0人が本棚に入れています
本棚に追加
1章 BL概論
本章ではこの分野になじみのない層――要するに男性へ向けてBLとはなにかをかいつまんでご説明いたします。
BLはあまりにも豊饒な娯楽領域を持つため、すべてのトピックをご紹介していると太陽の輻射エネルギーが尽きるまでにやり遂げられないおそれがあります。大幅に抜粋・割愛した内容になる旨、あらかじめご了承ください(特に現役腐女子の読者はご了承ください)。
取材元は大部分が腐女子歴20年を誇る実妹、あとはごく少数の知人となります。サンプル数が少ない点は科学考察として弱点になるでしょうが、収拾情報量は(あくまで男性としては)右に出る者はいないと自負しております。
それでは早速始めましょう。
1 BLとはなんぞや
ずばりボーイズ・ラヴの略称です。BLが取り扱う範囲は非常に広く、漫画やアニメのキャラクターを起用する主流派から、ドラマの役柄、特撮もの、お笑い芸人、果てはジャニーズグループに至るまで、腐女子の魔の手が伸びていないジャンルは皆無といってよいでしょう。
それらに登場する男性同士に恋愛感情が生まれるというていで、最終的につがうまでを描くのがBLの目的です。ですからどんなジャンルでも内容はほぼ同じです。仲のよい二人の男性がいて、そいつらが(まことに不可解なことに)互いを好き合い、ことをすませて大団円。ストーリーはこの流れから逸脱することはありません。
ヒトは通常、結果のわかり切っている物語に魅力を感じません。格闘技の試合でどちらが勝つか知ってしまったうえで、それでもワクワクしながら視聴するのは不可能ですし、(叙述形式でない未読の)ミステリ小説の結末をネタばらしする輩は、軍法会議のうえで略式起訴、絞首台にぶら下げられても文句は言えません。
しかしあっと驚くどんでん返しがあるにもかかわらず、それでもなお再読に値する小説は現に存在します。海外SFの「タイタンの妖女」や「終りなき戦い」なんかはその筆頭でしょう。そうした小説は結末が衝撃的なのはもちろんのこと、起承転結のどこをとっても完璧なのですね。気まぐれにぱらりとページをめくって目についたセンテンスにすら魅力を感じる。そうした作品が名作と呼ばれるのでしょう。
BLが周知され始めたころ、なぜ〈やおい本〉と呼ばれていたかご存じでしょうか。①ヤマなし、②オチなし、③イミなしの3点セットを完備していたからです(①~③の頭文字をとって「やおい」であります)。それは冗長で、だらだらと心理描写・性交描写がなされ、物語としてのていをなしていない。とても通読に耐えうるものではないと評価されていたのですね。
こうした批評はまったくの的外れです。そもそもBLとは起承転結のあるスリリングなストーリーを楽しむものではなく、批評の的になっているやおい成分、すなわちだらだらと垂れ流される心理描写・性交描写を楽しむものなのです! 推しのカップルがひたすらイチャイチャするのを見るのが目的なのです。腐女子たちはじめから結末に意外性など求めていないのですね。
まとめますとBLとは、〈推しの男性カップルがイチャつく過程に重点を置いた創作物〉の総称と定義できるでしょう。
以下大ざっぱに分類していきます。
① 二次元二次創作
BL界隈の主力部隊。漫画やアニメ――いわゆる二次元――の男性キャラクターを起用し、好き勝手につがわせまくる分野ですね。表現媒体は圧倒的に漫画がメインではあるものの、小説も(一般文芸の読者がますます減少するのとは対照的に)イメージを自分なりに想起できるという理由で猛威をふるっているようです。
好き勝手というのはもちろん言葉のあやです。ライトな層はともかく、作品に思い入れの強い腐女子は原作崩壊を非常に嫌います。あくまでカップルは原作で仲のよい者同士に限られる。単に好きなキャラだからという理由でくっつけると、ヘビーユーザーから猛烈なクレームが入る由。
こうした腐女子の生態を表現するのにうってつけの言葉があります。「飛影はそんなこと言わない」。読者の没入感を損なわないよう、クリエイター側は細心の注意を払う必要があります。原作にない設定、原作にそぐわないキャラの言動、語尾や展開などなど、留意すべき項目は天文学的な数にのぼります。
ちょっと待ってくれ、そもそも男性同士のカップリング自体が原作崩壊ではないのか、というしごくもっともに思える疑問を発するのは誤りです。彼女たちのこじつけ――もとい洞察力の高さには驚嘆すべきものがある。腐女子はほんのわずかな伏線も見逃しません。
