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乾燥したクロモジの葉1.0gと中煎りのコーヒー豆15gをミルに入れる。琴音は力を込めて蓋を押さえつけると、軽快な音とともにコーヒー豆とクロモジ葉が細かく砕かれ、混ざり合っていく。透明な蓋を持ち上げると、コーヒーの茶色に薬草の緑が絶妙に溶け合った粉が姿を現す。挽きたてのコーヒーと薬草の香りが融合した特別なアロマは、薬草珈琲を淹れる者だけが味わえる密やかな喜びだ。
ならまちに店を構えるときじく薬草珈琲店の店主、今里琴音はドリッパーに粉を移し、はかりのスイッチを入れる。沸騰直前のお湯をゆっくりと注いでいくと、はかりの数値が刻々と上がっていく・・・55g、58g、60g。そこで一旦止め、コーヒーの膨らみが収まるのを待つ。しばらくしてまた注ぎ、160gになったところでケトルを置き、軽くドリッパーを揺らす。コーヒーが完全に落ちきったところで、薬草珈琲の完成だ。
「お待たせ。クロモジ珈琲です」。カウンターの客にコーヒーを差し出すと、スマホを触っていた女性も顔を上げ「サンキュー」と返す。今日の最後の客は、琴音の中学時代からの親友である笠原凛(かさはらりん)だ。
儚げな雰囲気を漂わせる琴音とは対照的に、凛は健康的で明るい印象を与える女性だ。しかし、その瞳の奥には様々な経験を経てきた大人の深みが宿っている。二人は親友と呼ぶにふさわしい間柄で、開店以来の2年間、凛は毎週月曜の夜にこの店を訪れていた。
「コトリ、最近やっと笑顔が自然になってきたなぁ」
コトリは琴音の中学時代からのニックネームだ。琴音をずっと見守ってきた凛だからこそ、その変化にも敏感だった。
「ありがとう。もう開店2年目の冬だから、ようやく慣れてきたのかな。常連さんも増えて、説明も楽になったし」
「薬草の説明のことね。余裕が出てきたってこと?・・・でも、このクロモジ珈琲は安定の美味しさだな。この香りが気分を明るくしてくれる」凛はコーヒーと一緒に出された香草クッキーを頬張りながら、満足げな表情を見せる。
「クロモジの葉も、今日の凛ちゃんにピッタリだって言ってたよ」
「出た!植物と会話するコトリ先生」凛はフフッと笑う。「でもごめんな、仕事が遅くなって閉店間際に。でも月曜の晩はここに来ないと落ち着かなくて」
「クロモジは香りがいいから、気持ちをリフレッシュしてくれるよね・・・いつも来てくれて嬉しいよ。改めて、ご来店ありがとうございます」琴音は笑顔で軽やかにお辞儀をした。ふと思い出したように付け加える。「そうだ、凛ちゃん、名刺の増刷お願いできる?」
「もちろん。いつもの1000枚でいい?」
琴音はうんうんと頷く。
「急ぎ?」
「いや、できるタイミングでいいよ。11月にフードフェスがあって出店するから、そこで使おうと思って。あの川原さんのデザインした名刺、かわいいって好評なんだよね」
「川原君が愛をこめてデザインした名刺ですからねぇ」
「もう、それはいいから」琴音は照れたように言葉を濁した。
凛はデザイン会社の営業で、川原君はそこのデザイナーだ。琴音と川原君が共に独身のアラサーということもあり、凛は時折このようなからかいを楽しんでいる。川原君はときじく薬草珈琲店の開店準備に携わり、琴音と何度も打ち合わせを重ねてきた経緯がある。二人のプライベートな交流は多くはないものの、川原君が琴音の名刺デザインに特別な情熱を注いだのは事実のようだ。
片付けを続ける琴音に、凛がふと声をかける。
「暁子さんが亡くなってから、もう3年近くになるんだよな」。暁子とは、琴音の母のことだ。
「うん。もうすぐ丸3年。あの時は本当に凛ちゃんに助けてもらったね」
「私も暁子さんにはたくさん良くしてもらったからね。当然のことだよ」
「あれから1年でこの店をオープンしたんだよね。そうそう、こんないい場所も凛ちゃんが見つけてくれて」
「営業だからね。こういう情報はすぐ入ってくるのよ」
「この数年、凛ちゃんにばかりお世話になってるね」
「そうそう。大いに私に感謝しなさい、コトリちゃん」
琴音と凛の会話は、真剣な話題と他愛のない冗談が自然に交わりながら続く。凛は琴音にとって、心から安らげる数少ない相手なのだろう。
「でも、どうして母さんの話題が出てきたの?」不意に琴音が尋ねる。
「いや、ここ数年のコトリはずっと使命感に取りつかれたように仕事してきたから、少し心配だったんだ。でも最近、自然な笑顔が戻ってきたみたいで・・・」
「寂しくないかってこと?」
