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3章 BL解題(上)
本章ではいよいよBL、腐女子の生態、その他いろいろの不可解な現象にメスを入れていきます。本章は1章、2章の解説パートを3~4割程度理解している読者を前提としていますので、いまいち楽しめなかったかたは観念して、前章に戻って拾い読みしてみてください。
それでは有史以来最大の謎とされてきた世界七不思議のひとつ、BLを繙いていきましょう。
1 BLについての仮説(従来版)
BLがなぜ女性のあいだで燎原の火のごとく、これほどまでに受け入れられているのか? この問いを発した人間が有史以来わたしが初めてでなどということは当然、ありません。実妹によれば現在の定説は、
非モテの喪女が代償行為としてBLを楽しんでいる
だそうです。みなさんどう思われますか。こんな程度の水準で有力仮説とは、まったくへそが茶を沸かすというものですね。念のため解説しておくと、BLを消費している女性はみんな例外なく喪女であり、喪女はリアル生活において男性と恋愛を楽しめない。したがってBLの世界に走るのだ――。
先に読者が当然抱くであろう疑問を先取りしておきます。なぜホモ漫画・小説という回りくどいルートを通らず、そのままストレイトの男女関係を描かないのか?
回答は「それだとあまりにも露骨すぎるから」だそうです。男女関係を描いてしまうと自身が喪女である事実を見破られかねないので、カモフラージュのためにホモで妥協しているという論旨。小学生でも思いつきそうな、とってつけたような理由づけですよね。早速反駁していきましょう。
第一にそもそも、普通に露骨すぎる男女関係を描く分野は存在します。腐女子がすべてホモ専科だと思ったらとんだ謬見ですね。二次元のキャラとモブ女性の恋愛を描くというスタイルがそれにあたります。なぜ同作品の女性キャラとカップリングさせずにモブ女性を起用するのかは、「顔の見えない設定にすることにより、読者の没入感を高めるため」と説明されています。
むろんそれは建前であります。容易に予想される通り、モブ女性はクリエイターのアバターなのですね。その証拠になにやら妙に具体的な設定がなされていることが多い。「ちょっぴり太っている」、「胸の控えめな」、「目は小さいけれど」などなど、一般的な主人公らしからぬ容姿をしている。こうした記述の二次創作小説はほぼ100パーセント、著者の投影でしょう。
このような男女間のストレイトな恋愛を取り扱う二次創作を「夢」と呼びます。また夢を描くクリエイターを総称して「夢女子」ともいうそうですね。由来は説明しなくてもわかるでしょう。漫画のキャラと自分自身が恋に落ちるという夢のような展開になるからです。
ちなみに同じ腐女子でも、ホモ界隈と夢界隈の仲の悪さは過熱するいっぽうのようです。実妹は夢女子たちを口を極めて罵っておりました。これはちょうど大東亜戦争時代、軍部に巣食っていた共産勢力が右と左に分裂して争っていたのに似ている。どっちも根は同じなのに、思想の相違で両者を蛇蝎のように忌み嫌う。同族嫌悪なのでしょうね。
第二に、腐女子全員が喪女なんていつの時代のテンプレートなんでしょうか。女性にはそもそも、目を覆いたくなるほどの醜女はめったにいません。それは遺伝子のしくみが男性より安定しているからですね。性別を決める性染色体はX染色体(女性)とY染色体(男性)があり、女性はXX、男性はXYでしたね。Xのほうにはいろいろ重要な遺伝子が乗っています。女性は二本持っているから異常遺伝子があってもカバーできるけれど、男性はそれだけでアウトになっちゃう。男は進化がありあわせで作った生まれながらの出来損ないといえるでしょう。
さて腐女子=全員喪女のような古い感性のまま彼女らに会うと、「なぜこんなかわいい娘が腐女子なんだ?」と度肝を抜かれる。腐女子文化が一般層に浸透してきている事情もあるでしょうが、もともと腐女子は別に不細工ではなかった、と結論するほうが自然ですね。実妹の証言でもかわいい娘ばかりであり、なかには薬学部在籍の才媛もいるのだそうです。ベンゼン環のホモ漫画とか描いているのでしょうか……。
以上見てきたように、大部分の腐女子はまともな恋愛経験のある人がほとんどですし、そうでない人が必ずしもホモに走っているわけではないことが判明しました。これにて従来仮説は完全に成り立たなくなったと結論できます。
ある意見を棄却しただけで代案を出さない人間は嫌われます。会社でもいるでしょう、ぶう垂れているだけでいっかな自分の意見を言わない皮肉屋どもが。わたしはそうした誹りを免れるため、これに変わる仮説を提示したい。以下長くなりますが、ぜひお付き合いください。
2 腐男子の不在
腐女子がいるのなら腐男子がいるはずだ、と類推するのは自然な流れでしょう。しかし実際のところ、腐男子は事実上存在しません。ちょっと待ってくれ、あたしのコミケのブースに「いつも読んでます!」とか言って薄い本を買いに来る男がいたわよ、という腐女子諸賢の声が聞こえてきそうです。
最初に釘を刺しておきます。ストレイトの男性は、ゲイには露ほどの興味もありません! それを如実に示す男性コミュニティ特有の現象をいくつか、ご紹介しましょう。
① 男性社会はホモが最大の侮辱