作品中で推しの二人が絆を深めたとおぼしきなんらかの描写があれば、その1コマを根拠にカップリングが成立する。それがたとえ敵を倒したあと、味方同士が力強く腕を組み合わせる、という程度の内容でもです。身体的接触がある=恋愛感情があるにちがいない! というように短絡するのですね。
ゲイでないストレイトの男性にとって、ホモ的感情を友人や同僚に持つことなど天地がひっくり返ってもありえないというのが一般的な主張でしょう(し、進化論的にも裏づけられています)。惜しむらくはBLが女性によって創始・運営されているという点。リアル男性の肌感覚なんかをなぜ反映させなければならないのですか? 彼女たちにとって重要なのは、推したちがイチャつくことのみ、それだけなのです。
なお本エッセイでは特筆しない限り、以下では二次元二次創作に関して論考を進めていきます。事項以降でも別種類の創作次元をご紹介はしているものの、基本的に次元の単位が増えるだけであり、概念としては相違ありません。
コラム 原作・公式準拠へのこだわり
腐女子はみずからに制約を課すことで有名です。彼女らは公式設定に強いこだわりを示し、多くの二次創作が原作の雰囲気を壊さぬよう細心の注意を払い、わずかな証拠(と彼女たちがみなす代物)を積み上げてカップリングを成立させています。原作崩壊をやらかすのはルール違反なのですね(そもそも著作権というルールを守っていないのでは、ですって? 北島康介氏の名言を引用するしかありませんね。「なんも言えねえ」)。
その点が男性向けの二次創作と明確に異なる点でありましょう。男性向けのほうは原作の設定なんかは二の次で、とにかく人気の女性登場人物がセックスしていればそれでよしとする風潮があります。消費者がそれで満足するからなのはいうまでもありません。
腐女子の公式へのこだわりがいかにすさまじいか、実例を挙げましょう。実妹は同人漫画を発表する際、台詞回しの勉強のため、ひたすら原作を何度も読み返して作品世界に没入しておりました。目は見開かれて血走り、傍目にも集中しているのがわかる。それだけではなく、何度も台詞を写経していつでもふさわしい言葉が出てくるように鍛錬していました。
なぜここまでやるのか? もちろん消費者も同等レベルの復習を怠らないからです。推しを眺めるためにいったい何度単行本を読み返しているか、知れたものではありません。そうした連中につけ入る隙を与えぬよう、クリエイターは日々努力し続けなければならないのです。
② 2.5次元二次創作
このあたりから定義が複雑化していきますので、初学者は集中力を研ぎ澄ましてください。2.5次元とは、〈なんらかのキャラクターを実際の役者が演じる作品群〉の総称ですね。
具体的には特撮もの、ドラマ、アニメ作品の舞台などが該当します。仮面ライダーはショッカーに改造された主人公が悪の怪人たちと戦うという筋立てですが、実際に仮面ライダーは存在しません。あくまでそうした設定のもと、役者が演じているのですね。
ですからなにも「テニスの王子様」の舞台のようなものだけが2.5次元ではありません。月曜日の21時から放映されるドラマだって脚本に書かれたキャラを役者が演じているのですから、これも広義の2.5次元に含まれます。定義をくり返しますが、架空のキャラを実際の人間が演じるものが2.5次元であります。
さて問題のBLですが、これは2.5次元を対象とした二次創作のことですね。まあ意味は書いて字のごとくであります。上述したようなジャンルで男性カップルをこじつけででっちあげ、好き勝手つがわせるわけです(好き勝手が言葉のあやなのはわざわざ言及するまでもありません)。
二次元の二次創作は主に著作権が問題になるのに対し、こちらは実際の役者を(間接的に)起用しているため、著作権に加えて肖像権にも抵触する可能性があります。したがって本分野のクリエイターは二次元界隈よりもおおっぴらにはやらず、アンダーグラウンドへ潜行する傾向がありますね。
③ 三次元二次創作
最後はこちら。腐女子の辞書に加減という文字はありません。男二人がそこにいればあらゆるジャンルが対象になります。なぜアニメキャラやドラマキャラだけで満足しなければならないのですか? リアルにはジャニーズやお笑い芸人など、男だけで活動している人びとが無数に存在するではないですか!
