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初体験
インジェンがベッドの上に腰を下ろし、俺は当然のようにその足元の床に跪く。
ところが、すぐに腕を掴まれて引っ張り上げられた。
「何をしている。隣に座れ」
「でもっ……床が汚れるよ。俺の服には砂埃がついてるし」
「構わぬ」
強引に腕を引かれて、おずおずと彼の隣に腰を下ろした。
隣の男の体から、高貴で甘い伽羅の香りがする。
解いた長い髪と、白い横顔が絵姿のように綺麗で、長い睫毛が上下するたびにドキドキした。
距離が近くて緊張する。
俺、何でここにいなきゃならないんだろ?
今カラフが入ってきたら、何て思われるか。
何か言い訳をつけて逃げ出したいと思っていたら、片手をそっと、インジェンに握られた。
「……お前が元いたという、妖魔の国の話をしろ」
ビクンと体が震えるくらい驚いた。
「え、えっと……?」
「早く」
促されて、頬が熱くなったままコクンと頷く。
インジェンの手……意外と大きい……あったかい……。
「ええと……。俺が住んでたところは、地球の日本っていう国で。そこに住んでる人たちの見た目は、肌が黄色くて髪の毛は黒くて、トゥーランの人たちとそんなに変わらないんだ」
「成程?」
「すごく豊かで……店に行けば、どんな食べ物でもあふれるほどあって。……それから、学校がある」
「がっこう?」
「子供が勉強するところだよ。トゥーランにも読み書きを教える所はあると思うけど……小学校はどんなに貧乏な家の子供でも、無料で字や、算術を習うことができるんだ。だから、たくさんの人が字が読めるし、数字の計算もできる」
「お前もそこへ行ったのか?」
「そうだよ。それから、俺は、野球っていう運動をやってたんだ」
「ヤキュウ?」
「9人1組のチーム同士で、球を、投げたり、棒で打ったりして、点数を競うんだ。甲子園ていう、お祭りみたいなでっかい大会があって。俺は小学生の時からそこに行くのが夢だった。リトルリーグからシニアリーグに行って……暑い日も寒い日も、監督に怒鳴られながら、仲間と、いっぱい走って、たくさん練習した」
「……コウシエンとは何だ。レンシューとは修練のことか?」
インジェンが首を捻る。
「あははっ、そうだよな。分からないことばかり喋って、ごめん。そうだな……国中からたくさんの少年が集まって、殺し合いじゃない試合をして、一番の組を決める……そういうお祭があるんだよ」
「国中から? どうやって集まるのだ。馬で来るのか?」
「ううん。馬が引かないでも走る車があってね。あと、空を飛ぶ飛行機っていう乗り物もあって、それを使う人もいる」
「やはり妖魔の国だな。人が空を飛んでやってくるとは……」
感心する相手がおかしくて、クスクス笑いが止まらなくなった。
「トゥーランだって、あと百年も時が経てば、そんな国になるかもしれないよ……」
「……。誰も飢えず、人が空を飛び、祭で一番を決める国にか……?」
「うん。もしかしたらね……」
インジェンが長い髪をかき上げながらこちらを向き、とろけるような笑顔で微笑む。
「リュウ、お前と話していると、何故か希望が湧く。今まで、誰と話していてもそんなことはなかった……」
繋いだ手の、指を絡めながら柔らかに名を呼ばれて、胸が疼く。
ああ、何だろう、この気持ち……。触れたところからムズムズする何かが流れ込んでくるような。
落ち着かない俺の隣で、インジェンが言葉を続ける。
「私は、父が年老いてからやっとできた男子だった。兄達は早逝しており、顔も知らぬ」
「うん……」
「同じ年頃の子供との交りもなく、私は物心ついた時から、一人だった。しかも十三で、男としての人生も奪われた。多少抗いはしたが、所詮は公主と同じだ。何も知らず、人と関わる能力も乏しい。……私は、皇帝になる自信が本当のところ、無い……」
珍しく弱気な心を打ち明けられて、ビックリした。
いつも傲慢な態度のインジェンが、実はそんなことを不安に思っていたなんて……。
だから、あんなにカラフにつっかかっていたんだろうか。