わたしが中学生のころ、どの部活に入るかはその後のスクールライフを決定づける死活問題でした。男性には事実上、運動部に入る以外の選択肢はありませんでした。コンピュータ部などの文化部に入ろうものなら即、ホモ認定されたものです。このホモ認定というのがあかんのです。ホモ認定=社会的な死を意味するからです。(著者を含む)多くの根暗たちは悩み抜いた末、卓球部を選んだものでした。
こんな例もある。われわれ男性族はあまり海外旅行にいきたがりません。なぜか? わたしは2つの理由があると考えています。①男同士で1泊以上するのなんて言語道断、②進化的な理由ですね。
①は先述の例と同様の理由です。男だけで外泊するなんて、ホモと思われても仕方ないではないですか。観光地を見てごらんなさい、男だけで歩いているのを見かけますか? グループはたまにいるけれど、二人きりというケースはまずいません。男性は同性と長時間一緒にすごすことに、生理的な嫌悪感を抱くのですね。
②はちょっと説明が必要です。チンパンジーは人類にもっとも近い霊長類ですが、彼らの生態はオス社会であります。オスの群れによそからメスが入ってきて、子孫を残していくわけです。したがってオスは生涯生まれたコミュニティから出ていきません。
これを敷衍すれば、男は日本から出たがらない、と演繹できます。反対に女性はやたらと海外旅行へ行ってますけど、あれは自分の縄張りという意識がないためではないでしょうか。外の世界に出ていくのがデフォルトなので、抵抗がない――というより、群れにとどまっていたくないのでしょう。
さらにこんな話もあります。外国の映画や小説では、相手を罵倒する際に「チキン野郎」という言葉が散見されますね。これは腰抜け――穿った見方をすればホモ野郎とも取れます。名作映画「Back to the future」では主人公がこの言葉に猛烈に反応し、明らかに勝ち目のない相手に殴りかかって返り討ちに遭うシーンがある。
よろしいですか、男性にとってホモ(もしくはそれに類する名詞)だと認定されるのは、社会的な死を意味するのです。公衆の面前で罵倒された場合、名誉回復のために相手をぶちのめさなければならないほどのことなのです。
以上のことから、腐男子などという代物は存在しないと結論できますね。みずからホモの漫画や小説なんかに関わろうとするはずがない。なぜ男はそうまでしてホモ認定を回避したがるのかについては、一言で説明できます。ずばり生殖から遠ざかるからでしょう。
ホモだと思われてしまうと、女性からは「あの人はあたしたちに興味がないんだわ」とみなされますね。彼は配偶者を得るのにひどく苦労するはずです。男性にとってこれは自身の遺伝子を後世に残すチャンスを逸するに等しい。ルーツが完全に途絶えてしまうわけです。
生物は遺伝子のコピーを残すという至上命題を遂行するために生きている、といっても過言ではありません。人生の意味とは子どもを設けるかどうか、これ一点に集約されるのであります。
特に男性は子どもを産めませんので、なにがなんでも女性をモノにしなければならない。そんなところへホモだのなんだの言われたら、沽券に係わるどころの話ではありません。人生そのものが破壊されかねないのです。だから男性は同性愛的な見られかたに対して過度な恐怖心を抱いている、というのがわたしの持論です。
私見の真偽はともかくとして、腐男子の存在する余地はない。これが結論であります。
② 腐男子の正体
では実際にコミケに馳せ参じ、薄い本を買っていく男はなんなのか。ネット上でBLを描いている男はなんなのか。ほんのごく少数とはいえ、確かにこうした輩は存在します。彼らをエレガントに料理できなければ先へ進めません。
わたしの意見では、腐男子は以下の3パターンに分類できます。①女性コンテンツに群がるにわか、②ショタ趣味のマイノリティ、③真性のゲイ。順番に説明していきましょう。
①はどの界隈にもいるどうしようもない野郎どもであります。女性はかわいいものにてきめんに弱い。ですからディズニーランド、サンリオのキャラクター、その他いろいろの動物をデフォルメしたコンテンツで世の中はあふれ返っています。彼女らがそうしたものに容易にお金を浪費するからです。
マッチングアプリをやってごらんなさい、ディズニーランド好きを公言していない女性を探すのに男性読者はひどく苦労するでしょう。なにが怖いといって、仮に公言していなくても結局のところ、女性のほとんどは例のテーマパークを好いているというオチが待っている点です。わざわざ公言する必要すらないというスタンスなのです。そんなモン、好きに決まっとるやろがい! というわけ。わたしは北朝鮮のミサイルが今度発射されたら、千葉県に落ちたらよいと密かに願っております。
さて男性の大部分は女性向けコンテンツを醒めた目で眺めておりますが、まれにディズニーランド好き、キティちゃん好き、挙句の果てにはBL好きを公言して憚らない男がいる。あいつらの目的はただひとつ、女性が群がるコンテンツにすり寄ることでおこぼれに与ろうとしているのですね。
男というのはモテるためならなんでもやります。わたしも若いころはモテたいがために大枚はたいて、スノーボード用具を揃えて気ちがいのように練習しておりました(結局モテませんでしたが)。女性向けコンテンツに群がる男というのは要するに、魂を売った連中なのですね。
自身はディズニーランドなんかちっとも楽しくなくて、ネズミのキャラたちを頭から見下しているようなやつがディズニー好きを公言しているのです。断言します、男性でディズニーランドが好きだとのたまっているやつらの九分九厘が、単に女を落とすための方便として利用しているにすぎないと!
