ロウ・リン

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ロウ・リン

 一気に、着たばかりの服の下で冷や汗が湧いた。  もう次の挑戦者が来ちまったのか!?  伝言係の宦官が去った後、俺はインジェンの顔を覗き込んだ。 「殿下、どうするのですか……!? 早く婚姻の馬を探さなければ、また、新しい犠牲者が……!」 「……それは、今……探させようと……」  言葉が切れ切れになり、インジェンの呼吸が乱れだした。  顔が真っ青になり、まるで――あの、旅の途中で倒れた時のように、息も絶え絶えに苦しみだす。 「――だ、大丈夫か!?」  まさか、命の期限がもう……!?  彼の身体がガクンと力を失い、寝台の上にその背中が倒れる。 「インジェン、インジェン! だっ、誰か、医者――」  だが、その時だった。  赤いアイラインの引かれたインジェンの大きな瞳がカッと見開き、その瞳孔が異様に小さくなって、ギョロリと俺を睨んだのだ。 「ひっ」  顔の他の部分は力が抜けてるのに、目玉だけ俺を睨んできたその表情は、顔立ちの綺麗さのせいもあり、まるきり人形のようでかなりホラーだ。  しかも、紅の塗られた小さな唇の、薄く開いた歯列の間から、「ふふふふふ」と、うすら恐ろしい、低い笑い声が漏れてくる。  彼はまるで操られた人形のように、反動もなくすぅーっと上体を起こし、俺の首に巻かれたスカーフを素手でガッと掴んだ。  ひとまとめにしたその布を伸ばした片手で持ち上げながら、インジェンが(しょう)の上に立ち上がる。  座っていた俺の体は、完全に首吊り状態になった。 「うぐぅ……っ!?」  インジェン、一体どうしたんだ……!? 「この、いやしき奴隷め……」  彼の目は殆ど白目を剥いているようになって、明らかに正気を失っている。  こ、これも、ロウ・リン公主の呪い……っ!? 「ロウ、……リ……」  呻きながら話しかけた俺に、忌々しそうに相手が答える。 「妾の名を……その汚らわしい口で呼ぶとは……身の程知らずめ……!」  その声は、いつもの低い声ではなく、恨みに満ちた女の声だった。  まさか、井戸から現れた、ロウ・リンの霊……!?  インジェンに乗り移っている……!?  いや違う、ずっと、インジェンと一緒に……インジェンの中に居たんだ……!  息ができない、苦しい……!  抵抗したいけど、身体は彼のものだ。  傷付けるのが怖くて、下手に手が出せない。 「虫けらの異邦人め……私の道具に、余計なことを吹き込みおって……万死に値する……お前は、ここで、死ぬが良い……!」  初めて会った、しかも肉体を操る恐ろしい幽霊に、恐怖で身体が痺れてゆく。  ジタバタ暴れるうちに酸素が足りなくなり、意識が朦朧とし始めた。  ヤバいっ、このままじゃ、マジで殺される!  インジェン……!!  本当に、ごめん……っ!!  心の中で謝りながら、俺はスカーフを両手で掴み、そこを起点に身体を後ろに揺らして、反動で相手の股間を膝で思い切り蹴り上げた。  中身の幽霊は女だから、本能的にそこを庇う習慣が無い。  酷い苦痛に対する肉体の反射に引き摺られたのか、俺の首を絞めていた手からすっと力が抜けた。 「ガハッ! ハーッ、ハーッ」  ドサっと布団の上に身体が落ち、自由を取り戻すと、すぐにカーテンにつかまりながら布団の上に立ち、構えながら距離を取る。  よし、形勢逆転だ……!!  呪ってる本人に会えるだなんて、好都合じゃないか。  ここで会ったが百年目とばかり、俺は彼女に向かって叫んだ。 「公主どの!! あんたは、ちゃんとっ、太祖に愛されてた! 太祖はちゃんとあんたを助けに来たんだ。ただ、間に合わなかっただけなんだ!」  けれど、俺の言葉も虚しく、ロウ・リンは狂ったように笑うばかりだった。 「ははははっ、そんなことはもう、どうでもいい! ……妾はもっと……八つの王家の最後の一人の命が尽きるまで、血を、首を求めておるのじゃ! 新しい王子の首が欲しい……!」  まるで見えない糸で釣られるように、ゆらりとその身体がベッドの上に浮き上がった。 