用はコーヒーにハトムギ粉ときな粉を加え、さらにホットミルクを注いでラテに仕上げる。ショーケースからカヌレとキッシュを取り出し、プレートに盛り付ける。 「お待たせしました。こちらが当帰葉入りのカヌレと棗ショウガ珈琲。そちらがキノコのキッシュとハトムギきなこラテです。どうぞごゆっくり」 「ありがとう。美味しそう~」女性客の期待に満ちた表情。  男性客も「お~」と声を上げ、プレートに見入っている。  静かならまちの小路。格子窓の内側も外側も、穏やかな時間が流れていく。格子の隙間から差し込む光は、古き良き奈良の時間を感じさせる。  飲食とおしゃべりを楽しんだカップルはやがてレジへと向かった。 「ごちそうさまでした~」 「ありがとうございました。薬草珈琲はいかがでしたか?」佳奈が応対する。 「私の体が温かいものを求めていたんだって、今日初めて気づきました」 「良かったです。少しは温まりましたか?」 「うん、暖かさが染み渡りましたよ。ショウガって、お腹から温めてくれるんですね。・・・あ、そうだ、毎日食べるもので何かお勧めはありますか?」 「本当はしっかりお話を聞いてからでないと・・・ですが、『体を温める薬膳食材』でネット検索してみるといいかもしれません。好きな食材があれば試してみるとか。個人的にはラム肉が体を温めてくれますね。温かい紅茶やほうじ茶もいいですよ。薬膳では両方とも体を温める性質があるとされています。服をもう1枚着るのも大事ですよ」 「すごい・・・いろんなことができるんですね。試してみます!」  佳奈と客の会話を、琴音はカウンター奥から優しい微笑みで見守っていた。  その日はその後、カフェタイムに3組、夕方に2組の客が訪れ、それぞれに合った薬草珈琲を楽しんでいった。18時頃、注文していた薬草類が"上松ファーム"から届く。高取町の農家からの直送だ。ときじく薬草珈琲店の薬草の多くはここから仕入れている。宅配業者にお礼を言い、今日の業務はほぼ終了となった。 「それじゃ、先に帰らせてもらいますね」とバイトの佳奈。本日は両親との夕食があり、早めの退勤となっていた。 「ありがとう。お疲れ様。佳奈ちゃん、今日も接客と薬草トーク、完璧だったよ」 「ありがとうございます。いつも横で聞いてるから、自然と覚えちゃいました」 「そういいながら、舞先生の授業もちゃんと頑張ってるじゃない」  舞先生とは、琴音と佳奈に共通の薬草の先生だ。 「一応、頑張ってます」佳奈は照れ笑いを浮かべる。 「えらいよ、ちゃんと頑張ってる。・・・あ、そうだ。この当帰塩、真奈美さんに渡しておいてくれる?」琴音は店で余った当帰フレーバーの塩を小さくラップに包み、佳奈に手渡す。 「おいしいやつだ。お母さん、喜ぶと思います。・・・ではまた明日!」 「また明日~」  三十路を過ぎた琴音から見ると、20代半ばの佳奈は溢れる若さそのものだ。しかし単に若いだけでなく、琴音の薬草珈琲の理念に共感し、共に前進してくれる心強い仲間でもある。そんな佳奈の後姿を、琴音は頼もしげに見送った。  真奈美と佳奈の母娘コンビは、琴音にとって大切な存在だ。しかし毎週月曜の夜は、琴音の一番の心の支えである友人が店を訪れる特別な時間だった。店の片付けを進めながら、琴音はその友人の来訪を心待ちにしていた。 ------------------ 【薬草コラム:大和当帰】 by さとたけ (^^)/ 奈良・山の傾斜地で古くから栽培される大和当帰。根は漢方薬の生薬素材として血行を改善し、葉は料理にも使われる。肉料理などに加えると、さわやかな香りと独特の風味が料理に彩りを添える。
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