そうです、三次元二次創作とは禁じ手も禁じ手、実際に存在する生身の人間を対象にするという信じがたい暴挙なのですね。ジャニーズグループはお互いが好きだから寄り集まっているのではなく、そのほうが集客できるからそうしている。男性お笑い芸人が異性と組まないのは、ビジネスに女性が混じると公私混同が起こって関係が崩壊するので、そうした可能性のない同性を選んでいるのです。
中学生の時分、男子は意中の女子を知られるのが即、社会的な死を意味しました。それは潜水艦の正確な位置にも匹敵する軍事機密であり、なんとしても守り抜かねばならなかった。悲しいかな、人の口に戸は立てられません。ひとたび情報を(親友などに絶対誰にも言わないことを条件に教えるなどして)脳内から出力すれば、早晩関係者全員に伝播します。情報は拡散する。そういうものです。
さてそうなると、生徒たちはヒソヒソとあなたと意中の女子の噂を囁き始めます。やれ付き合っているだのやれ交尾しただの、迷惑千万このうえない。好きな女子に気持ちが伝わる方法として、赤の他人からの口づてというのは考えられる限り、最低であります。
わたしの言いたいことはもうおわかりでしょう。無関係な人間の下司な勘ぐりで、好きな人がどうのこうのと囃し立てられるのは非常に不愉快なのですね。腐女子諸君にもそうした経験がありそうなものですが、なぜ自分がされて嫌だったことを平気で他人にやってしまうのでしょうか……。
それはともかく、三次元二次創作は現実に存在する有名人をなんらのクッションもなく慰みものにするため、法的な扱いは①項、②項以上にセンシティヴです。というかもう完全に違法だと思われます。場合によっては肖像権やプライバシー侵害で起訴される可能性すらある。
そうした事情を十分知悉しているのでしょう、この分野に(無謀にも)参戦している腐女子たちは非常におとなしい。法的措置を恐れて地下へ地下へ、可能な限り地下へと潜っているようです。
潜る方法はいくらでもあります。ツイッターで公開するにしてもアカウントに鍵をかけ、相互フォロワーのみ閲覧可、というような視聴制限を課すのですね。そうした意味で三次元二次創作は、ダークウェブと定義できるでしょう。
2 腐女子の生態について
大げさに節を改めたものの、そう大それた定義があるわけではありません。単にBLをたしなんでいる女性。それだけの話です。ただし一般女性とはいくつか異なる点があるのも事実ですので、そのあたりを羅列していきましょう。
① 推しという概念
サブカルチャーが一般に膾炙して久しい昨今であります。つい15年くらい前までは、公の場でアニメを見ているなどと白状しようものなら即、社会的な死を意味しました。ことに男性は致命的で、合コンなどではいかに爽やかそうな趣味をでっち上げるかが焦点ですらあった(まあこうしたオタクはそもそも合コンに呼ばれませんし、仮に呼ばれたとしても空気を読まず、堂々とアニメ視聴が趣味だと公言して憚らないでしょうが)。
どれほどこうした圧力が強かったかの実例を挙げましょう。わたしが高校性だったころ(もう20年ほど前のことです)、ヒョロロくんという友人がいました。度の強いメガネ、かん高い笑い声、三次元のエロへの嫌悪。役満です。彼はもちろん重度のオタクでして、ガンダムやテイルズなどに造詣が深く、おまけに任天堂信者でありました。ここまではよい。問題は彼が「声の大きいオタク」であったことです。
こうしたタイプは周りへの配慮が絶望的に足りていません。ひとたび興奮し始めればTPOをわきまえず、大声でアムロ・レイやカミーユ・ビダンやジュドー・アーシタやゼルダの伝説やスマブラのことについて、太陽の中心温度をもしのぐ熱(苦し)さで喚き散らすのですね。ヒョロロくんの悪名は内外にすっかり定着してしまった感がありました。
ある日、他クラスの陽キャたちがわがクラスに乗り込んできて、ヒョロロくんに目を留めるや否や、大股で迫ってくるではないですか。リーダー格の男は横柄な態度でこう切り出しました。
「おまえがヒョロロか?」
彼は気後れしながらもうなずきました。
「おまえ、ガンガン読んどるらいしな?」彼は吐き捨てるように続けます。「ガンガン読んどるとかマジきめえわ」
場が凍りつきました。当然ヒョロロくんは少年ガンガンを購読しています。いまでこそガンガンといえば「鋼の錬金術師」を輩出した雑誌として名を知られていますが、当時は「気色の悪いオタクの読む雑誌」と認識されていたのですね。返答次第ではヒョロロくんのスクールライフは終焉を迎えます。
彼はこう切り返しました。「昔は読んどった」