BL好きも同じことです。BLを描いていればフォロワーは100パーセント女性ですから、それがきっかけになってあわよくば……という腹なのです。それほどの遠回りをしてまで腐女子とかかわりたいかね、腐男子を騙るオタクの諸君?
②はごく一部の特殊性癖を持つ男どもです。男は基本的にロリコンです。それは進化論で説明できます。若い女性は妊娠しやすい。2章を熟読した読者ならこの一言で納得できたはずです。
熟女好きの男と若い娘好きの男がいたとしましょう。自然淘汰が優遇するのはどちらでしょうか。書くまでもありませんね、当然後者です。熟女好きの男は子孫を残しづらく、若い娘好きの男はどんどん繁殖していく。結果的に若い娘を好む遺伝子が環境に放散し、いずれはそれ一色になってしまう。われわれがロリコンなのは遺伝子にそう刷り込まれているからなのですね。
注 だからといって14歳の女の子を手籠めにしてよいことにはなりません。科学が解き明かした事実を即、社会に敷衍させなければならない特別の理由はありません。現代では14歳の女の子は学業に勤しんでおり、子どもを産む年齢ではない。科学的事実は人類の知見として尊重すべきですが、社会との線引きをしていくのが良識ある現代人の姿でしょう。
さて男性族はロリコンをこじらせすぎて、まれにエラーを起こす輩がいる。興奮すべきでない性――つまり同性に興味を持ってしまうのですね。幼い男の子は女の子とほとんど区別がつきません。両者は性器を除いて身体つきも変わらず、信念さえ強ければ両者を(頭のなかで)合一させることすら可能です。
そして実際、両者を合一させてしまっているやつらが一定数いるのでしょう。それがBLのショタ界隈を支持する男性です。実妹がポケモンの薄い本を描いていたころ、よくコミケのブースにそうした男がやってきて、「いつも見てます、ファンです!」と告げ、嬉しそうに同人誌を買っていったそうです。ロリコンもここまでこじらせると哀れなものですなあ。
③の説明は不要でしょう。真性のゲイのかたがたがホモ漫画をたしなむのはなんら不思議なことではありません。この点については議論の余地はないかと思いますので、これ以上掘り下げません。
以上見てきたトピックを総合すると、〈ストレイトの男性で腐男子は存在しない〉と結論してまちがいなさそうです。こう書くとすぐに「でもあたしの周りにはホントに純粋に、BLが好きな男の友だちがいるよ!」と主張されるかたが必ず湧いてきます。わたしがいいたいのは、仮に腐男子なるものが存在するとしても、統計的な数字からすればそれは無視できる程度の数だ、ということです。
ここで大事なのは一般的な傾向であり、例外中の例外ではありません(たったの1、2例を持ち出して、「だからこの仮説は成り立たない」と断ずるのは幼稚な議論です)。一般的な傾向があるのなら、それには必ずなんらかの原因がある。それはおそらく遺伝的に刷り込まれたホモへの嫌悪感なのだろうというのがここでの知見です。
コラム ゲイはなぜ存在するのか
ゲイは進化論的に不可解な存在です。どう考えてもゲイ遺伝子は淘汰されるはずだからです。だってあなた、ゲイに生まれついたらその身体に宿っている遺伝子にとっては、そこで試合終了ですよ。もう次の乗り物に乗り移れるチャンスはありません。だって乗り物が女の子に興味を示さないんですから。
長らくゲイは遺伝が原因か、環境が原因かで論争が戦わされておりました。ゲイたちは遺伝が原因だと主張しており、キリスト教ファンダメンタリストたちは環境だと口角泡を飛ばしていました。遺伝ならゲイに罪はなく、生まれついたものなのだからどうしようもない。反対に環境ならゲイはある程度ゲイを選んだことになり、神に背く背信の徒だ、という論法ですね。
確定情報ではないのですが、いまではゲイはある程度、遺伝的要因であることが判明しています。しかしそうなるとなぜこの遺伝子は現代に至るまで、しつっこく残り続けているのでしょうか。自然淘汰によって排除されるはずでは?