「うん・・・それもあるけど、ちゃんと休めてるかとか含めて」
「凛ちゃんが心の支えになってくれてるし、私はいつも植物と話すことで癒されてるから、心は元気だよ」
「お前は妖精か」
「そうね、妖精です・・・はいはい、そろそろ店、閉めるね」
「オッケー」
スマホのライトを点け、店の照明を消す。外に出て引き戸をガラリと閉める。古民家を改装した薬草珈琲店。入口の上には「ときじく薬草珈琲店」と書かれた小さな看板が夜の光に照らされ、ほのかに浮かび上がっている。
ならまちでは古い街並みが大切に保存されており、その通りを歩くだけで歴史の中にいるような感覚に包まれる。かつての伽藍に沿って曲がりくねった道路が、この町の独特の雰囲気を醸し出している。
8月のならまちの夜。この季節、街並みは提灯の灯りで彩られている。奈良公園の燈花会と連動して、ならまちの商店にもライトアップが施され、木の格子窓に特別な美しさが宿る。
凛は琴音を待ちながら、提灯で明るくなった小路を眺めていた。北には近鉄奈良駅周辺の現代的な街並みが広がっている。やがて琴音も店の戸締まりを終え、二人は歩き始めた。
「お待たせ。帰ろっか」
「うん、帰ろう」
二人はゆっくりとならまちの通りを北へと進んでいく。
「凛ちゃん、仕事はどう?」
「まぁね。いろいろあるわ。デザインって正解のない仕事だから、理解のない客だと無駄に長引いたりする。こっちにも悪いところはあるんだけど」
「そっか。これ、韓国の乾燥ナツメなんだけど、いる?」琴音はリュックから、ナツメがたくさん入ったパックを取り出した。
「ナツメは好きだけど、なんで?」
「ナツメには『安神作用』っていうのがあって、リラックス効果があるの。今日もクロモジ珈琲だったから、ストレスで気の巡りが悪くなっているのかなって。クロモジで気を巡らせた次は、ナツメでリラックスしたらと思って」
「なるほど、ダブルリラックスか」
「そう、ダブルリラックス。睡眠の質も高まるかもね」
「こんなにもらっちゃっていいの?」
「お店でも余りそうだから、もらってくれると逆に助かる」
「ありがとう。じゃ、遠慮なく」凛はカバンにナツメのパックを入れる。「今日は佳奈ちゃんは?」
「両親と食事に行くって、18時に上がったよ」
「おー、真奈美さんご夫婦と。佳奈ちゃんは親孝行のいい子だね。今日もあの元気をもらいたかったな。『私の元気はタダじゃないっすよ』とか言われそうだけど」
「言いそう」琴音も笑う。
「そうだ、久しぶりに燈花会見に行かない?」少し歩いてから、凛が唐突に提案する。「ちょうど今日は私とコトリの二人だけだし」
「え?」琴音はほんの一瞬、表情を曇らせたが、すぐに明るい笑顔を取り戻した。「そうだね。久しぶりに行ってみよう。3年前にお母さんと凛ちゃんと三人で行って以来、行けてなかったな」
「私も同じだよ」凛は琴音に優しい笑顔を向ける。
燈花会とは、奈良公園を数万本のロウソクの灯りで彩る8月の風物詩だ。温かな光が夜の公園を幻想的な空間へと変える。
二人は無言の了解のもと、奈良公園の奥まった場所へと足を運んだ。そこには小さな池の中央に小さなお堂が浮かび、お堂も橋もロウソクの炎で美しく飾られている。水面にはロウソクの光が揺らめきながら映り込んでいた。
しばらくその光景を並んで眺めていると、凛は琴音の横顔をそっと見た。夜の闇の中、琴音の顔はロウソクの柔らかな光に照らされ、何か遠い記憶を慈しむような、儚く、それでいて温かな表情を浮かべていた。
その瞬間、琴音の口から「そうか・・・」という言葉が漏れた。凛が無言で「何?」と問いかけても、琴音は首を横に振りながら「大丈夫」と笑顔で答えるだけだった。何か思い当たることがあったのだろうか。でも話したくないなら無理に聞くまいと、凛はそれ以上追及しなかった。二人は再び前を向き、この幻想的な光景を心に焼き付けた。
「凛ちゃん、今日はありがとう。久しぶりに燈花会に来られて良かった」しばらくして、琴音から声がかかった。その表情は穏やかで、短い時間ながら充実した体験を味わえたようだった。
「うん」
言葉を交わさなくても、共にいるだけで価値のある時間がある。凛はそう感じながら、琴音と並んで帰り道を歩き始める。
やがて大きな通りに差し掛かり、「今日はありがとう」「ナツメ、食べるね」といった言葉を交わし、二人はそれぞれの帰路についた。凛は西へ、琴音は南へ。
(著者注:燈花会は、正式には「なら燈花会」です)
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