家族になるということ

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 それにしても老けたな、と、喪服姿の義弟を遠目に眺めながら片桐祐一は思う。  かつては、カラスの濡れ羽のように真っ黒だったさらさらの直毛。それが今は、半分ほど色が抜けてしまっている。ロマンスグレー、と近頃は呼ぶのだそうだ。まあ、ごま塩頭よりは幾分マシな響きだろう。  とはいえ、老けて見えることに変わりはない。まだ四十手前だというのに、ひどく老人めいた印象。それは、しかし早すぎる白髪化のせいではなく、疲労と無力感がヤニのように染みついた顔つきのせいもあるかもしれない。  元々の顔立ちは悪くない。むしろ、かなり良い部類だろう。細面の、すっきりとした頬のラインに細くしっかりとした鼻筋。切れ長の眉目と、品よく引き締まった禁欲的な唇。アイドルやホストのような華こそ乏しいが、よく見るとかなりの美男子だ。実際、大学時代は嫌味なほどモテた。  そんな優男も、今や年相応、いやそれ以上に老けた。弛んだ目元の皺。艶と水気を失った肌。こけた頬。・・・いや何を他人事みたいに俺は。そう、祐一は自分を叱る。実の妹が死んだんだぞ。ああして義弟が擦り切れて見えるのは、これまでの一年を妻の看護に費やしたからだ。それも壮絶な。  その義弟は、今もまた、妹の夫としての役割を必死に勤めている。悲しむ親父とおふくろを宥め、精進落としの寿司の残量を気にかけ、ビールが足りなくなれば冷蔵庫に走る。そんな義弟を祐一は、結婚を急かす伯母の苦言をBGMに見守ることしかできない。さっき手伝いを申し出てはみたが、今は動き回っていた方が楽なんです、と、やんわり断られてしまった。  やがて義弟が、祐一の視線に気付いてこちらに近寄ってくる。  妹家族を見守り続けた十五畳のリビング。その同じリビングで、今夜は、多くの親族が妹の早すぎる死を悼んでいる。あるいはソファのあるローテーブルで、あるいはキッチン寄りのダイニングテーブルで。その合間を縫うようにして、義弟は、ゆらゆらと長身を揺らしながらこちらに歩み寄ってくる。これは疲労のせいではなく、単なるヤツの癖。 「足りますかね、お寿司」 「寿司? あ……ああ、足りるんじゃないか?」  ダイニングテーブルに並んだ桶は、いずれも、もうすっかり空になっている。ただ、皆の食事ペースを踏まえるに、追加で出前を取る必要はなさそうだ。 「まぁ食い足りないってんなら、冷蔵庫にあるモンで何か作ってやるよ。こう見えて、独身暮らしは長いからな」  すると義弟は、一瞬、驚いたように目を瞠り、それから詫びるように静かに目を伏せる。しまった、今の言い方では――茶を濁すつもりで祐一はテーブルを立つと、目の前のキッチンカウンターを適当に撫でた。 「いや、改めて見るといいデザインだな。天然木をそのまま使う大胆さ。ほんと、お前らしいよ」  所詮は場を和ますための世話話。とはいえ、いざ口にしてみると、改めてその良さを再認識させられる。  角材に切り出すことなく、最低限の表面加工を施しただけの天然木のキッチンカウンターは、素材の持ち味を活かすことにこだわる建築家、宗谷幸仁の面目躍如といった感がある。優しさと力強さ、古典的な温もりと研ぎ澄まされた先進性の両立。 「これはですね、大黒柱なんですよ」 「・・・大黒柱?」  すると幸仁は、ええ、と嬉しそうに頷く。 「家の中心をなす柱。それは同時に、家族が集う語らいと安らぎの場でもあります。伝統的にそうした役目を担ってきたのは居間、リビングです。が、僕はあえてその中心をキッチンに据えたかった。料理をしながら、あるいは皿を洗いながら、夜食のおつまみを作りながら、バーのマスターと馴染みの店員が語らうような気安さで、それぞれが今日の出来事を語り合う。そんな空間を――って、すみません。急にこんな」 「あ、いや……」  慌てて詫びる幸仁に、祐一も我に返る。