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妖魔と知己
盗賊達の財布のお陰で、俺とインジェンは無事、いい馬と馬具を手に入れることができた。
意気揚々と都を離れ、限りなく広がる緑の草原の海に船出する。
太陽は天高く輝き、空は見渡す限り真っ青に広がって、この世の果てまで横たわる限りない平原を包み込んでいた。
紫微の都はもともと、大河の氾濫の作った広い平原の、東北端に位置している。
平原は、日本一つと同じくらいの広さがあり、気温が冷涼で、雨が少ない。
地下水や川の水を利用できる場所では小麦や綿花の栽培が行われているが、乾燥のひどい場所は草原が広がっていて、移動しながらの牧畜が行われている。
季節の良いことも相待って、波打つ草の上を吹き抜ける風は爽やか、何とも幸先のいい雰囲気だ。
インジェンは馬上で高い空を仰ぎ、大きなため息を吐いた。
「世界はこんなにも、遠くまで広がっていたのか……」
嘆きのようにも、喜びのようにも聞こえるその言葉に、どう返したらいいのか分からない。
高い塀に囲まれ、区切られた空や土地しか見ることができない、豪華な牢獄。
そこから今、ほんのひとときだけ解き放たれた貴人の気持ちは、俺には想像すら出来なかったから。
俺は奴隷に生まれたけれど、もしかすると、インジェンよりもよほど自由に生きてきたのかもしれないと思えた。
国が滅びてから、家も居場所もなくて、本当に惨めな人生だと思ってたけど……。
「……馬に乗るなど、本当に久しぶりだ。公主になってからは、縁が無かった。……身体が覚えているものだな」
心底嬉しそうなインジェンが俺の方を見る。
暖かな日差しに照らされた彼の顔には年相応の少年ぽさが残る微笑みが浮かんでいて、処刑を命ずる氷の姫君の面影はない。
「……お前は、奴隷なのに何故馬に乗れるようになったのだ?」
質問されて、俺はちょっと得意げに答えた。
「私は元々、ダッタンで召使いをしておりまして。狩などの際にご主人様のお供をするのですが、その時に必要になり、覚えました」
「……なるほど。やはりお前、ただの奴隷ではないな。先刻の、馬主との値切り交渉も堂に入っていたし」
そりゃあだって、俺も伊達に9年も、超貧困・放浪生活送ってない訳で。
なんか、一目置かれちゃった?
一応、王様の奴隷だったことは黙っておいた方がいいよな。爺さんとカラフに、迷惑がかかったら申し訳ないし……。
「殿下も……城の中で急いでピンと服を交換されていた際に、ある程度はご自分でなさっていて、驚きました。都に住まう身分の高い方は、服の結び紐を結ぶことすら一生されないのが普通と聞いておりましたが」
インジェンが、肩をすくめて笑った。
「私は囚人と変わらぬ生活をしてきたからな。特定のものにしか姿を見せぬように、身の回りの世話をする宦官は極少数に留めているせいで、大抵のことは出来るようになった。最初は不本意だったが……」
言いながら、気付いたようにインジェンは片眉を上げた。
「今、また私のことを殿下と呼んだな。インジェンと呼べ。都を出た今は、もはや慇懃な言葉遣いもいらぬ。誰も咎める者はおらぬ」
「いえ、誰も居ないのなら、尚更殿下とお呼びするべきかと。殿下に敬語を使わないなんて、私には出来ません」
恐縮する俺に、インジェンは大きく首を振り、馬から身を乗り出してこちらに手を伸ばし、俺の背中に垂れた髪をぐいと握った。
「妖魔のくせに、急に真面目ぶるのか。旅の間だけは良いと、この私が自ら言っているのだぞ。……言われた通りにしろ……おっと!」
インジェンが馬の背中から落ちそうになって、俺は慌てて彼の背中に手を伸ばし、支えた。
「殿下! お気をつけて」
「だから、『殿下』はやめよ。今は呼び捨てで良い。このしばらくの旅の間は、私とお前は、共に旅に出た妖魔とその知己(ちき)だ。分かったな」
なんてワガママなお姫様だろう。
期限付きで自由になった解放感で、買い物ごっこの次は、妖魔と友達ごっこがしたくなったって?
無理だよ、正直。俺がカラフみたいな七王家の王子ならともかく、一介の奴隷だぞ。
まぁ、俺だってそもそも、王子のフリしてインジェンと結婚しようとしてた訳だけど。
それにしても、トゥーランの次期皇帝を呼び捨てってのは、天罰がくだりそうだ。
天罰がなくても、こんなの万が一誰かにバレたら、首がいくつあってもたりない。
でも、命令だしなぁ……。
「……分かったよ。インジェン」
やっと俺がそう言うと、インジェンは心底嬉しそうに、どこか少年ぽい満面の笑みを浮かべて、俺の髪をまとめていた紐をパッと抜き取った。
「あっ、ちょっ」
背中まで伸びた髪が肩に落ちる。
ちょっと長めの俺の髪紐を掴んだまま、インジェンが馬を急かした。
「もう! インジェン様……!」
慌てて馬の腹を蹴り、インジェンの持っている長い紐の端を追う。
「お返しください!」
「様はいらん。……妖魔なら、空でも飛んでみよ」
「そんなことできるか!」
「ははは。つまらん妖魔め」
からかわれながら、必死にインジェンの馬の尻を追いかける。
……もう本当に、俺たち何しに来たんだっけ!?
俺まで分からなくなってきた。
――馬に草を食べさせ、川や、農家の井戸で水を飲ませて貰いながら、のんびりと西へ西へと向かう内に、日が傾いた。
草むらの中にポツンと、葉をよく茂らせ、白い可憐な花を咲かせた槐の木が視界に入って、俺は思い切ってインジェンに提案した。
「そろそろ日が暮れる。……今夜は、そろそろ休まない……か……イン、ジェン」
タメ口に、サッパリ慣れない。
めちゃくちゃ棒読みかつ、挙動不審な感じになってしまった。
相手はと言えば、明らかに慣れてない俺の言葉遣いに吹きだして、馬の上で震えている。
なるほど、これ、新手の奴隷イビリなのか。
……誰だ、こいつのこと、氷のような心の姫君だって言ったのは。
俺が憮然としていると、インジェンはまだ笑いを堪えきれないまま、馬を止めた。
「しかし、この辺りには何もないぞ。どこで休むと言うのだ」
純粋に疑問、といった感じでインジェンが首を傾げる。
「……野宿ですよ。近くに農家も見当たらないし。この辺は結構乾燥してて、しかも夏だから夜露も無いし。結構快適に眠れる」
「外で眠るのか!? 皇帝の血を引く者がそんなことをして、先祖の罰が当たらぬだろうか」
「当たるとしたらそれはわたくしめだと思いますから、大丈夫だと思いま……思う。何もしなくて良いから、木の下で休んでいてくださ……いや、休んでいてくれ」
イマイチ、友達なんだか奴隷なんだか距離感のおかしい喋り方になってしまう。
首を捻りつつも、料理のために焚き火をするべく、俺はその辺にゴロゴロしている石を拾い始めた――かまどがわりにする為だ。
こんな乾燥した所で火事なんか起こしたら、とんでもないことになるからな。
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