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止められない決意
谷の出口の、開けた草の上で俺たちは馬を止めた。
男の子を休ませ、話を聞くためだ。
馬上にいた時からカラフが少しずつ水を飲ませ、ふやかした饅頭(マントウ)を食べさせていたおかげで、男の子は意識がハッキリして、喋ることが出来る様になっていた。
「……ありがとう、おじちゃん……」
汚れた頬に涙を流す彼に、カラフは尋ねた。
「名前はなんと言う」
「……シャオヤン」
「何故、あのような寂しい場所に倒れていたのだ。親はどうした」
親、という言葉に、シャオヤンはいっそう酷く嗚咽を上げて泣き始めた。
「……僕……都に売られていく途中で、谷に転げ落ちて……。偶然、途中で木にひっかかって、ぎりぎり命が助かったんだ。……でも、人買いは僕を死んだと思ったのか、そのまんま置いていかれた……」
「……親に売られたのか……?」
カラフが尋ねると、シャオヤンはさめざめと泣きながら首を左右に振った。
「僕、自分から人買いについて行くって言ったんだ。去年から、水不足のせいでうまく畑のものが育たなくて、その上、盗賊がよくでるようになって。……わずかな食べものも、みんな奪われて……僕がいなくなれば、その分妹や、弟が食べられるから……」
「親は役人に訴えなかったのか」
「……お役人さんは、知らんぷりだよ。僕を売ったお金も、税金だって言って、その場でほとんど持っていっちゃった……」
その言葉を聞いて、インジェンが整った眉を顰めた。
「督撫(地方行政の官僚)や緑営は何をしているのだ……!」
やりきれない気持ちは、俺の胸にも積もった。
俺は生まれた時から奴隷の子だったけれど……子供が自ら、人買いについて行くなんて。
その子の、親や弟妹を思ういじらしい気持ちを思うとやりきれない。
と、同時に、ふと――俺とインジェンがならず者に襲われた時のことも思い出した。
あの医者がいた村にも、盗賊がいた。
畑にほとんど作物がなくて、村人の顔はみんな疲れた様子で、痩せていて暗かった。
そもそも普通の村に、ならず者がああやって入り込み、はびこってたこと自体も異常だ。
この国は病んでいるんじゃないだろうか。
インジェンの父親である皇帝はかなり高齢で、しかも病気だ。
皇太子は不在で、一人娘のお姫様は城の中で、求婚者の首を切ってばかりいる。
そんな国が乱れない方がおかしい。
都とその周辺はまだ体面を保てているけど、役人が腐り、治安を守る兵が力を失い、こういう末端の村々から……インジェンと同じように、病が巣食い始めているのかも……。
しばらく休んだ後、俺たち一行は重苦しく口をつぐんだまま、子供とチンファの村へと向かった。
谷を出てしばらく行くと、茅葺き屋根の茅が半分崩れ落ちかけ、壁板がほぼ朽ちている、恐ろしいばかりのボロ屋の群れが見え始める。
村に入ったところで馬を降りると、その家々の一つに、シャオヤンが駆けていった。
「母ちゃん!」
その声が上がった途端、家の中からやつれ果てた母親が転がり出てきて、大声で叫んだ。
「シャオヤン!! まさかあんたなの!!」
「そうだよ、母ちゃん、僕、戻ってきたんだよ……!!」
親子が抱き合いながら泣き崩れる。
父親も何事かと外に出てきた途端、絶句してその場にへなへなと崩れ落ちた挙句、這うようにして我が子を腕に抱き締めた。