いつぶりだろう。幸仁がこんなふうに建築について熱く語ったのは。そして・・・そんな幸仁の熱い語らいに耳を傾けたのは。  そんな感慨も、ふと聞こえた声にあっけなく霧散する。 「パパ」  声の主は、妹夫婦の一人娘である理沙。祐一にとって姪に当たる彼女とは、昔から接点が薄く、葬儀の最中もほとんど言葉を交わすことはなかった。声も顔立ちも、美人だった母親の理恵によく似ている。  肩の高さで切り揃えた艶やかなセミロング。クラシックな冬物のセーラー服は、彼女が通う学校の制服だろう。名前は忘れたが、そこそこ有名な私立中学に合格したと、以前、電話で理恵が誇らしげに自慢していたのを覚えている。年齢は確か、十四だったか。 「おじいちゃんたち、そろそろ帰るって」 「そ、そうか」  慌てて娘に向き直ると、幸仁は小走りでリビングを出て行く。その背中に、一緒に暇を告げるつもりで祐一も続く。リビングを出ると、そこはもう玄関ホールだ。見ると、ちょうど親父とおふくろが靴べらで靴のかかとを整えているところだった。 「俺も帰るよ」 「先輩も……ですか」 「祐一、あんた理恵に線香はあげてきたの?」  おふくろの指摘に、そういえば、と慌ててリビングに引き返す。リビングのサイドボードには、近頃の主流だという小さな仏壇が置かれていて、そこに白木の箱と真新しい位牌、そして、やはり真新しい遺影とが並んでいる。  写真立ての中で微笑む妹はまだ若い。三十九歳だった。癌が発覚したのは、そのわずか一年前。最近風邪っぽいと何となしに検査を受けたところ、膵臓に癌が見つかった。当初はそれでも、手術と抗癌剤で治療は可能だと見られていた。ところが手術の後も回復の兆しはなく、改めて検査したところ、他の臓器への転移が確認された。  医者の話では、相当にたちの悪い進行性の癌だったらしい。抗癌剤も投与されたが、それでもなお癌の進行を止めるには至らず、短くも過酷な闘病の末、妹は早々と旅立ってしまった。  位牌の前にはこれまた真新しい線香立て。位牌もそうだが見るからに抹香臭いデザインは、今風のこざっぱりとしたリビングではひどく浮いて見える。  それでも、いずれは景色に馴染む日も来るのだろうか。  幸仁との関係がそうであったように。  線香をあげると、急ぎ玄関に戻る。妹一家の家は個人宅ながらも四階建ての鉄筋コンクリート造りで、一階が理恵の美容室、二階が義弟の設計事務所、三、四階が自宅として使用されている。一階に降りるには三階の表玄関を出て階段で降りるか、ホームエレベーターで一階に降りて裏玄関から出る必要がある。  その、階段の方を使って両親はすでに一階に降りていた。シャッターを下ろした美容室の前で、孫と義理の息子に別れを告げている。傍らには、後部ドアを開いたまま客の乗車を待つタクシー。最寄りの駒込駅に向かうのか、あるいはこのまま荻窪の自宅に帰るのだろう。  やがて二人はタクシーに乗り込むと、窓越しに手を振りながら去っていった。 「じゃ、俺もそろそろ」  路地の向こうにタクシーのテールランプが消えたところで、そう祐一は切り出す。首筋を北風がさっと撫で、慌ててウールコートの襟を立てた。 「え、ええ。初七日にはいらっしゃるんですか」 「そりゃな」  すると幸仁は、喪服の懐から封筒を取り出すと、「これを」、と祐一に差し出してくる。見ると、それは一通の便箋だった。封筒の隅に愛らしいキャラクターがプリントされたこれは、どう見てもコイツの趣味じゃない。 「理恵からです」 「……理恵から」  そうだろうなという気はしていたが、改めてそうと告げられると、やはり、後ろめたさを抱かずにはいられない。本来なら、妹が病床で綴ったであろう手紙にそんな感情は必要ない。むしろ兄として、万感の思いをもって受け取るべきだろう。ただ…… 「・・・ありがとう。うちに帰ってゆっくり目を通すよ」  受け取り、そのまま懐に押し込む。