心のままに

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心のままに

 ――カラフの元から逃げ出しても、行くあてなんかあるはずもない。  俺がトボトボ帰ってきたのは、結局元の宿だった。  インジェンを起こして、少しは食べさせないといけないし……。  カラフがもし帰ってきていたら、どんな風に接したらいいんだろう。  そのうえインジェンもいるのに……ぎくしゃくしてたら、何があったのか、不審がられちゃうかもしれない。  いっそ、何もかもから逃げ出したい……。  でもそんな無責任なことをして、インジェンが死んでしまうなんて絶対に嫌だ。  沈んだ気持ちで宿の入り口をノックして、番頭さんに扉を開けてもらった。  宿はトゥーランの伝統的な四合院造り――中庭の四方を建物が囲むような形の造りになっている。  あてがわれた部屋に入ると、行燈の火に照らされた丸窓や、複雑な透し彫りがなんとも美しかった。  紫檀の家具が置かれ、木製の床には西方からの輸入品の絨毯が敷かれている。  テーブルの上には先程の店から運ばせた料理と酒が並んでいたが、何一つ手をつけた様子はない。  その奥の天蓋のついたベッドを覗き込んだけれど、インジェンはそこには居なかった。  ……まさか……誘拐された!?  一人にしたことを後悔すると共に、サーッと身体から血の気が引いていく。 「インジェン様!?」  大声で叫ぶと、後ろの方から声がした。 「そんな大きな声で呼ぶな」  振り向くと、腰まである長い髪を解き、長袍の衿のボタンを一つ外したリラックスモードのインジェンが、観音開きの扉の間から入ってくる。 「……起きて、少し庭を散歩していただけだ」  冷たいほどに透き通った双眸が俺をじっと見つめた。  そっけない言葉を受け止めながら、足から力が抜けて、ヘナヘナと絨毯の上に崩れ落ちる。 「ご無事で良かったです……っ」  酔ってぼんやりしているせいか、いつもよりもわざとタメ口にするのがやり辛い。  普通、逆なのにな。  俺は奴隷だから、もはや、こっちの方が自然体なんだ。  それにどうしたって、彼には冒(おか)しがたい気品があった。……生まれた国も、環境も、何もかも違う。  気安く口を聞いたとしても、気楽な友達のようにはいかない……。 「リュウ。お前、妙な匂いがする」  インジェンが、歩いて俺のそばに近寄ってくる。  床に座り込んだまんまボンヤリしていると、彼は跪いて、ごく近くから俺の顔を覗き込んだ。 「顔も赤い」  その手が、額に落ちかかっていた俺の後れ毛をかきあげる。  心臓に痛みに近いような衝撃が走った。  着替えや髪の手入れで俺から彼に触れることはあったけど、その逆のことは、初めてだったからだ。  ……悪戯目的の時だって、髪を引っ張ったりするだけで、俺自身には殆ど触らなかったのに。  そして気付いた……カラフにさっき触れられた時よりも、その温もりが、俺の内側に喜びを引き起こすことに。 「申し訳ございません……さっき、酒を飲んでしまって……」 「それだけか? 酷い顔をしているぞ……。言葉遣いもおかしい」  ……もしかして、心配してくれている?  インジェンが、罪人で、奴隷にすぎないこんな俺を……。  悩み事を一人で抱え、膨らんでいた心が爆ぜて、涙が頬を伝った。 「ごめん……」 「なぜ泣く……? 一体何があった……全くいつものお前らしくないぞ」  長い指が躊躇もなく俺の頬に触れて、自然に涙を拭い取っていく。  決して、綺麗なものじゃないのに。 「さあ、こっちに来るがいい」  腕を掴まれて、立ち上がらされた。 「私の向かいに座れ」  手を引かれ、料理を並べたテーブルの方へ連れて行かれる。 「いや、あの……」 「構わぬ。来い」  無理矢理引きずられて、椅子に座らされた。  真向かいの椅子にはインジェンが腰を下ろす。  彼は俺の顔をじっと見て、口を開いた。 「毒味せよ」 「うん……」  宮殿でそうするように、俺は箸を持ち、一つの皿から一口ずつ、料理を口にした。  じっと見つめるようにそれを確認してから、インジェンが料理に箸をつけてゆく。  単なる毒味役なのに、何だか、家族の食卓みたいな距離。  相手はしばらく黙々と食べていたけれど、やがて、肩を縮こまらせて座っている俺に尋ねた。 「何があった。……いつまでもあの不調法な男が帰ってこないが、何か言われたのか?」  ――カラフのことだ。  聞かれた途端、さっきのキス未遂事件を思い出して、顔が熱くなった。 