これは嘘ではありません。昔は読んでいていまも読んでいるけれども、現在の購読状況をあえて省いたのですね。陽キャたちはオタクを懲らしめるチャンスを失い、肩を揺らしながら去っていきました。
いまでも彼の返しの見事さに、わたしは芸術性すら感じる。完全な嘘をつかないことで相手に虚偽の報告をしたと悟られないようにし、かつ侵略者たちをある程度満足させて毒気を抜いてしまう。電子サイズの穴に糸を通すような一手でありました。
さて本事例のように、一昔前はオタクであることを公言するだけで、凶暴な連中に絡まれる時代だったのです。それがいまやアニメを見ているなんて当たり前、むしろ流行りの番組を見ていない輩は流行遅れとすらののしられるようになった。まったく隔世の感がありますね。ただし依然として、アニメ視聴を堂々と公言してよいのは女性だけですよ。男性がもし公表する場合はよくよくご留意ください。
そうした世相もあり、女性がアニメを視聴するのはなんら珍しいことではなくなりました。たいていの人は見返すこともなく消費し、渡り鳥のように次から次へと移り変わっていくのでしょうが、なかには特定のキャラクターに強い愛着を持ってしまう女性がおります。
そう、それが推しと呼ばれる代物なのですね。彼女たちの推しへの愛着は尋常ではありません。寝ても覚めても彼らのことばかり考え続け、ネットで供給されている推しカプの二次創作を読み漁り、彼氏と会っているあいだも相づちを打ちながら推したちがくり広げる痴態を想像して譫妄状態に陥っているというありさまなのです。
わたしはつくづく不思議に思うのですが、世の中にはいろんなジャンルを推しているかたが大勢みえますよね。ジャニーズのメンバーだったり、俳優だったり、Youtuberだったり。しかし二次元のキャラをここまで熱烈に愛するというのは、さすがにちょっと理解できない。どういう精神状態なのか非常に気になります。
これは男性のエロ動画に対する反応に似たところがある。男性は視覚的な性的刺激にすぐ反応します。それはなにも目の前にいる裸の女性である必要はない。モニタ越しの裸でもよいわけです。
頭ではパソコン画面に映っている乳房やら秘部やらにアクセスすることは100パーセントできないとわかっているのに、下半身はセクシー女優を妊娠させるつもりになっている。これは遺伝的にそう刷り込まれているからですね。〈目の前で裸になっている女がいたら陰茎を勃起させろ〉。勃起しなかった男は子孫を残せませんので、遠からず世界はすぐ勃起するどうしようもないやつらだけになる。2章を先取りしていえば、これがまあ……進化なのですね。
おそらく腐女子は紙に印刷されたキャラや、モニタに映ったキャラたちが現実に存在しないことは百も承知なのでしょうが、かわいいモンはかわいい。それが目の前にいるかいないかがそれほど大切なことだろうか? あたしらはかわいいモンを推す、どうだ参ったか! とまあ、こんな具合なのでは?
実際のところは不明だけれども、どうもこれほど多数の腐女子がいることからも、なんらかの遺伝的要因がありそうです。このあたりは3章で詳述する予定。
② 民族大移動
しかし蜜月の日々は唐突に終わりを告げます。腐女子たちがひとところに長く留まっているケースはまずありえません。相思相愛の結婚生活が比較的早く終わるように、あれだけ執着していたキャラへの愛もいつかは減衰します。実体のない人格を愛し続けるなど、どだい無理な話なのです。
女性の愛というのは徐々に減衰するのではなく、ある日突然ゼロにまで落ち込むのが特徴ですね。わたしも経験があります。本当にあっという間にフラれる。つい2週間前までは仲よく静岡県のうなぎパイファクトリーを見学しにいっていたのに、次の瞬間「冷めた」と宣言され、放逐されるのですね。そのへんを突き詰めてみましょう。
物理学的には、この世界には4つの力が存在します。それらは①強い力、②弱い力、③電磁気力、④重力ですね。①~③は標準モデルと呼ばれる物理理論で数学的に統一されていて、重力だけがいまだに仲間外れになっている。この4つを総合した大統一理論をぶち上げるのが物理学者の夢なわけです。
これら4つの力はもともとひとつの作用だったものが、宇宙が膨張して冷えていくにつれてどんどん分裂していったとされています。いわば神仏習合の本地垂迹説のようなものです。
天竺から伝来した仏教によれば、釈迦やら薬師如来やらいうありがたい神さまがござるとのことなのですが、日本にはスサノオとか天照大神とかの八百万の神さまこそいるけれど、どうも仏教の神さまたちは見当たらない。ありがたい神さまが天竺にだけいるというのはどうにも不合理だが、はてさて……?
