手のひらの中の雛

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手のひらの中の雛

 ――それからしばらく、旅は順調なように思えた。  インジェンは野宿に少しずつ慣れて、俺の作る微妙な飯をイヤイヤ食べつつ、馬の扱い方も良くなっている。  相変わらず、寝入り端(ばな)は俺の真似をして、座ったまま寝ようとするのが困ってしまうけれど……。  一緒に過ごす時間が増えるほど、俺とインジェンの間柄も、出会った当初ほど緊張したものではなくなりつつあった。  とはいえ俺にとっては到底、友達同士なんて言えるものではなく、馴染みの主人と家僕になったような感覚だ。  そもそも、インジェンは本当に世話が焼ける。  ――朝は起こし、食事を用意して食べさせ、着替えを手伝い、毎晩寝る前には、彼の長い髪を櫛で漉く。  彼の髪質は、俺のとは違い、細くて多くて繊細で、時々そうしてやらないと、絡んで言うことを聞かなくなってしまうのだ。  でもそれは、昔爺さんのうっすい髪と格闘していた時よりも、ずっと愉快な仕事だった。  人形のように真っ直ぐで滑らかで、触れるだけでうっとりするような綺麗な黒髪。  傷一つない、色っぽいうなじ。  後ろから髪に触れると、まるで、本当にお姫様の世話をしているような気分で、男と分かってはいても楽しかった。  インジェンも俺に気を許したのか何なのか、からかってくるようなことが急に増えた。  例えば、俺のものをわざと隠したり、俺の馬にちょっかいを出したり、髪をいきなり引っ張ったり、うたた寝してたら、顔に焚き火の煤(すす)を塗られたり……。  とても皇子とは思えないような悪戯をしてくるのだ。  初めて男友達ができた男子小学生のノリ?  結構迷惑だけど、アハハと笑って許すしかない。  相手が皇子ってのもあるけど、きっと生まれて初めての悪戯だろうし、他人への甘えなんだろうから。  それでも度を越すと、ちょっとは叱らざるを得ない。 「インジェン、馬に乗ってる時に俺の髪を引っ張るのはやめてくれ。落ちちゃうだろ!」  弟に言い聞かせるみたいに諭すと、相手は綺麗な横顔をツンとさせて、素知らぬふりをした。 「引っ張ってなんかいない」 「引っ張った!」 「この私が嘘をついているというのか? 無礼だぞ」 「それは、疑って誠に申し訳ございませんでした!」 「ははは」  奴隷の俺が憎まれ口を聞いても平然と笑ってる。  城にいた時なら、次の瞬間に俺の首が落ちてるぐらいの態度だったのにな。  生まれて初めての自由がもたらす、心の余裕なんだろうか。  俺も調子に乗って拗ねたふりなどしてしまう。 「もう、髪を掴まれないように、俺はずっと先を行くからなっ」  馬をせき立てて早足にさせ、インジェンの馬よりも前を行かせる。  これだって打首獄門ものの無礼だが、城に帰ったら、どのみち打首かもしれないしな。  そんな風にして、彼の馬よりもだいぶ先を行くうちに、違和感に気づいた。 「……?」  たしかに、馬の足音は聞こえるのだけれど――。  振り向くと、インジェンの馬だけが、俺の馬の尻を追いかけるようにして歩いていて、乗り手の姿はどこにも見当たらない。 「インジェン!?」  慌てて馬を止めて、その背中を飛び降りる。  もしかしたら、隠れてまた俺をからかっているのかもしれない。  密生する草原の中にガサガサと分け入ると、草むらに隠れるようにして、インジェンがうつ伏せに倒れていた。  落馬した!?  でも、馬は暴れていなかったし、叫び声ひとつ聞こえなかったのに……何故!? 「インジェン、おいっ、どうしたんだ!?」  慌てて上半身を助けおこすと、彼の呼吸はひどく乱れていて、その額にも脂汗が無数に浮かんでいる。  生え際に手を当てると、ものすごく熱かった。 「凄い熱だ……っ」  ――川で溺れた時に体が冷えてしまったのと、体力の限界が重なったのかもしれない。  あるいは、飲んだ川の水で感染症を起こしたのか。  一刻も早く近くの村に寄って、医者に見せなくては……!  と、いってもこの世界の医者ってやつは、田舎にはいない上、漢方と鍼治療が専門。しかも、医師免許もないせいで当たり外れが凄いのだ。 「うう……寒い……」  目を閉じたまま、インジェンが真っ青な顔でうめいている。  元々色が白いからか、その苦悶の表情は、まるで死相のようにも見え、恐ろしい。  意識が朦朧としてる……。ただの風邪じゃない。  