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2.
それから何度か彼は店に来るようになっていた。平日の二十時くらいになると、フラッと入ってくる。週二回くらいだろうか。いつも一人で刺身と酒と一品頼んで、一時間もしないうちに帰る。注文を取る時以外、話すことはしないが、決して一人で寂しそうというわけでもない。刺身を出すたび、一品料理を出すたびに、嬉しそうに目を輝かせるんだから。
今日は洋子が不在で一人で切り盛りしている日。お客の入りは普通より少ない日だが、やはり一人では、なかなかお客の相手がてんてこ舞いだ。
「カウンター越しじゃけど、ごめんな」
仕上がった刺身をカウンターの中から手を伸ばして渡す。お客はそれを受け取ってくれる。
もうひとつ出来上がった刺身を今度は別の席に座っている例の若いサラリーマンに出そうとした時。ちょうどカウンター前に置いてある作り置きの煮物が邪魔して、カウンター越しに刺身を渡そうとしたが手が届かない。俺は彼に声を掛けた。
「あー、ごめん。ちいと、たわんわ」
が、当の本人は不思議そうな顔をしている。
「え……っと」
何か困惑したような顔をしている。変なこと言ったっけ?俺も刺身を持ったまま、固まっていたら、たまたま彼の隣で晩酌していた常連の豊さんがプッと笑った。
「フミさん、この子『たわん』がわかんないんだと思うよ」
「へ?」
その常連の言葉に若いサラリーマンはへらっと笑って頷いた。それを見て豊さんがさらに畳み掛ける。
「だよねえ!俺も静岡からこっちに来て初めて聞いた時、何を言ってるか分からない時あったもん。なあ、お兄さん県外の人でしょ?」
お兄さんと呼ばれた彼は、おずおずと話す。
「そうです、僕、北関東から来たんです。今まで広島の人と関わりがなかったので」
方言が伝わらないというのはよくあるけど、まさかこんなによく使う言葉が通じないなんて、とちょっとショックだ。
「悪かったねえ、『たわん』は『たわない』よ」
俺がそう言うと、豊さんがつかさず突っ込んでくる。
「『届かない』でしょ」
それを聞いて若いサラリーマンがまた笑う。よく笑う子だなあ。
「すみません、俺も覚えるようにしますね」
そう言うと、席を立ち上がり俺の持っている刺身に手を伸ばした。
若いサラリーマンは名前を尾崎紀之といった。北関東からこちらに転勤になったばかりで、まだ三ヶ月くらいしか経ってないらしい。三ヶ月しか経っていない割には、俺はもう何度も顔を見ているから、こっちに来てすぐこの店に来てくれたということか。
ある程度、お客が引いてきて、てんてこまいだった時間もなくなり、店内にはもう数人だけとなっていた。俺は手元にある烏龍茶を飲みながら、いつもよりちびちび飲んでいる尾崎に話しかけた。
「何でこの店に来てくれたん?」
「たまたま、帰りに歩いていたら立ち看板に気がついたんですよ。地産地消の居酒屋って書いてあったから。他にもそういう店はあるんでしょうけど、ちょうど目に入って」
「路面に置いとるやつか。あれ邪魔だからどけろって、ビルのオーナーに言われとったんじゃけど」
「置いておいた方がいいですよ。ここ三階だから、一見さんはなかなか気づかないと思います」
尾崎はいつも冷酒をオーダーする。今日は女性にも人気のフルーティーな酒。おちょこを傾けるその姿はスーツを着ているものの、ここに警察官がいたら『君、未成年でしょ』と止められるような風貌だ。黒縁メガネに短い前髪。あどけない顔をしているので、まだ二十代の前半だろう。それにしてもこんなに若いのに何で一人で飲んでるんだろうか。
「職場の人と飲みに行ったりせんの? いつも一人で来てくれとるけど」
つい、そう聞いた後、しまったと思った。まるで『一緒に飲む友達はいないのか』と言っているようなものじゃないか。すると尾崎はへらっと笑う。どうも彼は飲むとよく笑うようだ。
「俺、前から一人酒に憧れてたんです。行きつけの居酒屋に行って、一人で呑むのが」
「そうなん?じゃあ、お邪魔かいね?」
「いえいえ!俺の計画の中には『居酒屋の店主と仲良くなる』も入ってるから嬉しいです」
その言葉に思わず笑ってしまう。何だそりゃ。
ふと彼の手元のガラスのとっくりの中身がなくなっていることに気づいた。
「ありゃ、もうみててしもうた?次どうする?」
俺の言った言葉に、尾崎はまた不思議そうな顔をする。これも分からないのか。俺はカウンター越しにとっくりを持ってそれを振る。
「もうなくなってますけど、次は何にいたしましょうか」
俺がわざと標準語でそう言うと尾崎は再び笑い、スーツの内ポケットから小さなメモ帳とペンを取り出し何かを書いている。
「みてる、がなくなる。たわんが、届かないですね」
なんと広島弁をメモしている。
「そんなん、メモしてどうするん」
「お話がわかるようにしたいです。僕も喋れるように」
赤ら顔をした尾崎はそう言うと、次の酒を注文した。
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