「お前、よく、よく……。ずっと後悔していたんだ。お前を手放すべきじゃなかった……!」
カラフが父親に近づいていき、親子の前に膝を折った。
「その子は谷に落ちて、幸運にも人買いの手を逃れられたのだ。……親孝行な子だ、大事にしてやりなさい」
「ああ……若様方が、この子を連れ戻してくださったのですね。本当に本当に有難うございます……! せめて、お名前を」
男の子の父親が、汚れた両手を合わせる。
カラフは温かい笑顔を浮かべながら、その手を厚い手のひらで包みこんだ。
「名乗るほどの者ではない。……親子で達者で暮らせ。私達は先をゆくので、これで」
カラフが立ち上がり、離れたところに立っていた俺とインジェンの元に戻ってきた。
「さあ、ゆくぞ」
「……」
今度はインジェンも口をつぐんだまま、何も言わなかった。
再び馬に乗った後も、村の様子を眺めながら、深く思いに耽るような表情を浮かべている。
――きっと、初めて自らの目で見たトゥーランの現実に、強いショックを受けているのに違いなかった。
三人で村の出口に向かい始めると、すれ違うようにして官服を纏った痩せ気味の小男が、供の者を連れて村に入ってくる所だった。
尊大な態度の小男に、供の男が話しかけている。
「……チャオティン様。この村からはもう税を搾り取れそうにはないのでは」
「いや、いや、まだだ。民はずる賢い。金や余分な食料を、穴を掘って隠すことなど雑作もない。しっかりと徴収せねば、わしのメンツがたたん」
「去年は不作でした故、税も多少軽減されているのでは……」
「何を言うか。取れるものはしっかり取らねば。まったくあやつらと来たら、払うものも払っていないくせに、悪党どもが来るからどうにかしろなどと言ってくる。そんな小物ども、緑営に訴えたところで、面倒がって動くものか」
役人は、痩せていかにも小心そうな顔をしていた。
会話からすると、土地税の徴税の為にやってきた郡役人のようだ。
ここは都も近いし、トゥーランドットの顔を見たことがあるかもしれない。
ムカつくけど、ここは穏便にすれ違おう……と俺は思ったのだが――インジェンが、突然馬を止めた。
「!?」
呼び止める間もなく、インジェンがひらりと馬を降り、役人達の前に立ちはだかる。
ちょっ、まさか……!
真っ青になる俺の前で、彼はいつもの高飛車な態度で声を上げた。
「おい、役人。お前の名は何という」
小男は馬鹿にしたように首を傾げた。
「はぁ? 全く、この村と来たら、礼のなっていない若者しかおらんか。おい、さっさとこの者をどかせ。切り捨てても構わん」
うわぁ、顔バレよりもヤバい事態になってきた……!
何でこのお姫様は、なにかと言うとすぐに死に急ぎたがるんだ!?
「お待ち下さい! 申し訳ございません、この者は気が動転しておりまして……っ」
俺が止めに入ろうとすると、反対側で黒馬から飛び降りたカラフがインジェンの隣に並び、火に油を注いだ。
「役人殿。その方は、今はこのような民に身をやつした姿をされているが、トゥーランの城から来た皇族だ。失礼な態度を取られない方が良いのではないか」
か、カラフーっ!!
それは言っちゃダメなやつだろ!?
そもそも信じてもらえる訳ないし!
王子も皇子も、穏便とか処世術とか、そういう言葉を知らないのか!?