様々な説明がなされてきましたが、比較的信憑性の高いものにこんなものがあります。ゲイ遺伝子を持つ女性は有意に男好きであり、そのため繁殖に有利になる。これがたまたま息子に遺伝してしまった場合にゲイになる可能性があるけれど、それは母親の適応度を相殺して余りあるほどの効果がある。
いかがでしょうか。ご紹介したのはちょっと古い知識なので、いまではもっと納得のいく仮説や実験が発表されているかもしれません。興味のある読者は調べてみてください。
3 BLの開祖は誰ぞ
BLはいったいいつから文化として定着しているのでしょうか。包括的な歴史書がないため参考文献はないのですが、実妹は小学六年生の時分にBLを読み漁り始めたと主張しております。
彼女は満32歳ですので、少なくとも20年前にはすでに存在していたことになる(えっ、32歳にもなってまだホモがどうたら言っているのヤバくないか、ですって? 腐女子界隈ではこれくらいの年齢がゴロゴロしてますよ……)。
さらに断片的な情報ですが、名作漫画「幽☆遊☆白書」が連載されていたころ、飛影と蔵馬のBLが世を席巻していたという情報もあります。そうなると1990年代初頭にまで源流が遡れますね。
こんな程度で驚いていてはいけません。実妹は一時期、名作漫画「スラムダンク」の二次創作に手を染めていたことがあるのですが、そのコミュニティではほとんどが40~50代女性だったとのこと。連載時期に20代だったと考えれば、おおむね時間帯は一致します。
人間の主要な部分は10~20代のころに形成され、そうそう30代以降に生涯にわたって好きなものができるとは考えいにくい。すると上記のスラムダンク腐女子たちは連載が始まる前から、なんらかのコンテンツに巣食っていたと思われます。50代女性が腐女子に染まる一般的な年齢――10代後半――に達したのが1980年代ですから、この時期にBLはあったと推察できる。
これを裏づけるのが実妹の証言です。彼女の友人の母上が、実はBL好きだったという衝撃的な事実が最近発覚した由。母上は60代くらいでしょうから、1980年代どころか70年代にはすでに確立されていた可能性すらあります。
そろそろ背筋が寒くなってきたのではないですか? いったいどこまでこの恐るべき文化は遡っていくのだと。ここからは証拠のないわたしの完全な推論になりますが、もしかしてBLとは、特定の開祖や始祖などないのではないでしょうか?
神道は仏教の諸宗派とは異なり、原始アミニズムの発展型であるとされています。釈迦やら法然やら親鸞やらの明確な開祖はおらず、日本人の万物に対する畏怖や崇敬が発祥になっており、いわば自然発生したのだと。BLもこれに近いのでは? 以下、さらに論証していきますよ。
江戸時代に花開いた歌舞伎は、女形と呼ばれる女装した男の俳優が出てきますね。これらの脚本を女流作家が書いていた、という事態はありえざることでしょうか? 300年続いた太平の世に、女性脚本家一人いなかったとは信じがたい。そう、歌舞伎はBLだったのです!
源頼朝によって鎌倉幕府が開かれた時点で、日本は武家社会へと変貌を遂げました。平安時代ののんべんだらりとした風潮から一変、質実剛健を旨とする男社会へと風紀が改められた。武家社会では女人を極力排し、男色も許容――というか推奨さえされていたそうです。
平安時代は天皇家の姻戚である藤原氏がつかず離れずの距離感を保ち、影から朝廷を支配していました。その権力が武家社会へと移行した瞬間、一挙に廃れたとは考えにくい。ある程度の影響力はあったはずです。源頼朝は武家の棟梁である征夷大将軍になったけれど、あれは天皇から授けられる位です。実権の所在がどちらにあったかは明白ですが、朝廷にかしずく場面はあったわけです。
さて朝廷は藤原氏が暗に明に支配していたのですが、その支配には女性の影が常にちらついておりました。朝廷に巣食う女性たちはたいへんな策略家揃いでして、中国の妲己やローマのアグリッピナなんか裸足で逃げ出すような妖婦たちであった由。
もしですよ、武家社会に彼女たちの影響力が残っていたとしてらどうでしょう。武家社会に男色を推奨したのが朝廷の女性たちだったとしたら? 征夷大将軍の位を授けられるレベルの彼女らが、武家にホモを強制することくらい朝飯前だったはずです。
記紀神話は日本最古の歴史書として名高く、古事記と日本書紀に分冊して神話パートと歴史パートを明確に区別し、様々な出来事を記録しております。世界最大のベストセラーである聖書も一応歴史書としての価値があるのですが、あちらは神話と歴史がごっちゃになっていて読みづらいこと夥しい。頭から信じてしまう人びとが現代でもいるのには、ほとほと困ったものです。
記紀神話はそのあたり非常にバランスのとれた書物なのですが、わたしはもちろん通読していません。にもかかわらずわたしには確信があります。スサノオやら天照大神やらカムロギやらのオールスターが出てくる物語のどこかで、男性の同性愛的な表現があるという確固たる確信が。全財産賭けてもよいです。
記紀神話は現存している最古の歴史書です。ということは、現存していない書物も当然あったはずですね。印刷技術のない当時、一字一句写本するしか術のない時代に増刷をかけるのは一大事業であります。識字率100パーセントの国に住んでいると忘れがちですが、昔は読み書きのできる人間がそもそも超がつくほど希少で、おまけに漢文を理解していないといけなかった。
公式記録は漢文以外認められなかったのですが、源氏物語などの小説はかな文字で書かれていたようです。かなは〈女文字〉として軽視されていたので、小説類は現存していなくても不思議ではない。軽視されていた書物のなかに古代のBLが混じっていたのでは?
かなが〈女文字〉だったというのも意味深長です。かなが軽視されていたのはもしや、当時の貴族女性たちがBLを書き散らしていて、編纂委員会がほとほと愛想を尽かせていたのでは? かなが軽視されていたのではなく、BLのせいでかながとばっちりを喰らっていたのでは!?
さらに突っ込んで考えれば、縄文時代には文字はなかったけれど、吟遊詩人がいたはずです。口伝でストーリーを吹聴して回る連中のことです。その物語に男性の同性愛がなかったなどと読者は言い切れるでしょうか。とうてい言い切れまい。そしておそらく、縄文時代の吟遊詩人は高らかにBLの物語を吟じていたのでしょう。
そうです、BLとは汎神論の神さまのようなものです。BLはどこにでも偏在する。それは人類のあけぼのと同時に花開いたのであります!