そこで神道をつかさどる神主たちはこう考えたわけです。神さまというのは天竺も日本も共通しているのだけれど、その姿を変えて降臨しているだけなのだ、と。天竺では薬師如来として、日本では天照大神として顕現しているのだ、と。
こじつけのように思えるかもしれませんが、本地垂迹説は日本のありかたを根本から変えてしまった革命的な理論なのですよ。こう考えたからこそ外来文化にへつらうのではなく、積極的に取り入れてしまえばよいという日本式の文化吸収・カスタマイズ方式が構築されたのですから。
大統一理論も同じことです。宇宙開闢の段階ではひとつの力しかなかったのですが、それがいまでは4つの力として世界に現れている。それらは同じものだけど、現在のような極低温の宇宙ではあたかも異なる力のように見えるだけなのです。
さて問題は①の強い力であります。これは陽子間にのみ働く力でして、その作用範囲は驚くなかれ、たったの10^-15 mなのですね。この短さはまあ、ほぼ原子核内の体積に等しいとお考えください。ものすごく作用範囲が狭いわけです。
その代わりその結合力は名前通りに段ちがいであります。ずばり、電磁気力の137倍! これこそ原子核内部にプラスに荷電しているはずの陽子が一緒くたに入っていられる理由なのですね。
通常、プラスとプラスは反発し合って一緒にはいられません。どう頑張っても磁石はプラス同士ではくっつきませんよね。しかし
強い力>電磁気力
であれば、原子核内に限り電磁気力の137倍もある強い力が優勢になる。プラスに荷電している陽子であっても同居が実現し、これにてめでたく自然界では、原子番号1の水素から92のウランまで多種多様な元素が存在できるのですね。
もし強い力がなければ陽子同士は電磁気力によって反発し合い、同居できません。そうなればこの世の中には水素しか存在できないことになりますね。水素原子が光速で飛び交うだけの、一片の光もない茫漠たる真の闇。それが強い力のない宇宙の姿なのです。ありがとう、強い力。
大幅に回り道をしましたが、女性の愛とはこの強い力との類似点が非常に多い。作用範囲はたいへん狭いけれど(=恋人関係)、働いている(=好きでいる)あいだの結合力は段ちがいに強い。ただしいったん気持ちが離れれば途端に愛はゼロにまで落ち込み、カップルは成立しなくなる。これをどうにか敷衍できないものでしょうか?
科学は還元主義で発展してきました。マクロな事象を細分化し、分割不可能な地点まで事象を細切れにしたのち、それぞれを研究して総合する。ミクロ要素からマクロ事象を演繹するわけです。この論法でいけば陽子の結合が強い力で成り立っているのなら、女性の愛も同様の作用にしたがっていても不思議ではない。愛は強い力の顕現なのかもしれません。ここでも本地垂迹説が顔をのぞかせていますね。
さて女性の愛がある日突然冷めるように、腐女子の推しに対する愛も驚嘆すべきスピードで冷めます。実妹は2年ほど前、「ツイステッド・ワンダーランド」という女性向けコンテンツ(この名称はBL要素満載の婉曲的表現です)に心酔していて、例によって推しカプを猛烈にプッシュしていました。みずから漫画を描き、ツイッターに投降し、コミックマーケットにて販売するほどの入れ込みようでした。
ところが、ですよ。ついこないだまでは数分に一度、キャラ名を口走らずにはいられなかった彼女が、あっさり別の漫画のキャラ(どうでもいいですが、「スラムダンク」の三井)に鞍替えしていたのですね。民族大移動にかかった時間は推定15日以内であります。一見猶予があるように思えますが、そのあいだに次の寄生先の確保、現在の推しに対する気持ちの整理、その他いろいろをこなしていることには留意いただきたい。
その手のひら返しがどれほどすさまじかったかというと、こんなエピソードがあります。妹はツイステの推しキャラフィギアがどうしてもほしくて、オーダーメイドの商品をかなり前から発注していました。それは全高30センチメートルはあろうかという巨大フィギアでして、細部まで再現された超弩級の代物でした。
ただオーダーメイドなのと生産国が中国なのと、さらに中国では度重なる停電で工場は開店休業状態、フィギアが届いたのは発注から実に2年後というありさまだったのですね。タイミングが悪いことに、フィギアは彼女がちょうどツイステから撤退したあとに届いてしまった。わたしはそのときの実妹の様子を生涯、忘れることはできないでしょう。彼女はフィギアを蔑むような目つきで眺めながら、こう吐き捨てました。「これ、邪魔じゃない?」。