「いっ、いやっ、違……ただ、酔っ払って、失敗しただけで……」 「? それは、どんな失敗だ」  インジェンの低い声の調子が、鋭くなる。 「そ、その……。ふらついて、カ……ハリル様に、寄りかかってしまって」  本当のことじゃないけど、嘘とも言い切れないよな!?  恐る恐る相手の様子を伺うと、インジェンの持っている箸の先から、水餃子がポロリと落ち、ボチャンとスープの中に飛び込んだ。  びっくりして、俺の口があんぐり開いてしまった。  彼は野外であろうと、いつも完璧なマナーで食事をしていた。  たとえ手掴みを強要されても、隙のない、優雅な仕草で食べていたのに――。 「インジェン……服、汚れなかった、か……?」  思わず尋ねると、彼は今気付いたとばかりに、自分の服を見下ろした。 「……っ、問題ない……! そんなことより、その後はどうしたのだ。酔っているのをいいことに、ハリルに何かされたのではないだろうな!?」  更なる動揺が俺を襲う。  だって、何かされた、だなんて。俺がキスされそうになるの見てたのか!? と思うような質問だ。 「何をって……な、なにもされてないし」 「――何もなかったなら、お前は何故さきほど、私の顔を見て泣いたのだ。怪しいではないか!」  くぅ……変なところにばかり鋭いな、この皇子様は。  困り果てながらも、心配してもらえるのが嬉しくて……。  つい、ずっと抱えていた本音を吐いた。 「何もない。……泣いたのは、心配してもらえたのが嬉しくて……でも、申し訳なくて。俺……最近、これからどうすればいいのか、さっぱり分からなくなることが多いから」 「?」  インジェンが柳の葉のような美しい眉を(ひそ)める。  俯いたまま、俺は言葉を続けた。 「……前にインジェンに『俺なら呪いを解く方法を探すのを手伝える』なんて言っただろ。……でも、何もかも予想外のことばっかりで……俺の未来の知識なんて、本当は、もう、とっくに何の役にも立たなくてさ……」  こんなこと言ったら、インジェンは怒るかもしれない。  でも、言葉が溢れて止まらない。 「今はもう、俺が、これから何をどう選択すれば、インジェンが助かって、みんなが幸せになれる未来に繋がるのか……全然、分からないんだ……。インジェンを巻き込んだの、俺なのに……本当に、ごめん……っ」  涙でまた視界がぼやける。  物語の秘密も結末も知ってるなら、絶対に有利に生きられるはずだったのに――。  俺の話を、インジェンは黙って聞いていたけれど、やがていつもと同じ少し傲慢な感じで、ため息混じりに言った。 「なんだ。そんなことで悩んでいたのか……?」  そんなことって、と俺が思わず顔を上げると、彼は真顔で言葉を続けた。 「謝る必要などない。先のことが何も分からぬなら、他人の幸せなど考えず、お前はただ、自分のしたいようにしろ」 「で、でも……っ」 「お前は自らの意思で私に求婚しようと思い、城に来たのだろう? これからも同じようにすればよいだけではないか」  まるで、神様のお告げか何かみたいに、インジェンの言葉が一条の光のように俺の心の中に差し込んで、明るく照らしていく。  そうだ。  俺は「リュウ」じゃない……。俺は、俺としてこの世界に生まれた。  あの広場で俺としての決断を始めた時から、既にもう、物語は壊れていたんだった……。  インジェンが美しい眼差しで俺をとらえ、言葉を続けた。 「リュウ、お前は十分よくやった。……お前が現れたから、私は変わることができた。城の中に籠り、女の姿で呪いに従うだけの私ではなくなった。――お前と出会ったから、私は、危険を冒してでも思うままに生きようと思ったのだ。そして私は、それで良かったと思っている。……だからリュウ、お前も」  一呼吸おいて、言葉を強め、インジェンは言った。 「――お前の思うままに、すればよい」  その言葉に、涙が溢れて止まらなくなった。  彼が、俺を奴隷ではなく、人間として扱ってくれたから。  自由に生きればいいと、言ってくれたから。  ごっこじゃなくて、初めて、彼と友達になれたような気がした。  俺の、今この時だけの錯覚かもしれないけれど。 「……なぜまた泣いている。全く、お前がお前らしくないから、食べる気が失せた。床で休む。お前もこちらに来い」  泣いてばかりの俺に呆れ果て、インジェンが立ち上がる。 「う、うん……」  俺もつられるように立ち上がった。
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