王子としての自信あふれるカラフには、こんなインジェンのコンプレックスは分かりっこないものな……。
でも、インジェンだって立派な皇子だし、それは比べるようなものではないのに。
俺は必死で、インジェンを慰めた。
「そんなことはないよ。剣も強いし、立派な教養もあるし」
「……いや。ハリルを見て、実戦や城の外での経験の乏しい私は、今のままでは駄目だと悟った。……けれど、リュウ。妖魔の国から来た、おかしなお前がこの先もずっとそばにいてくれるなら、なぜか、どうにかなるのではないかと思えてくる……」
ビックリした。
だってそれは……この旅が終わっても俺をそばに置いてくれるつもりがあるっていう、告白で。
しかも、いつになく素直で、不安や希望を口にする彼は、物凄く可愛いくて堪らなくて……。
「インジェン……っ」
思わず俺は、自分の身分も忘れ、彼の身体にしがみつくように抱きついていた。
「貴方のように自分の弱さを知る人こそ、皇帝に相応しいと思う、俺は」
本当なら、その場で切り捨てられて殺されてもおかしくないくらいの無礼だ。
でも、インジェンは俺を拒絶しなかった。
いかにもぎこちなく俺の背中に手を伸ばして、ぎゅう、と抱きしめ返してくれたのだ。
そのことが衝撃的に嬉しくて、顔を上げて……息も触れるほど近くにある美しい顔立ちを見た。
耳朶と頬に赤みが差し、瞳が少しだけ潤んだその表情に、氷の姫君の面影はない。
あまりに綺麗で、可愛くて、切ないくらいになるその顔を、ぼうっと見惚れている内に、唇が重なっていた。
俺からしたのか、彼からそうしたのかは分からない。
お互いに「そうしたい」という心が溶け合って、引力に当然のように導かれたように、口付けしていたのだ。
目を閉じて、胸の奥から溢れてくるものを相手にぶつけるように、開いた唇を擦り合わせ、舌で優しく触れ合う。
インジェンの舌の動きはぎこちないけれど優しくて、でも、ハッキリとした欲情を纏って、俺の中に入り込んでくる。
それが、眩暈がするほど嬉しくて気持ちよくて。
前世も今世もしたことがなかった、俺のファースト・キス……。
可愛い女の子と、チュッとして終わる筈だと思ってたそれは、背中がびっしょり汗ばむくらいエロくて濃厚だった。
もっともっと、彼とこうしたい。
彼が欲しい……!
「はっ、ぁ……あ……、殿下、……お許しを……っ」
動揺で敬語に戻ってしまう俺の唇を、真珠のような美しい歯が甘噛みして、柔らかな舌が舐め回す。
「……ゥん……っ!」
ただ抱き合って、口と舌とを擦り付けているだけなのに、何でこんなに気持ちいいんだろう……。
整える為ではなく、その感触を楽しむためだけに、解かれた柔らかな髪に指を差し入れ、俺からも彼の綺麗な唇を貪る。
インジェンの熱くて速い心臓の鼓動が、服越しに俺の胸に直に伝わってきた。
俺に、ドキドキしてくれてるの?
こんな綺麗で、妖精みたいに美しくて、高貴な人なのに……?
現実離れしてるほど美人なせいか、男だからとか、そんなことを気にする気持ちなんて微塵も起きないのが不思議だった。
カラフとは、こんな風にするなんて考えられなかったのに。
首筋にしがみついて腰を浮かせ、目を閉じてどちらともなく何度も唇を重ねて吸い合う。
舌で渡された彼の唾液を飲み下して、粘膜が腫れぼったくなるほどに渇望を確かめ合いながら、確信した。
友達になりたかったのだと思っていたけど、……そうじゃない。
俺は、彼を好きになってる。
男であるような、女であるようなこの人を、この人の弱みごと、俺の心の中に受け入れて、愛してしまってる。
背中を、髪を撫でられながら布団に押し倒され、熱っぽさでボンヤリとした意識の中で、体重をかけながら奥まで舌を差し入れられて、口のなか全てにくすぐるような愛撫を受ける。
「あっ! ンぅ……っ」
相手の肩に指を食い込ませ、淫らな叫びを上げてしまって、これが自分の声かとビックリした。
荒い息を繰り返しながら、唇が離れていく。
「リュウ……」
「い、インジェン……」
キスで火照りきった互いの身体をどうすればいいのかも分からずに、密着したまま名前を呼んで見つめ合っていると、部屋の外でブーツの踵を鳴らす音が聞こえてきた。
――カラフだ……!