俺が青くなったり赤くなったりしていると、案の定、役人がカンカンに怒りだした。
「見えすいた嘘を言うな! そんなやんごとなき身分の方が、こんな辺鄙な場所にいるか! おい、こやつらを全員捕まえろ。牢に入れてやる!」
三人のお供が剣を構え、二人に襲いかかる。
二人も同時に剣を抜き放ち、すぐに応戦した。
相手もある程度訓練を受けている様子だが、インジェンの舞うような身の軽さと素早い剣捌き、カラフの恐ろしい程の剣の重さには叶わない。
お供達はたちまちに、主人を置いて村の外に逃げ出してしまった。
「おいっ、お前たち、どこへいく!?」
馬上に一人取り残された役人が泣き叫んでいる。
インジェンは剣を鞘に収め、氷の姫の形相で役人に近付いた。
役人が動揺しすぎたのか、無様に馬の背から地面に転げ落ちる。
「ひっ、ひいー! こっ、殺さないでくれ!」
悲鳴を上げた相手を見下ろしながら、インジェンが長袍の懐の中に手を入れ、小さな光る何かを彼に向かって投げつけた。
「……!?」
見れば、それは彼が旅立つときに持ってきていた簪だ。
「っ、これは……龍珠の簪……!? まっ、まさか貴方様は本当に……!」
「――民が子を売るほどに困窮しているというのに、何故、官庫の備蓄を出さぬ。しかも、ならず者の跳梁跋扈を放置するとは。官僚の風上にもおけぬ」
「は、ははぁ……!」
「……だがお前は末端の木端役人に過ぎん。この地を管轄する県知事に、その簪を届け、伝えるがいい。……トゥーランドットに首を刎ねられたくなくば、襟を正し、職務を全うせよと」
「ヒッ……!」
首切り姫の名を聞いて、役人はますます縮み上がった。
「お許しください、お許しくださいっ……!!」
地面にガツガツと音が立つほど額を打ちつけ、擦り付けている役人をそのままに、インジェンが身を翻して馬に戻る。
カラフも無言で剣を納め、自分の黒馬に飛び乗った。
無言で先頭をゆく皇子に並び、カラフが親しげに声をかける。
「やあインジェン殿、胸がすく思いをしたぞ。あの役人は、しばらくはあの村に対して手を緩めるだろう」
カラフの声音は明るかったが、インジェンが返したのは、逆に、暗く沈んだ声だった。
「……この村と、あの役人だけをどうにかしたとて、なんの解決にもならぬ」
カラフもまた、声を落としてつぶやいた。
「それは私も同感だ。……このトゥーランの国は、都は恐ろしく立派だが、その外はどこもかしこも貧しく、悪人がのさばっている。私の国は北の大国ロサに滅ぼされたが、何故そんなことが起きたのか、理由は明白だ。盟主たるトゥーランの弱体化……ロサの真の狙いは、トゥーランの肥沃な大地。それにも関わらず、緩衝地帯であるダッタンが全て占領されても、トゥーランは兵一人たりとも出すことはなかった。……ロサとじかに国境を接することになったというのにだ」
嘆いたカラフに、珍しくインジェンが更に言葉を返した。
「……。皇帝は年老い、兵の規律を正すことも叶わぬ。跡を継ぐ皇子もおらぬ。役人どもの興味の対象は、自らの保身と蓄財のみだ。……」
しばらく誰もが黙ったまま、村を遠ざかる。
空は不穏に曇り、黒々としたその合間が時折光っていた。
「……また一雨来そうだな……」
カラフは独り言のように呟くと、少しずつ馬のスピードを落として、俺の隣に並んだ。
その瞳に、強い光が宿っている。
「リュウ」
ゴロゴロと鳴る空の音に紛れ、ひそひそ声で名前を呼ばれた――何か、危険なことの相談の時のように。
「何でしょうか……」
嫌な予感と共に返事をすると、カラフは響きの良い声できっぱりと宣言した。
「……皇族すら絶望しているこの国は、やはり変えねばならん。私はこの旅が終わったら、都に行き、トゥーランドット公主に求婚する。この国と七王家の存続の為にな。……前のように、止めても無駄だ」
「か、っ……カラフ様……!?」
聞き返そうとするも、カラフはすぐに馬に鞭をくれて、前をゆくインジェンも追い抜かし、西へと向かい出した。
インジェンも負けじと馬を早める。
俺は、唖然としながら二人を追いかけることしかできない。
カラフ……今の、どういう意味だ!?
しかも、俺の答えなんか必要ないって態度で。
トゥーランドットに求婚するって……何で今更そんなことを言うんだよ!?
――トゥーランドットの正体は、すぐ後ろにいる男だっていうのに……!
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