その後、フィギアは光速の60パーセントほどの速さで売却されました。
現実世界の女性がよりよい男性を求めて付き合う相手をころころ変えていくように、BLも推しは半年~1年程度のあいだに乗り換えていくのがスタンダードであります。1年も同じコンテンツにいれば、十分忠義を尽くしたといえるでしょう。
腐女子たちもこのあたりの事情を恥じているのか、数か月程度のスパンで次々とコンテンツを渡り歩いている次元渡りのことを〈イナゴ〉と称して揶揄しています。
〈イナゴ〉の特徴は脊髄反射的に新規コンテンツへ飛び移り、猛烈な勢いで食い荒らす点にあります。初学者の男性読者は信じられないでしょうが、ソーシャルゲーム界隈では日々、BLを暗に明に推奨しているコンテンツが矢継ぎ早にリリースされております。腐女子が基本的には飽き性で、よりお気に召す推しを求めて悶々としているのを運営側は熟知しているのですね。
移り気な腐女子は新規コンテンツがリリースされるや否や、ためらいなくそちらへダイヴしていきます。二次創作のクリエイターたちは、ろくすっぽ新規コンテンツのストーリーやキャラの個性を研究しないまま見よう見まねで供給を開始し、リリースの翌日にはもうネットにBL二次創作が溢れ返っている。参入者が少なければ少ないほど有名になりやすいので、初動スピードは命であります。
それがいっせいに起こるので、あたかも作物を食い荒らすイナゴの大群が甲畑から乙畑へと群れを成して飛び移っていくさまにそっくりなわけです。彼女らが〈イナゴ〉と呼ばれるゆえんがここにある。彼女たちにはもはや、推しという概念そのものが欠落している可能性すらある。推し(と彼女たちが主張するもの)は有名になるための踏み台であり、お金を稼ぐ手段にすぎないのです。
これほど極端ではないにせよ、大なり小なり腐女子とはそうした性向を持っています。ひとつのコンテンツに長く留まりはせず、ドライに過去の推しは切り捨てていく。よい悪いではなく、そういうものなのです。地震や台風に近い。自然現象がいくら破壊的な被害をもたらしたからといって、地球を憎む人はいないですよね。
③ クリエイター文化について
当たり前ですが、BLを消費するには誰かが供給しなければなりません。それが誰かといえば、日本に偏在する顔の見えない匿名の腐女子たちなのですね。彼女たちのボランティア精神にはまこと恐れ入ります。みんなのために寝食を惜しんで日夜、男のホモ漫画などという代物を製造してくれるのですから。
重大な誤解をまずは解いておきましょう。腐女子はBLが好きなのであって、LGBTが好きなわけではありません。この二者がどう異なるか、理解できますでしょうか。たとえば社会派漫画を描きたいと思って、ゲイ男性を主人公にした作品が青年誌に掲載されたとしましょう。これはまごうことなきBLのように思える。腐女子が群がりそうなものです。
ところがそうではない。そんなモン、誰も興味を示しません。ストレイトの男性が読むはずはないし、腐女子もそっぽを向くでしょう。現実のゲイ男性も自分たちをおもちゃにされているように感じてよい気はしないはずです。ちょっと待ってくれ、なぜ腐女子が食いつかないんだ、とお思いですね? 答えは簡単、BLではないからです。
腐女子は原作や公式が露骨にホモ描写をするのをあまり好みません。カップリングの楽しみはあくまで、作品のはしばしに散見される友情を超えた愛情の描写(だと彼女らが錯覚しているもの)を掬い上げ、それらを総合して〈彼らはBL関係にある〉と妄想するところまでがセットなのですね。始めから二人はゲイのカップルだという設定では、証拠を積み上げる作業がなくなってしまう。妄想の膨らむ余地がない。膨張しきった風船にこれ以上空気を入れることはできませんよね。
ですから社会派漫画を別とすれば、いかにも腐女子ウケしそうな漫画やソシャゲは数あれど、公式で登場人物すべてがホモだという奇妙奇天烈なコンテンツはまずありません。人口比や財布のひもの緩さからいって、いまや腐女子はサブカルチャーにとって最大のお得意さまであります。大なり小なり、彼女らに忖度しなければヒット作にはなりえない。二次創作の餌食にされて初めて、その作品は一人前だともいえるでしょう。
以上のことを総合すれば、〈出版社やソシャゲ作成会社などのいわゆる運営側は、露骨なホモ作品を作らない〉という不文律が演繹されます。
ツイステなどの女性向けソーシャルゲームは登場人物がすべて男性、みんな気色悪いくらいに仲よしという設定ではあるものの、公式は一言も彼らがゲイであると主張してはいません。お膳立てや燃料は与えるけれど、それをどう発火させるかは消費者に任されているのですね。どれくらい激しく燃え上がるかはリリースしてみるまでわかりません。こうして日々、無数のソシャゲが流産の憂き目に遭っているわけです。