察した途端、俺たちは、まるで相談したかのように瞬時に素早く動き出した。
インジェンは掛け物を引っ被って寝たふりをし、俺は前屈みで飛び起きて、テーブルに取り付いて皿を片付けるフリだ。
次の瞬間、観音開きの扉がパンと開いて、カラフが姿を現した。
「リュウ。――お前、帰ってきていたのか……」
「は、はい……!」
まだドキドキしたまま、平静を装うのはかなりの気力がいった。
しかも、あの出来事の後だ。
ハッキリ言って、物凄く気まずい。
その上、寝たフリしているインジェンの前で、変なこと言われたらどうしよう……!?
「リュウ。先程は本当に済まなかった。私の気持ちを先にお前に伝えずに、あのような――」
不穏な単語を口走りそうなカラフの言葉に被せるように、俺は大声で叫んだ。
「いーえいえいえ!! 全く!! 大丈夫ですっ!!」
「!? そ、それなら良いが。……とにかく、私は、リュウ、お前のことを愛しく思っている。私には大望があるので正妻にすることは出来ないが、愛しているのはリュウ、お前のみだ」
俺の口が開いたまま閉まらなくなり、ハテナがいっぱい空中に飛び交った。
「……は……!?」
「何だと……!?」
ベッドで寝たフリをしていたインジェンまで、怒りの形相で飛び起きる。
あ、アチャー!
一番恐れていた事態が起きつつあるんじゃないか、これは!!
まさに修羅場の展開だ。
「ハリル、貴様、リュウを愛人にするなどと言ったな……? この場で打ち首にしてくれる……」
インジェンは髪の毛が逆立ちそうな程に激怒していて、完全にトゥーランドット・モードだ。
「何だ一体。起きていたのか? 私はインジェン殿に首を刎ねられる覚えはないぞ。だがいい機会だから伝えておこう。リュウは元々、私の一門に仕える者。この旅が終われば即刻、お返しいただきたい」
カラフ、いまそれ言っちゃうか!?
ていうか、なんでいつの間にか俺、ボーイズラブの主役になってた!?
二人の真ん中で追い詰められた俺の状態は、――まさに前門の虎、後門の狼だ。
俺、どうすりゃいいんだよ!?
『――お前の思うままに』
インジェンの言葉が蘇り、ハッとする。
そうしたら、俺の身体は自然と動いていた。
拳を固め、カラフの前まで静かに歩み寄る。
――そういや、これで、二度目だ。
俺の運命は、カラフに言いたいこと言った時から変わったんだったよな。
思い出して、フッと微笑みが浮かんでくる。
今度は殴り飛ばしはしなかったが、俺は彼にキッパリと言った。
「ハリル様。私は、私の自由な意志でインジェン様の元におります。誤解させて申し訳ありません。お気持ちも、有り難く思いますが、私にはお受けすることが出来ません!」
カラフがすっかり目を丸くして、狼狽し始めた。
「リュ、リュウ……! それは真の気持ちか……!?」
俺は微笑んで、頷いた。
「真の気持ちです。――申し訳ございません」
「そうか……。だが、リュウ。私はそなたが好きになった。決して諦めはしないぞ!」
んな……!?
目を白黒させる俺の肩を後ろからがばりと抱き、インジェンが怒鳴る。
「貴様、どの面を下げてそんなことが言えるのだ。リュウは私と居たいと今申しただろうに!?」
「私の気持ちはインジェン殿には関係ないことだ」
「おやめ下さい、二人とも!!」
叫んだのも虚しく、インジェンがカラフに掴みかかり、殴り合いの大喧嘩が始まった。
「ちょっと! もう、何やって!!」
インジェンがカラフを殴り飛ばし、その背にぶつかった椅子の脚がぼきりと折れる。
立ち上がったカラフがインジェンに足払いを食らわせ、インジェンの肩が透し彫りの入った木製の衝立に激突し、穴が開く……。
もはや怖くて間にも入れない俺の後ろに、気が付いたら、この宿の店主がいた。
「お客様……今すぐ、お引き取り願えますでしょうかね?」
真っ青な顔をして営業スマイルを浮かべている彼に、俺はしおしおと頷くことしか出来なかった。
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