4 BL・イヴか、はたまた収斂進化か
3節ではBLは神道のようなものだと論じました。名のある高僧が開いたものではなく、原初の衝動にしたがって女性たちが自然発生的に興したものであると。
次なる問題はBLの感染性です。初学者には信じがたいでしょうが、BLは日本だけのムーヴメントではありません。韓国、中国、果てはアメリカ合衆国ですらこの不可思議な文化が根付いているのです。
サブカルチャーは日本の専売特許であります。いまでは日本も経済的に落ちぶれ、もはや先進国ですらなくなりました。給与はここ20年伸び悩み、閉塞的な不況が長引き、公務員男性が安定株として婚活市場ではもてはやされるという異常事態が到来しているのです。資本主義国家としてあるまじき状況ですね。
JAPANは極東の二流国に成り果てました。バブル期にアメリカの不動産を買い漁り、いまにアメリカ中が日本の資産になってしまうとヤンキーたちを恐怖させた時代が懐かしい。世界に対して塵ほどの影響力すらなくした日陰の国。それが偽らざる日本国の姿でありましょう。
ところがサブカルチャーだけは依然として、爆発的な力強さを誇っている。アニメのクオリティで日本に敵う国はいまだに存在しません。漫画も人気作品が他国語に翻訳されてライセンス出版されています。1970年代くらいからこの分野だけは日本が首位を独走している状態でして、今後も抜かされそうにない。まことあっぱれ、と自画自賛したくもなりますね。
さてそろそろわたしの言いたいことがわかってきたのではないでしょうか。サブカルチャー先進国であり続けた日本は、やはりBL先進国でもあるのではないか? 先述した通り、この分野は全世界で――といってもホモ漫画を描くなどという、およそ生存から数光年ほども離れた娯楽をたしなめるほど裕福な国限定ですが――楽しまれているわけですが、それらは震源地があるのか、それとも同時多発的に発生したのか? 以下で掘り下げてみましょう。
① ミトコンドリア・イヴ仮説
人類の起源を説明する仮設のひとつに、〈ミトコンドリア・イヴ〉というものがあります。ミトコンドリアは母系遺伝しかしないので、遺伝子解析でルーツを辿ることができるわけです。ちょっと脱線して要点だけ解説しておきましょう。
ミトコンドリアとは細胞内にある発電所のようなもので、身体を動かすのに必須の物質、ATP(アデノシン三リン酸)を水素イオンの濃度勾配によって作り出しているたいへん重要な器官であります。ミトコンドリアからは副産物として活性酸素(フリーラジカル)が染み出し、周囲のDNAを破壊するという諸刃の剣的な側面もある。これは実際の発電所と同じですね。エネルギーを得るには環境破壊は避けられないのでしょう。
ちなみにミトコンドリアは、生きものが真核生物のころに取り込まれた細菌である、というのが定説です。当時は藍藻類などの海に浮かぶ植物プランクトンのせいで地球は酸素地獄と化し、それまでの酸素のない環境に適応していた連中は酸素という毒にやられて次々とリタイアしていきました。
そんななか酸素をエネルギー源にしてしまう画期的な勢力が現れ、彼らはぐんぐん環境に放散していきます。まさに毒を以て毒を制す。そんな新勢力を丸ごと取り込んだのが、現在地球にあまねく散在する好気性生物ですね。ミトコンドリアが活性酸素をお漏らししてしまうのは、そもそも酸素自体が有害なことの証左でありましょう。われわれは酸素をエネルギー源にできるけれど、完全に飼い慣らしてはいないのですね。
話を戻しましょう。ミトコンドリアは卵子に常備されているものしか引き継がれません。精子のミトコンドリアは受精した際に廃棄されるからです。これが母系遺伝という言葉の意味です。これを利用して母方のルーツを辿っていくと、現在の人類の祖先はアフリカにいたとある女性である、ということになるそうです。人類の母とも呼ぶべき当該人物は、安直に聖書からとって〈ミトコンドリア・イヴ〉と呼ばれています。
いまではほぼこちらが正しい定説であるとされていますね。無関係なウンチクのように思えるけれど、あとでちゃんと話をまとめますので頭の片隅にでも置いておいてください。
② 人類同時多発進化仮説
ミトコンドリア・イヴの対抗馬はこちら。人類の化石は各地から大量に出土しており、絶海の孤島みたいな場所からも出てくる始末です。ヒトはいきなりチンパンジーとの共通祖先から進化してきたのではなく、多数の中間段階を経てホモ・サピエンスになりました。
アウストラ・ロピテクスとかホモ・エルガスターとかホモ・ハビリスとか、舌を噛みそうな学名のついたご仁がたくさんいてはります。彼らは至るところに散っているので、ミトコンドリア・イヴのような単一起源説では説明がつかない。そこで考え出されたのが同時多発進化ですね。要旨は以下の通りです。
われわれ人類は各地で同時に進化し、現生人類となった。黒人や白人などの相違はその名残りである。したがって人種は見た目だけではなく、遺伝子レベルで異なっているだろう。
