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懐かしい歌謡曲が流れる店内で、俺は鼻歌を歌いながら仕込みをしている。懐かしいといっても、人気があったのは俺が中学生の頃で、リアルタイムでこの曲を知っている。 昔は居酒屋で流れてる曲なんて、知らない演歌や親父世代の曲ばっかりだったのになあ。いつのまにか俺らが知ってる曲が懐メロなんて言われてる。 ああ、ヤダヤダ。歳はとりたくないねぇ。 そんなことを思いながら、イワシを捌いていく。瀬戸内海は新鮮な小イワシが漁れるから、こうやって刺身にすることもできる。ただ小さいので捌くのが大変だけど。 俺、南野郁弥(みなみのふみや)が数年勤めてた会社を退職して、念願だった居酒屋をオープンしたのは三年前。中四国最大の歓楽街であるこの街に店を構えることができたのは、ラッキーだった。 しかも店を三年も続けられてるのは、さらに奇跡に近い。何故なら先日あったはずの店が、翌日には看板が変わっているなんていう光景をよく目にするから。 そんな中、こうして生き延びているのは、地元食材と酒を知り尽くした俺の力量と、相方の藤井洋子(ふじいようこ)がいるからだ。 洋子は妹で昨年嫁に行ったけど、その後もこうして店を手伝ってくれている。まあ旦那がこの店の常連なんだから、事情はよく分かってくれているんだけどね。 まだ準備中というのに、ドアが開いてチリンと音がした。金曜日の夕方。この時間に来るのは常連客の田原さんだ。 「フミさん、今日はイサキじゃ!ここ置いとくけえの」 田原さんは入ってくるなり、肩に担いでいたクーラーボックスをカウンターにでん!と置いた。釣りが趣味の田原さんは、たまに釣りに行っては、こうして帰りにここに寄って魚を持って来てくれる。そして釣った魚を店で使って欲しいと置いていくのだ。 釣りが一番の趣味の田原さん、実は刺身が大嫌い。なのでせっかくの新鮮な魚はお客の胃袋に入る。 クーラーボックスを開けて、中身を見せてくれる田原さん。大きなイサキが鎮座していた。 「こがあに(こんなに)大きいのは久々じゃな」 俺が言うと、隣から洋子がヒョイとクーラーボックスを除く。 「ありゃ、捌き甲斐があるねぇ。フミ、こっち置いといてぇや」 今年三十路になる洋子は、三歳年上の兄を呼び捨てにする。しかも人使いが荒いのだ。 「へぃ、へい」 開店時間を迎え、看板に灯りを灯し、ドアの前にオープンの札をかける。雑居ビルの三階にあるこの店は、こじんまりとしていてテーブルは三つ。カウンター席は五つだ。 売上ももちろん大切だけど、俺はどちらかと言うとお客との繋がりを大切にしたい。だから、全てのお客に目が行き届くくらいの広さで店を構えることにしたんだ。 平日はたまにお客が入らない時間帯もあるが、二十時を過ぎる頃には、大抵常連客が飲みに来たり、はしご酒のお客が来る。 「フミさーん同じ酒、お代わり」 赤ら顔のサラリーマンがおちょこ片手に、カウンター越しに話しかけてくる。 「あいよ。あんたあ、酒もじゃけど水も飲まんといけんじゃろ。一緒に置いとくけぇ」 命の水、というと大袈裟だがうちでは酒と一緒に水を出して『飲み過ぎ』を防いでいる。せっかくの美味しい酒も飲まれてしまっては美味しくないし、楽しくないからだ。 今日は金曜日。いつもよりお客の入りがいい。テーブルには予約して来店したサラリーマンたちや、若い子のグループ。カウンターは複数の常連客が座っていた。 「今日は田原さんの釣ったイサキがあるけど」 「お、ええね!」 「洋子、イサキ出しちゃってぇや」 そんなやりとりをしている時、ドアが開く。 入ってきたのは紺のスーツを着た、サラリーマンだ。恐らく初めて見る。 「あの……席空いてますか」 おずおずと聞いてくる彼にカウンターなら、と答えるとホッとした顔を見せた。一番奥のカウンター席に座り、店をキョロキョロ見渡す。 彼を見ておや?と感じたのは、かなり若いからだ。最近、若い子がひとりで飲みにくるのは珍しい。 「いらっしゃい。お手拭きどうぞ」 洋子からお手拭きを受け取ると、会釈しながらメニューを開いていた。 「フミさん、オーダーええかいね」 なんとなく彼を見ていたが、お客に声をかけられて、そちらを向いた。 その日が彼を見た初めての日となった。
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