「小賢しき、卑しい異邦の奴隷よ……。新しい王子の挑戦を受け入れ、首を切って捧げよと、皆のものに伝えるがいい! そうすれば、こたびの裏切りは許し、私の道具として……もっとこの体の命を長らえてもいいとな……ふふふふふ……っ」  プツン、と何かが途切れたように、その身体が布団の上に仰向けに崩れ落ちる。  俺は彼の上に覆い被さり、その白い頬を叩いた。 「インジェン、インジェン……っ! 大丈夫か、インジェン……っ!」  何度も名を呼ぶと、鳥の羽根のように密生した睫毛が震える。 「……は、あっ……」  深いため息のような呼吸音が漏れて、澄んだ瞳に生気が戻った。  と、同時に、インジェンが布団の上をゴロゴロ転がって苦しみ出す。 「うぅっ、股の間が死ぬほど痛い……!!」  わあ、ほんとゴメン……!! 俺がやりました!!  申し訳ないし可哀想なんだけど、姿は世界一の美女なだけに、シュールな光景だ……! 「ごっ、ごめん、だっ、大丈夫か!?」  話しかけながら、どうしても敬語が出てこないことに気付いた。  ああ、俺……旅の間は、逆の現象に困ってたのに、いつの間にこうなっちゃったんだろう。  インジェンが股間を押さえながら、酷く辛そうに俺を見る。 「大丈夫な訳があるか! うぅっ、痛い……一体何があったんだ……いつの間にか、記憶が途切れて…… リュウ、その首の赤い跡は……!?」 「あっ、これ……」  すっかり緩んでしまっているスカーフと、首にガッツリついた締め跡に気付いた。  どうやらインジェンは、さっきのことは何も覚えていないらしい。  仕方なく、俺は今さっきあった出来事と、ロウ・リンに言われたことを、彼にそのまま伝えた。 「…………次の王子の首を早く捧げれば、……インジェンを、すぐには殺さないと……。でも彼女は、全ての王家の王子がみんな死ぬまで、許さないって……」  白い顔が沈鬱な表情のまま固まる。 「インジェン、急ごう。これから、トゥーランドットの正体を知る人間の屋敷を、一つ一つしらみ潰しにしてでも馬を探して、呪いを解くんだ」  提案したけれど、インジェンは凍りついたような表情で首を振った。 「――時間がない……! 解呪はもう、間に合わない。今やってきた王子には、犠牲になって貰う」  その決断に、俺は首を横に振り、彼の華麗な旗袍の袖を掴んですがった。 「ダメだ、インジェン……! まだあと二日は時間がある! 新しい首をささげたって、その場しのぎだ、ロウリンは満足なんてしない……! 首がいくつ増えたって、彼女がほしいものは本当はそんなものじゃ――」 「では、お前は私に死ねと言うのか!?」  苛立たしげに叫び、インジェンが俺を乱暴に振り払った。  身体が跳ね飛ばされて、ベッドの柱に背中を激しく打ち付けられる。  こんな乱暴にされたことなどなくて、痛みよりそっちの方に驚きながら、弁解した。 「そっ、……そんなこと思ってるわけないだろ……!? 間に合うようにっ、もっと一緒に、手段を考えようって言ってるんだ! そうだ、馬の副葬品と同じものを、作るとか……っ」 「そんな紛い物でロウ・リンが満足すると思うのか? ――もう良い! 誰ぞ、いないか!? 支度をせよ。早く、挑戦者の王子を、謁見の間に連れてくるがいい……!」  大声で人を呼ぶインジェンの目は、ロウ・リン公主が乗り移っていた時と同じく、氷の刃のように冷たい。 「血だ……! 血が必要だ……新しい首を早く捧げねば……!」  真っ赤な唇が、うわ言のように残酷な言葉を漏らす。  ――ダメだ、完全にインジェンがおかしい!  城の中では、彼の中にいるロウ・リン姫の呪いが強いんだ……!  インジェンが、(しょう)を囲むカーテンをざっと払い、冷酷な視線で俺を睨み付けた。 「……お前も私のそばで控えているがよい。ロウ・リンと直に話したのは、お前だけだ。話の真贋は分からぬ。――王子の首から最後の一滴の血が流れるまでを――私とともに、責任を持って見届けるがいい……!」
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