似た環境にいる生きものは、種の壁を超えて同じような進化を遂げることがしばしばあります。クジラは哺乳類ですが、フォルムは魚そのものですよね。あれは海中という同条件下では流線型のボディプランが有利なので、哺乳類だろうが魚類だろうが関係なく、最終的にはみんな魚みたいになるというわけ。これを収斂進化と呼びます。
人類も陸上という同一環境にさらされてきたので、最終的にみんなホモ・サピエンスになったという論旨です。わたしはちょっとこちらの仮説は弱いかなと思っています。あちこちの大陸でみんな横並びで脳サイズが同じ種になるというのは、あまりにも確率的に低すぎる。人類がバーゲンセールのようにそう何べんも進化した、というのは無理がある。
ここはやはり、分子生物学的な証拠のあるミトコンドリア・イヴ仮説のほうに軍配が上がりそうです。
コラム サルからヒトへの進化は起きるのか
本編には無関係ですので、興味のある向きだけご覧ください。
よく「サルからヒトは進化した」といわれますね。この文句は非常に多数の誤解を受けているので、ここで正しておきましょう。
創造論者の主張に「サルからヒトが進化したのなら、なぜチンパンジーはまだヒトになっていないのか? なっていないのだから進化論は誤謬だ!」などというトンチンカンな代物がござる。
なるはずないです。よろしいですか、進化とは生きものAから生きものBへ直線的になされるものではありません。直感的に理解しにくいかと思うので、図で説明しましょう。2章の〈平均猫〉の進化は下図の通りです。
〈平均猫〉→〈平均猫〉(普通の毛の長さ)→絶滅
→〈平均猫〉(長毛種) →環境へ放散
言葉だけだと長毛種に進化したかのように思えますが、そうではありません。上図から明らかな通り、①〈平均猫〉通常毛、②〈平均猫〉長毛種の2種類が存在します。①は絶滅したのであたかも②に進化したかのように見えるだけですね。進化とは在来種からの分岐であるとも定義できるでしょう。
チンパンジーと人類の場合は、それらの共通祖先がいたのですね。図で表せば、
共通祖先→共通祖先(絶滅)
→チンパンジー(現生)→ボノボ(現生)
→多数の亜人類(絶滅)→ホモ・サピエンス(現生)
となります。両者ともにチンパンジーとも人類とも似ても似つかない霊長類から分岐したのであります。したがってチンパンジーと人類はまったく別の種ですね。これから何千年経とうとも、おそらくチンパンジーは人類に進化しませんし、その逆もしかり。辿ってきた道筋が全然ちがうわけです。
創造論者のみなさん、チンパンジーからヒトへ進化したなんて喚き散らしていると、恥をかきますよ。なにかを批判するのなら、まずそのなにかに対する理解を最低限、身に着けてからにしましょう。創造論者は目隠ししてケンカをしているようなものです。われわれ進化論者は見当はずれなところで空を切っている拳を、醒めた目で眺めているのです。
③ して、BLは?
ようやく本題です。BLは結局のところ、①、②項で長々と説明したうちのどちらになるのでしょうか? 話が脱線しすぎて本題を見失っている読者がほとんどでしょうから、いま一度はっきりさせておきます。ここで問うているのは、「BLは日本から世界へ輸出されたのか、はたまた各国で独立に発明されたのか?」であります。
もし日本から輸出されたのなら、日本のBLはミトコンドリア・イヴにあたります。わが国が開祖となり、世界へ波及していったのですね。そうではなく、各国で独立に発明された可能性も捨てきれません。
自然科学ではある現象を説明する有力な仮説を、複数の科学者がほぼ同時に発見して論文にまとめる、という現象がたびたび起こります。技術的に成熟してさえいれば、自然現象は遅かれ早かれ誰かがそのしくみを発見します。発見競争が熾烈な場合はタイミングが重なることもあるでしょう。
腐女子歴20年を誇る実妹の主張はずばり、同時多発のほうでした。彼女はこともなげに言い切りました。「腐というジャンルには抗いがたい魅力がある。これを日本文化だと言い切る特別の理由はない」。さすがベテラン、言葉の重みがちがいますね。
しかし①項で説明したミトコンドリア・イヴ仮説が、(少なくとも分子生物学的には)正しいとされています。そもそも男性読者には〈男同士をつがわせる〉という驚天動地のジャンルを世界中の女性たちが愛好しているなどとは、とうてい信じがたいのではないでしょうか。
わたしもそう思います。それに日本はサブカルチャー先進国ですから、ここがいわばファッションにおける原宿的立ち位置になっているとしても不思議ではありません。流行の最先端は日本というわけですね。日本発祥のサブカルチャーはなんであれ、後進国は受け入れる。諸外国のオタクたちがそうしたスタンスを堅持している可能性は十分にある。やはり日本がミトコンドリア・イヴなのでしょうか?