とにかく、どこか屋根があって、横になれる場所に寝かさないと、どんどん体力を失ってしまう……!  自分よりも長身の彼を渾身の力で抱き抱えて、俺の馬の上にもたれかからせるようにして乗せる。  その後ろから俺も彼を支えるようにして、馬に跨った。 「インジェン、もう少し、我慢してくれ……!」  俺は目的地へのルートを外れ、一番近くの村へと馬の足を向け、走り始めた。  午後になると日が陰り、馬上の俺たちの身体に、針のような雨がしとしとと降り始めた。  この地方は乾燥しているけど、この季節にだけは雨が降るのだ。  俺は縮こまって震えるインジェンの身体を毛布で包みこみ、強く抱いた。  ――天というものがあるなら、皇帝の血を引くこの人が死ぬなんてことはない筈だ!  でも万が一があるとしたら……俺は一生、後悔する。  歯を食いしばりながら心の中で念じる一方で、俺は気付いた。  友達ごっこの筈だったのに……。  俺は、この男のことをいつの間にか放っておけなくなってた。  ――こんなに手が掛かって仕方がない、高慢ちきで悪戯好きで、喧嘩は強いくせに、外に出したらすぐに死にかけるようなお姫様を。  俺の玉の輿作戦は完全に失敗してるのに。  本当は……この荒野にインジェンを放置して、野垂れ死にさせてしまえば、呪いを解くなんて面倒臭い約束もなくなり、処罰からも逃げられて、自由の身になれるってのに。  そう、今はもう爺さんすらいないから、誰の世話もする必要ない、本当の自由の身に……。  でも、俺には決してそんなこと出来ない。  呪いにかかったからじゃなく。  俺自身の意志で。  まったく、なんてこった。  俺は、彼のこと、好きになってる。  いや……ボーイズラブ的な意味ではなくてだけど。  だって、俺が放り出したらすぐ死んじゃう、巣を出たことない雛鳥を、俺が連れ出したのに、捨てて逃げられるわけなんてないし、情だって移るに決まってるじゃないか……!  半泣きになりながら走るうちに、畑らしきものが見えて来た。  どれも狭くて、ほとんど作物が実っていないが、たしかに畑だ。  やっと、人里に辿り着いたんじゃないか……!?  そう思った矢先、馬の行手に立ち塞がるようにして、傘をさした男の影が複数あるのに気付いた。  きっと、村人だ……!  助かった! 「おーい! 頼むっ、俺の連れが大変なんだ!ーー」  馬上で大声で叫ぶ。  だが、彼らはその呼びかけに答える代わりに、傘を放り投げ、腰に刺した何か長いものに手をやった。  それが、幅広の刀だと気付いた瞬間――俺は、ギリギリで馬の首をそらし、畦道から足場の悪い畑の中に突っ込んだ。  やばい、やばいっ。  一瞬しか見えなかったが、明らかに堅気の村人じゃあない。  しかも、なんだか顔に見覚えがあったような――と思ったのは、俺だけじゃなかったらしい。  背後から不穏な叫び声が追いかけてくる。 「おい、今のアイツ……あの胡服の優男……! アイツだよ、俺の財布を取りやがった野郎は!」 「ウーチンの兄貴をやりやがった野郎共か!?」 「捕まえて殺して、盗られた金を取り返せ!」  ――なんてこった!  都で買った恨みが、よもやこんな最悪のタイミングで復讐しに来るなんて、聞いてない!!  インジェンを落とさないよう気をつけながら畑の向こう側の畦道に向かって馬を走らせたが、馬も相当疲れがきているのか、だんだんスピードが遅くなっている。  無理もない、大の男二人も乗せて土の柔らかい畑に入るなんて、そりゃあ辛くもなる!  ならず者の一味の中には、弓を持っている奴もいたのか、後ろからビュンビュンと矢が飛んでくる。  間一髪で避け続けていたが、とうとう、馬の尻に矢がかすってしまった! 「アーッ!」  痛みに錯乱した馬が、俺とインジェンの身体を、諸共に地面に振り落とす。  酷く叩きつけられ、俺達は雨の中、畑の土の上に転がり、身体中泥まみれになった。 「ごめ……っ、大丈夫か!?」  痛みを感じる暇すらなくインジェンの様子を確かめる。  泥に汚れた彼の顔は、死人のような色をしていて、反応すらない。  ただでさえ弱っているのに、打ち所が悪かったりしていたら……!  再びその体を抱え上げようとして、後ろからドカッと蹴られ、インジェンの体の上に覆い被さってしまった。 「うっ……!」  衝撃で一瞬息が止まる。  咳き込みながら振り向こうとしたら、外衣の首を掴まれてズルズルと後ろに引きずられた。
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