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俺のチート能力判明
朝飯を終え、俺たちは西への旅を再開した。
今日も天気は上々だ。
地図を片手に進むうちに、俺たちの前に小川が立ち塞がった。
この国に流れる大河に集まる、支流のひとつだ。
幅は、十メートルくらいだろうか。
近くに橋は見えない。
この川は以前、爺さんと都から来るときに渡ったことがあった。
1番深いところでも馬の背ほどの水深だから、馬に乗ったままでもギリギリ渡れるだろう。
「あの河原から渡ろう」
後ろのインジェンに呼びかけて、馬の鼻先を比較的容易に川に入れそうな、砂利の集まった岸辺へと向けた。
馬の脚がザブザブと川の流れの中に入っていく。
最初は浅いが、真ん中までくると、水が俺の太ももあたりまできた。
足に当たる流れは、思ったよりも強い。
上流の方で雨でも降ったのかもしれないな……。
慎重に岸辺まで馬の足を進めていると、後ろから甲高い馬のいななきが聞こえた。
振り返ると、1番深い川のど真ん中のところで、インジェンの馬が立ち往生している。
その背に乗っているインジェン自身は、必死に馬を宥めようとしているが、どうにもうまくいってない。
「大丈夫ですか!?」
叫んで、俺は素早く馬の背から飛び降りた。
ザブンと水飛沫が立ち、胸の上までずぶ濡れになる。
荷物を背に乗せた馬を先に向こう岸に行かせ、あと少しというところまで近づいた途端、インジェンの白馬はついに後足立になって暴れ出し、自らの乗り手を背中から振るい落とした。
「あっ!」
俺とインジェンの口から、同時に鋭い叫びが上がる。
激しい水音がして、皇子の身体は完全に水の流れの中に呑まれた。
「インジェン様!!」
ほとんど悲鳴まじりに名を叫ぶが、彼の身体はさっぱり水面に上がってこない。
足が付かない程の深さじゃないのに、パニックになってるのか!?
咄嗟に水の中に潜り、激しい水流の中を必死に探す。
あちこち泳ぎ回った挙句、少し離れた所の川底で、沈み込んだままピクリともしないインジェンをついに見つけた。
――気を失ってる……!?
俺の方が半狂乱になりながら、彼の襟首を強く掴み、流れを横切って泳ぐ。
濡れた服も髪も重たくて、更にインジェンが重くて重くて……一瞬でも気を抜いたら諸共に水死体になってしまいそうだ。
全身の力を使い果たす寸前で、向こう岸に皇子の身体を仰向けに引きずり上げた。
「インジェン様! ……インジェン!!」
大声で呼びながら何度も頬を叩くが、グッタリとして反応がない。
胸に触れ、息を確かめる。
息をしていない……!
まさか心肺停止――。
絶体絶命の最中で、俺の脳は走馬灯のごとく、こんな時の対処法を必死で記憶検索していた。
前世、野球部でピッチャー返し(打球がピッチャーに向かって打ち込まれてしまうこと)による心臓振とう、熱中症その他の対策にと習った心肺蘇生講習!!
こ、こんな時は……!
き、気道を確保して、アン○○マン・マーチのリズムで胸骨を圧迫……しながらの、人工呼吸だっ……!
記憶ってやつは恐ろしいもので、俺はアンパンの顔したヒーローのお陰で、正確に一分に百回の心臓マッサージを施しつつ、時折インジェンの鼻を摘み、その唇を奪って、深く息を吹き込んだ。
ああもう、こんなことになるんなら、ぶん殴ってでも城に帰らせるんだったのに!!
やっぱり、お姫様に旅なんて無理なんだよ!!
畜生、人工呼吸、本当にこれで合ってるのか!?
この世界じゃ、救急車も、助けすら呼べない。
俺のこの行為が正しいのか間違ってるのか、判断してくれる誰かすらいない。
泣きそうになりながらひたすら頑張っていると、ガボッというくぐもった音とともに、インジェンが急に身体を震わせ、咳き込んで水を吐き出した。
「ああっ、インジェン様……っ!」
ほとんど涙ぐみながら彼の名を呼び、上背のあるその背中を必死で助け起こす。
何度もむせて苦しそうに水を吐いたあと、彼はようやく目を開けて、俺の肩を弱々しく掴んだ。
「……っ、いったい、何……が……」
もう一度激しく咳き込んで、その後が言葉にならない。
「川に落ちたのです。火を起こすから、服を脱ぎましょう。お風邪を引く前に……っ」
相手はかろうじて小さく頷き、またグッタリと俺の身体に倒れかかった。
その様子は、少しでも乱暴に扱ったら死んでしまう小鳥のようで、俺の背中は今更、ぞわりと冷たくなった。
「……驚いた……」
お互い薄い内衣一枚になって、焚き火で濡れた服と身体を乾かしている時――インジェンがポツリと言った。
日はとっくに高くなっていて、そばには、主人を捨ててさっさと川を渡り切ってしまった薄情な白馬が、俺の栗毛とのんびりと草を食んでいる。
俺は街で買った貴重な茶葉を出し、鉄の鍋で汲んだ川の水を沸かした。
香ばしい匂いのする茶なら、宮廷育ちの彼でも、躊躇なく飲むことができるだろうと思ったのだ。
木椀に茶を注ぎ、飲める程度に冷めた頃合いで渡すと、予想通りインジェンはそれを抵抗なく飲み始めた。