わたしにはどうもしっくりこない。そう断定するには引っかかるものがあるのです。ファッションの例を再び用いましょう。原宿は流行の最先端とはいうけれど、かの地のファッションセンスは尖りすぎているきらいがある。ファッションというよりもうコスプレでは、といった趣の連中がたむろしており、あれが日本全土にウケているはずがない。
サブカルチャーについてはそもそも日本国内で見ても、ウケているコンテンツは結局のところ、内容もすばらしいというケースが多い。日本人は〈みんなと同じことをやらないと死ぬ病〉に罹患している哀れな連中なので、とにかく流行りのアニメや漫画にすぐ飛びつく。けれども流行りのアニメや漫画が絶望的につまらないという事態はまずありえません。
それらはおもしろいから流行るのであります。因果関係はこの順序で固定のはずです。どれだけ販促サイドが猛プッシュしたところで、つまらんモンはつまらん。流行っているからおもしろいなんて、語義的にもおかしいですよね。
4節におけるわたしの結論は次の通りです。
BLはおそらく日本発祥の文化であろう。この分野の盛り上がりに合わせて文化輸出が起こり、日本的なサブカルチャーを受け入れる土壌の整った諸外国に吸収された。しかし同時に、BLという(男性の視点からすれば非常に)特殊な領域を吸収するだけのなにかが、各国の女性には生来的に備わっているはずだ。
のちの節では、上述した結論のなにかがなんであるかを探っていきましょう。それこそがBLの正体であろうと思われるのです。
5 遺伝子は至るところに
4節の結論で、わたしは世界中の女性にBLを受け入れるなんらかの土壌があるはずだ、と述べました。その根拠をジャンル自体の特殊性に帰したのでした。こんなニッチな分野が大多数の人間にウケるはずがない、したがってBLには遺伝的な原因があるはずだ、というロジックです。
そして実際、娯楽作品の選好にすら遺伝要因が影響しているらしいという知見があるのです。
① 古今東西、ヒーローだらけ
そのひとつをご紹介しましょう。いつの時代でもウケる娯楽作品は決まっています。勧善懲悪。この一言で片がつきますね。ONE-PIECEやドラゴンボール、遠山の金さん、水戸黄門。これらに共通するテーマはなんでしょうか。ずばり、いいモンが悪モンをぶちのめす。これに尽きるわけです。
これは日本国内だけの現象ではありません。世界でもこの手の勧善懲悪ものが非常な人気を博している。マーベルコミックスのヒーローたちがよい例でしょう。有力な対抗馬と思われるダークヒーローは単なる変奏曲にすぎません。彼らは正義の味方がやれないような形で正義を執行しているにすぎない(悪人を容赦なくぶち殺すとかね)。
したがって奇をてらいすぎたアンチ・王道もの――純然たる悪人を主人公にした作品群は、マイナージャンルにとどまり続けています。日本ではこうしたジャンル自体、お目にかかれることはまずありません(警察小説やドラマがこれだけ氾濫しているのに、それでもなお新作はかたくなに官憲側ですよね)。
わたしの好きなノワール小説に「悪党パーカー」シリーズというのがあります(ドナルド・E・ウェストレイク著)。パーカーはひたすら金儲けのために犯罪をくり返すプロの強盗です。犯罪プランナーとして襲撃の図を描くのがメインですが、自身も肉体労働に加わって銃撃やら殺しやらをやらかす。
このシリーズはやたらとおもしろいのですが、わたしは37年間生きてきて悪党パーカーが好きだという人間に会ったことがない。ウェストレイク自体はかなり著名な作家なのにもかかわらずですよ。悪人を主人公にしてもウケない。これが厳然たる事実なのですね。
ちなみにパーカーは法を法とも思わぬアウトローなのですが、そんな彼ですら筋を通すべきところは通しています。仲間を裏切るのは相手がそうするだろうと予測できたときだけで、古くからの連れには非常に手厚い。たとえ仲間が官憲に捕まったとしても、弁護士費用として当初から決めていた分け前をちゃんと送ってあげるのですね。
ですからノワール小説といえども、仁義のない主人公では物語が成り立たないのであります。ちょっとしたことで頭に血が昇ってムチャクチャに殺しまくるとか、仲間を裏切って自分だけ生き残るとか、強盗ついでにレイプをやらかすとか、こんな野郎の極悪犯罪リストを誰が読みたいと思うでしょうか。結局悪党を描くにしても、最低限守らねばならない人間としての矜持があるのでしょう。「ゴッドファーザー」なんかはその典型ではないですか。マフィアの世界は筋と矜持で成り立っているように思われる。
いま出てきた矜持。これは人間に元来備わっているデフォルトの設定だと推察できます。そうでなければこれほど勧善懲悪の物語が世界中で見られるはずがないからです。これを科学的な用語で言い換えれば、
人間には悪を退治して正義が栄えるという状況を好ましく思う、なんらかの遺伝的な性向がある
となりますね。鍵はもちろん進化論です。なぜ悪は退治されるべきだとわれわれは望むのでしょうか。ずばり、集団行動における協調圧力で説明できます。
人類がサバンナをうろつき、肉食動物の食べ残しを漁っていたころ、群れは100人程度まで膨れ上がることがしばしばありました。規律を乱す悪人は群れにとって脅威となります。これは現代で犯罪者が善良な一般市民にとって脅威なのとまったく同じです。
当時の人類は肉食動物のような牙や爪はなく、かといって草食動物のような敏捷さもない、まことに中途半端な生きものでした(それは現在も変わっていません)。生き残るためには是が非でも群れを維持しなければならない。悪人を好き勝手にのさばらせておくのは死活問題につながります。
あとは恒例の自然淘汰がお役目を果たす流れですね。勧善懲悪的な心得を持った個体は群れの維持に役立ったでしょう。協調性のない自分勝手な連中を罰することで生き残ることができたでしょう。そうした性向が自然淘汰に優遇され、はみ出し者を罰する形質が次世代に受け継がれてきた、というわけです。
いかがでしょうか。このように人間の心理を進化的な視点から研究する学問を進化心理学と呼びます。なぜなに物語に陥りやすいきらいがあるものの、あらゆる人間行動を鮮やかに説明できる、非常に刺激的な分野ですね。
以上、娯楽作品に対する選好にすら進化的な要素が介在している、というお話でした。
② 遺伝子VS環境論争
何度もくり返して恐縮ですが、人間の性向や行動は究極的にはすべて、遺伝子に帰着させられるといっても過言ではありません。考えてみれば当たり前の話ですよね。だってDNAがマスタープランになっているんですから、そりゃ全部遺伝子が関係しているに決まっています。
よく教育畑からなされる反論はこうです。
遺伝子だけで人間が決まるというのなら、教育はなんの意味もないではないか。環境(育ち)が人間を形成するのであり、遺伝子(氏)は身体だけに作用するのだ。赤児の心は真っ白な石板で、そこに教育という鑿で人格を掘り出していくのがわれわれの使命である!
