真夜中の愛

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真夜中の愛

 ――夜明けが、刻々と迫ってきていた。  媚薬が苦痛や疲れを忘れさせていたのか、今は反動で身体中が痛くて、怠い。  多分、インジェンも全く同じ状態だろう。  脳みそがバカになってる間も、俺は決してカラフの名を吐かなかった。  インジェンのことをどんなに愛していても、どちらかの命を選び、どちらかを捨てる覚悟は、俺には出来なかった。  痣だらけの裸のまま、寝台の上を見回す。  乱れた絹の布団の隣に、相変わらず、彫像のように整ったインジェンの裸体があった。  彼はうつ伏せになったまま朦朧としてはいたけれど、まだ、起きている。  でも、限界に近いのか、うつらうつらしていた。  可哀想に、顔色が本当に酷い……。  今にも息が止まってしまうんじゃないかと思うほど……。  寝台に広がった長く美しい髪を優しく撫でると、彼は心地良さそうに、すうっと目を閉じた。 「……」  寝息が聞こえ始めたのを確認して、そろりとベッドの下を覗き込む。  床の上に、俺のいましめを切った後、抜き身のまま放り出された短剣を見つけた。  この物語が、元の物語の軌道に乗り始めているとするなら……。  「リュウ」は、この夜が明ける前に剣で自分の胸を刺し、死ぬ。  それは、インジェンの命を助けられず、カラフの命を見捨てることもできない俺にとって、いかにも相応しいラストのように思えた。  幸い、インジェンは眠っている……。  トゥーランドットの本来の物語の筋書き通り、短剣で自分の胸を突き刺して、俺が死ねば、この物語は元のハッピーエンドに向けて動き出すかもしれない……。  それは疲れて朦朧とした俺の脳みそから出た、何の保証もない、希望的観測に過ぎなかった。  俺が死んでカラフもインジェンも救う事ができるなら、俺は幾らでも死ぬ。  少なくとも今の俺にはもう、それしか打つ手がなかった。  滑り落ちるようにして、裸のまま床に正座する。  灯火のともる、ぼんやりと薄暗い部屋の中で、俺は両手で短刀の柄を持ち、刃を自分の心臓に向けた。 「……」  大きく一度深呼吸する。  怖くない、怖くない……。  でも、やっぱり怖いから目を閉じた。  自分の激しい心臓の鼓動だけが聞こえる、真っ暗な世界。  息を止めて、一気に自分の胸を突き刺した――筈だった。  確かに肉を刺した感覚があったのに……。  痛みもなく、しかも生きている自分に驚いて目を見開く。  俺の視界に、夥しい血の赤が広がって、声にならない悲鳴が漏れた。  恐怖で後ずさって、そして気付いた。  インジェンが、寝台から上半身を乗りだし、短刀のの刃と俺の胸の間に手のひらを差し出していて――俺は、彼の手の甲の、骨と骨の間を刺していたのだ。 「インジェン……!? 寝ていたんじゃないのか……!?」  真っ青な顔をしたインジェンが、掠れた声で呻く。 「誰も寝てはならぬと、私が命じた。……命じた人間が、眠るわけがない、だろう……」 「手がっ、手が……だ、誰か人を呼んでくる……ッ、医者を連れてこないと……っ」 「呼ぶな。お前は、ここにいろ」  彼は、自分の手の甲に刺さったままの短刀を掴み、ずるりと抜き放った。  だらだらと著しく出血しているその傷を見てしまって、居ても立っても居られない気持ちなのに、何もできない。 「でも、治療を……!」 「腱も骨も無事だ。医者に見せれば、お前が怪しまれる。騒ぐぐらいなら、――二度と、あんなことをするな」  脂汗を浮かべた顔でそう言われて、こく、と頷くことしか出来ない。  布団の布を裂いて、せめて傷を縛っていく。  そうしながら、俺は、自らが死ぬべき夜に、死ねなかったことを痛感した。  インジェンが、俺を救ったのだ。  彼の、愛、としか言えないもので……。 「ごめん……有難う……、……ごめんなさい……」  布を巻き終えた後も床にうずくまり、怪我をしていない方の手に頬擦りして、俺は静かに泣いた。  ……夜明けが近いせいか、外が少しずつ騒がしくなっている。  これが最後のチャンスかもしれない……。  そう思って、俺はインジェンに言いかけた。 「インジェン……。信じてくれなくてもいいけど、俺は……」  けれど、その言葉はまたしても、途中で遮られた。  扉の前に気配がして、宦官の甲高い声が上がる。 「公主様! 起きていらっしゃいますか! ワンズー大臣様がお見えです」  外から激しく扉が叩かれる音がした。 「何事か」 「ワンズー大臣が、奴の父親から名を手に入れたとのことです!」  ――俺の全身から、血の気が引いていく。  じいさん……!?  まさか、都に居なければ、平気だと思っていたのに……っ。  インジェンがガバリと寝台から起き上がり、床に脱ぎ捨てていた内衣を急いで肩から羽織る。  俺は全裸を見られないように寝台にのぼり、カーテンを引いてその間から密かに様子を伺った。  開け放たれた扉の間にインジェンが叫ぶ。 「それは、本当か……!?」  扉を入ってきたのは、いつか井戸の前で出会った、いかめしい顔つきをした大臣だ。 「陛下、ついに成し遂げましたぞ。私の部下の一人が、都はもちろん、近隣の村まで奴の縁故を調べ上げ、奴の父親を捉えて参ったのです」 「なんと……! して、どうやって吐かせたのだ」 「だいぶ耄碌しておりまして、酒など振る舞い、ちょっと機嫌を取ったらば、簡単に息子の名前を吐いたそうです。これで、トゥーランの皇帝の座を七王家の者などに奪われることはありませんぞ。――奴の名は、カラフです!」 「カラ、フ……! そうか、奴の名はカラフか……!!」  扉の外の空にはまだ漆黒が広がり、日が昇る気配はない。  インジェンがその空を見上げ、唐突に笑い出す。 「ははは、はははは……! まだ運命は私に味方している。奴の名が分かったぞ……!」  ――ああ、さっきまでの彼は、確かに、俺の知っているインジェンだったのに。  振り返った彼の顔はまた、ロウ・リンに乗っ取られていた時と同じ、氷のごとく冷酷な人間のそれになっていた。
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