「川の水の中に入るのは初めてで、あんなに冷たく、強く流れているとは思わなかった。緊張で、手足が、凍りついたようになって……馬は私の動揺を悟って、混乱したのだろう」
冷静に思い返している彼に、俺は反省を込めて頭を下げた。
「本当に申し訳ございません。最初からわたくしめが馬から降りて、ちゃんと横についているべきでした。わたくしの落ち度です……。やはり、わたくしはあなたさまを、外にお連れするべきではなかった――」
だが、インジェンは強く首を振った。
「その慇懃な言葉遣いはやめろ。……私は、お前とここに来て良かったと思っている。……閉じ込められたままでいるよりかは、ずっと良い。何より、私を助けたのはお前だ」
炎の向こうから真剣な瞳で見つめられて、俺の心臓がドキリと跳ね上がった。
その唇は、お姫様の姿をしている時と同じ花びらのような色と形をしていて……そして、小さな傷が出来ている。
俺がさっき、おぼろげな記憶を頼りにやった人工呼吸が乱暴過ぎて、歯が当たったのだ。
相手の意識が無いとはいえ、唇を奪ってしまったのは確かで……。
あんなことしたとインジェンが知ったら、卑しい妖魔に純潔を散らされたと怒り狂うだろうなぁ。
あと、前世も今世も含めて、俺のファーストキスが終わった。
あああ〜……。
インジェンが本当にお姫様だったら、何の悔いも無かったんだけどなぁ〜〜!
いや、人工呼吸なんてノーカウントって思っときゃいいんだろうけど。
複雑な気持ちを押し隠しつつ、俺は自分の茶も汲んで、行儀悪くもフーフーしながら飲み始めた。
そんな俺をじっと観察するように見据え、インジェンが口を開く。
「それにしても……お前は、西北の出身なのに水に強いのだな?」
「別の世界で、小さい頃に泳ぎを習ってたんで……」
インジェンが訝しがるのは当然だった。
この世界では、義務教育もスイミングスクールもない。泳ぎは、川や湖沼、海のごく近くに住んでいる人々だけが持つ特殊能力だ。
……こんな平々凡々なスキルが、この異世界じゃあチート能力になるなんて、皮肉だな。
「……私を生き返らせたあの口移しの法術も、その妖魔の世界で会得したのか?」
その言葉で、俺はせっかく口の中に入れた茶を思い切り吹いてしまった。
「いっ。意識、あったのですか!?」
焦って敬語が出てしまう。
インジェンはこともなげに頷いた。
「お前の歯が私の唇に当たって、痛みで目が覚めた」
「〜〜っ。……申し訳ございません、後でいくらでも首を刎ねてください……」
「私にも教えろ、あの術を」
は、はいぃ……!?
そんなもの、ライフセーバー講習にでも勝手に行ってくださいよ!? ……って、この世界には無いんだった。
濡れた長い髪から水を滴らせたまま、インジェンが火の向こうからジリジリ近づいてくる。
内衣に透けた、意外と逞しい胸板が目に入ってきて――何故かいけないものを見てしまっている感が凄い。
俺は尻歩きで逃げながら、両手をパーにしてブンブン振った。
「まっ、まず、泳げるようになる方が先! そもそも、呪いを解くのが一番先!」
必死で叫んだら、インジェンはしぶしぶ諦めたのか、その場でとどまっている。
ホッとした。
大体、人工呼吸と心臓マッサージなんてどうやって教えりゃいいんだよ。
ここには練習用の人形なんてねぇんだぞ!
もしかして、俺に代わりになれって……?
溺れた人の役になって、俺が目をつぶって横になって……。
そこに、あの綺麗すぎる顔が、唇が、吐息が触れるほどに近づいてきたりして。
何故だかさっぱり分からないけど、顔中の毛細血管がカッと開いて、頬が熱くなった。
もう、だから、こいつはお姫様だけど、皇子様なんだってば……。
――ある程度お互いに身体を温めてから、焚き火で乾かした服をもう一度身につけ、俺たちは早々に目的地に向かって出発した。
さっきまで、殴ってでも城に追い返そうって思ってたのに……何故だか言い出せなかった。
だって彼はあまりにも、全てのことに一生懸命で……。
何だか、助けてあげたくなってしまうんだよな……。
風に吹かれながら、横で馬を進めているインジェンは、さっき死にかけたばかりとは思えないほど、穏やかで楽しそうな顔をしている。
「呪いが解けたら、私に泳ぎを教えろ」
「……いいですけど……」
「ですけどとは何だ。約束しろ」
「……分かったよ。約束する」
だって。それって、呪いを解き終わっても、俺を処刑しないでくれるってこと?
なんて、軽々しく聞ける訳がない。
友達ごっこをしてたって、俺は所詮、奴隷で罪人で、彼は俺の首なんていつでも飛ばせるのだ。
でも、ほんの少しは、インジェンは俺のこと……本物の友達っぽく思い始めてくれてるのかな。
だとしたら……。
嬉しい、なんて言葉は無邪気には言えないけれど……。
……ううん、やっぱり、嬉しい、かな……。
俺だって今まで、この世界には友達なんて一人も居なかったから。
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