いわゆる遺伝VS環境論争ですね。この言い争いは不毛です。教育という鑿は確かに知識量を増やせるでしょう。わたしの主張は質の多寡ではなく、もっと根源的な次元についてなのです。
たとえばオランウータンにいくら算数の初歩を教えても学習できないでしょうが、人間は容易に習得しますね。これは脳のメカニズムが異なるからです。そして脳はDNAの塩基配列に帰着します。ほら、遺伝子じゃないですか。
赤ん坊の心は真っ白な石板ですって? バカも休み休み言ってほしいものです。もしそうなら、われわれはまとまった共同体を維持することなんか不可能です。先述した悪人を罰したいという潜在的な性向や、他人とはなるべく強調し、衝突を極力避けようとする性向、遵法精神、その他いろいろの共通理解があるからこそ、日本は1億人もの人間が集まってもなんとか国のていをなしていられるのであります。
生まれてくる赤ん坊たちすべてに協調性を叩き込まなければならないとしたら、家族ですらまともに機能できないでしょう。家族、企業、学校、市町村、そして国家。こうした団体は「群れを維持する」という形質が人類に組み込まれているからこそ存在できるのです。政治家の手腕でそうなっている、なんてことは天地がひっくり返ってもありえません。
トドメは言語の習得ですね。赤ちゃんにしきりに話しかけてさえいれば、彼らは勝手に言語を習得します。それが日本語だろうと英語だろうとタガログ語だろうとおかまいなしに、すんなり理解してしまう。おまけに習得期限まであって、およそ7歳くらいがリミットとされていますね。
この事実は明らかになんらかの基幹OSのあることを示唆しています。あらゆる言語をインストールできるハードウェアがまずあって、幼少期限定で赤ちゃんはそのどれかを取り入れることができる(なんと同時期に多数インストールすることもできます)。たいていは両親の話している母国語ですね。
言語は人類が進化する過程であまりにも有用だったので、遺伝子レベルでその学習要綱が刻み込まれたのでしょう。鑿をふるうのが教育者だという主張は傲慢にすぎる。その主体はやはり母なる自然――自然淘汰なのであります。
コラム 遺伝子で決まるという言葉の意味
わたしは徹底したウルトラ・ダーウィニスト(動物の表現型にはなんらかの進化的な意味があると想定する論者)ですし、遺伝決定論者でもあります。それでも幾多の誤解がはびこっているようなので、遺伝決定論について少し触れておきましょう。
読者は遺伝子とはなんであるか、覚えているでしょうか。そう、おおよそ1,000個ほどの塩基配列の塊でしたね。この配列によってタンパク質が生産され、日々身体の恒常性に役立っているのでした。
常識的に考えて知能や心理的性向などの複雑な要素が、たった1つの遺伝子に――ひいてはたったひとつのタンパク質に――紐づいているはずがありません。塩基は日々、放射線や活性酸素によって破壊・修復がくり返されています。
人類のDNAリカーゼ(DNA修復酵素)はかなり優秀で、ほぼ修復を完璧にやってのけるのですがもちろん、エラーは毎日起きています。身体を構成している細胞がおよそ60兆個あり、それらひとつひとつに60億塩基を納めたDNAがあるのですよ。そんなモン、完璧に修理できるはずがない。
もし性格や知能が単一遺伝子にコードされているのなら、多数の人びとが突如として阿呆になってしまっているはずです。修理しきれなかった塩基がたまたま知能を司る遺伝子だったら一発でアウトですからね。3の倍数のときだけ阿呆になるどころの話ではありません。したがって身長などのボディプランであれ内面的な性向であれ、ほとんどの表現型は単一遺伝子に結びついていないはずだと結論できます。
ではどうなっているのかというと、複数の遺伝子がひとつの表現型を管理しているのですね。たとえば遺伝子A、遺伝子B、遺伝子Cが身長をコードしていて、これらのすべてに変異が起こると成長障害になる、というようなイメージ。これをポリジーン仮説と呼びます。
本エッセイでは「**遺伝子」という表現を便宜上たびたび使用しているけれど、本当はそんなモンまずないよ、という点だけ押さえておいてください。表現型には無数の遺伝子が関与しており、今後もそれらの網の目を解きほぐすのは不可能とまではいわないものの、長い時間がかかるでしょう。
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