ですから二次創作を受け持つのはほぼ、自分の好きな作品や推しを布教したいと願う有志によって形づくられていると解釈して差し支えありません。わたしや読者のようなアマチュアが盛り上げているのです。
そうした事情もあり、クリエイトする側の人びとは非常な崇敬を集めやすい。そこがプロとアマチュアの異なる点です。プロの漫画家がおもしろい作品をものしたとしても、莫大な対価を得ているわけですから感謝する消費者はあまりいない。流行りに乗って一通り読み漁り、それで終わりです。近所の食料品店でほうれん草が買えるからといって、お店に感謝する人はそう多くないでしょう。
転じてBLクリエイターはアマチュアです。神絵師と呼ばれる人気作家はコミケなどで十分な報酬を得ている人もいるけれど、ほとんどの供給者は時間と労力をかけて作品を仕上げ、無料でネットに公開しています。大型コンテンツともなれば不特定多数が参加するため、ニッチなカップリングも余すことなく描かれる。先ほどの例でいえば、この状況は家庭菜園で獲れた人参やほうれん草をロハで配っているようなものです。ここまでしてくれて、感謝しないほうがどうかしているでしょう。
あとはどうなるか、容易に想像がつくはずです。経済学的な需要と供給の均衡点が供給側へ大幅にシフトするのですね。数式で表せば、
AS=a×PI
となりますね。ASは傲慢度(Arrogance scale)、aは比例定数、PIは人気指数(Popular index)です。aの値は各分野で異なります。大型コンテンツでは大きくなり、過疎コンテンツでは小さくなる。PIはクリエイターの努力次第でどんどん上昇しますね。言葉で表せば、「クリエイターの傲慢さは人気に比例する」。
アマチュア創作の世界において、通常クリエイター側は空気とどっこいどっこいの存在です。現に一次創作界隈ではどれほど作品が優れていようと、まずそれおよび著者が有名になることはありません。素人の書いたオリジナル小説や漫画なんか誰が読みたがるでしょうか。そうした意味で本エッセイをお読みになっている読者に、わたしは多大なる感謝をしております。よくもまあこんな路傍の石ころにも劣るような代物に目をつけてくれたものです。
経済学ではモノの値段がどう決まるかは、それがどれだけありふれているかに依存すると定義しています。日本のあちこちで水がタダで手に入るのは、雨の比較的多い気候なのでそれが潤沢に存在するからです。アマチュアの創作物もいまや水に匹敵するほど世に氾濫しているので、本エッセイをはじめとする素人の書き物はタダで閲覧できるのですね。言葉を変えれば、1円の値段すらつかない無価値な創造物であるといえます。
ところがBL二次創作だけはそうなっていないようです。人気クリエイターは神絵師として崇め奉られ、物書きたちはいっぱしの小説家気取りであります。これは需要側も供給側もともに、ある種の壮大な錯覚をやらかしているのが原因なのでしょう。
ソシャゲであれ漫画であれ二次創作とは読んで字のごとく、そもそもオリジナル作品ではありません。プロの発表した原作があって、それを間借りしているわけです。神絵師たちの人気の九分九厘は原作人気であって、それをいかにうまく落とし込んで自然な形で――こじつけじみた男性カップリングが自然だとしての話ですが――アレンジできるか、その手腕が残りの一厘を規定している。
結局神絵師か凡絵師かの相違とは、原作人気以外の一厘の範囲で争われている非常に幅の狭いものであるといえそうです。神絵師たちはあたかも自分の画力や作風にファンがついていると考えているかもしれませんが、それはおそらく錯覚です。そうではないとおっしゃるのなら、一次創作でBLに挑戦してごらんなさい。閲覧数やコメントの少なさに愕然とすることでしょう。
それはともかく原作人気にあやかれるという利点もあって、BLクリエイターは非常に立場が強い。絵師たちは前述した数式AS=a×PIにしたがって傲慢になっていきます。ツイッターなどのSNS(まあ参加している層的にいって、腐女子のやっているSNS=ツイッターなのですが)のやり取りでそれは頂点に達します。
絵師たちはフォロワーの多さ(≒人気のバロメータ)などによってランク付けされていて、原則的に目上の者は目下の者からのフォローに応えません。身分の卑しい賤民が王侯貴族にお目通りを申し出ても通らないのと同じことです。
反対に神絵師が(神ゆえの気まぐれで)凡絵師をフォローした場合、後者は光速に匹敵するスピードで相互フォロー状態へ移行する義務が発生します。王侯貴族からの召喚状をちょうだいしたとしたら、賤民は即座に出頭するでしょう、これと同じことです。
クリエイター間の序列ですらこんなありさまなのですから、消費者-クリエイターラインの関係性は推して知るべしです。BL界隈へ参入したばかりの若い消費者は、安易に絵師へリクエストするという愚を犯しがちなもの。こんなマネをやらかすのは絵師に対する失礼、侮辱にあたります。頭に疑問符が浮かんだ読者のために、詳述しておきましょう。
実妹はこの分野へ参加したばかりのころ、自分の描いてほしいシチュエーションやキャラなどを考えなしにリクエストしていたそうです。彼女は即座に洗礼を受けました。おっかない大人の女性たちがどこからか湧いてきて、マナーを叩き込まれた由。なぜリクエストが失礼にあたるのか? 理由は簡単です。
クリエイターはたまたま自分の好きなものを描いているにすぎず、それはなにも消費者のためにやっているわけではない。公表してやっているのはお情け以外の何物でもなく、乞食どもはただ出されたものだけを脳死状態でありがたがっていればよいのだ、という具合なのですね。
ですからうかつにもリクエストなんかをやらかすと、それはもうえらい目に遭う。クリエイターの選択肢は以下の通り。①無視する、②分際をわきまえさせる、③親衛隊に攻撃させる。
①はBL以外の分野で通常選択される手段ですね。Youtubeのコメント欄でよくみかけますが、ああせいこうせいとまこと姦しい。当然、九分九厘は反映されずじまいで終わります。供給側も暇ではないのでできることには限りがあり、結果的に無視せざるをえない。ただBLの場合は若干ニュアンスが異なりますが。「世間知らずのクソガキがなんかほざいとるわ」というような、侮蔑を含んだ無視であります。
②あたりからこの分野の異常性が発揮され始めます。前述した通り、BL界隈では「推しのカップリングが見られるだけでもありがたい」状態ですので、原則リクエストという行為自体が失礼にあたります。要はそれを直接ぶちまけるわけですね。乞食の分際で調子乗ってんじゃねえぞと。ただこの方法は上品とは言いがたく、性格の悪さが露呈してしまう。
そこで③が考案されました。リクエストがなされたという(憤慨すべき)事案のあったことをSNSなどで公表し、取り巻きの怒りを煽り立て、彼女らに攻撃させるのですね。神絵師の周りには親衛隊がずらりと並んでいますし、それらは常時主に忠誠を誓っている。いわば自我を喪失したマリオネットに近い状態です。主の意に沿わぬ者を攻撃するのにこれほどうってつけの人びとがいるでしょうか。
おそらく若き日の妹に洗礼を施した連中は、絵師の親衛隊だったのでしょう。訓練された親衛隊ともなると、主の攻撃命令などなくとも臨戦態勢を崩さず、ネットの海を24時間体制で警邏しております。一種の自動警報装置のようなものです。絵師が不快に感じる思想やリクエストを敏感に察知する赤外線が張り巡らされており、それに触れればコヒーレント・レーザーで消し炭にされる。あな恐ろしや、BL。
以上見てきたように、BL二次創作界隈では〈クリエイターは神さま〉がデフォルトであります。これから参入してみようと考えている読者はよくよくご留意ください。消費者は人のお情けにすがってを精神エネルギーを漁る乞食です。身分をわきまえて立ち回りましょう。
3 BL概論まとめ
初学者にとっては聞きなれない専門用語や概念が多数登場し、いささか混乱しているかと思います。以下に腐女子とBLについての要点を羅列しておきましょう。
・腐女子とは男性同士のカップリングを楽しむ女性の総称
・メイン層は二次元二次創作であるが、2.5次元、三次元も成立している
・この分野を支えているのはほとんどがアマチュア
・クリエイターは神さま
おおむねこの程度の内容を押さえていれば、本エッセイを楽しむに十分でしょう。ただし紙幅の都合で触れられなかったサブカテゴリや無数の特殊な概念があることだけ、初学者は心得ておいてください。
必要であれば何度でも書きます。この分野の広さと深さは宇宙空間にも匹敵する、非常に豊饒な娯楽領域なのです。本章を通読した程度でBLのすべてがわかったなどと、口が裂けても口走らないことです。あなたはいまぽっかりと空いた深淵の縁に立ち、おそるおそるどれだけ深いかを眺めているにすぎません。
そしてそう、深淵の底は無限なのです。
最初のコメントを投稿しよう!