自分がこの中身に目を通すことは一生ないだろう。そう、密かに確信しながら。 「じゃあね理沙ちゃん。あまり無理はしないでね」  すると、幸仁の隣に立つ理沙は、強張った顔で「はい」と頷く。海外勤務の長かった祐一は、この、妹によく似た姪っ子と、それこそ数える程しか顔を合わせたことがない。ましてや中学生といえば、人生で最も多感な時期だ。見慣れない大人、それもオッサンに身構えるのは無理もないだろう。 「先輩」 「ん?」 「約束……守れなくて、申し訳ありませんでした」  そして幸仁は、深々と頭を下げる。約束、と口の中で復唱し、そういえば確かにそんなものを交わしていたなとほろ苦く噛み締めながら、いいや、と祐一はかぶりを振る。 「お前はよくやってくれた。少なくとも、人事は尽くしてくれたよ」  だが、生真面目な義弟は畏まったまま陰鬱な表情を解かない。ただでさえ気難しい顔立ちの幸仁にこんな顔をされると、それこそ世界の終わりでも告げられた気分になる。  背負わせてしまったのは俺なのに。 「本当だよ、お前には・・・心から感謝してる」  まだ何か言い足りなさそうな顔をする義弟に、そう宥めるように告げると、今度こそ祐一は駅へと歩き出した。  五十メートルほど歩いた後で足を止め、妹夫婦の家を振り返る。夜の商店街に埋もれるように建つ、四階建てのこぢんまりとした自宅兼ビルは、アイツの設計にしては凡庸さが目立つ。そのデザインに、昔から祐一は妙な既視感を覚えていた。  どこで見たんだっけな。  そんなことを思いながら、再び駅へと歩き出す。スマホを取ろうと懐に突っ込んだ手が尖った紙の質感を捉え、それが迫る罪の意識に、ビルへの既視感はすぐにどうでもよくなった。  婚約者に会ってほしいの。  電話越しにそう妹に告げられたのは、ちょうど祐一が会社の命令でマレーシアに赴任している最中だった。折しも本社から一時帰国を命じられていた祐一は、そのついで、というかたちでOKを出した。  正直、気は進まなかった。別に妹を疎んじていたわけではない。ただ、幼少期から華やかな風貌で常に人の輪の中心にいた理恵は、地味な祐一には妹ながら別の生き物に見えた。街で見かけるたびに派手な男を連れ歩いていて、呼び止められないようこっそり避けて歩いたものだ。  今回もどうせ、あの頃みたいに派手な男をお披露目するつもりだろう。そんな男の目に、理恵とは似ても似つかない地味で陰気な兄の姿を晒したくない。それでもOKを出した以上は行くしかないわけだが、当日の居た堪れなさを思うと、雨期のクアラルンプールで纏わりつく湿気に耐えていた方がまだマシだと思えるほどだった。  ともあれ帰国した祐一は、本社での用事を済ませると、待ち合わせ場所である銀座の老舗フレンチに足を向けた。  妹はすでにテーブルで祐一を待ちわびていた。真っ赤に染めたストレートのロングヘアは、はっきり言って店のトラディショナルな雰囲気からは浮いている。パンキッシュな黒のジャケットやスカートも。ただ、そんな違和感をものともしない〝スタイル〟への自負心が、むしろ空気を支配し、それもありだと逆に思わせてしまう。相変わらずだな、と、実家に帰ったような安心感を祐一は抱く。昔からそうだった。ただそこに立つだけで場を支配してしまう強烈な存在感。  そんな妹の隣には、件の婚約者と思しき男性。  その、いずれ義弟となるはずの男を目にした祐一は、一瞬、目を疑った。 「お久しぶりです、先輩」 「……幸仁?」  男の隣で、理恵が悪戯っぽく笑うのが見えた。どうやら理恵は、自分の婚約者が兄の知り合いだと事前に知っていたようだ。ただ、その笑みに余計な屈託は伺えない。  ということは。  あの件については何も聞かされていない。おそらくは。 「やっぱり覚えてたんだ、幸仁さんのこと」  そう無邪気に笑う理恵に、祐一は「あ、ああ」とぎこちなく頷く。すると妹の隣に座る後輩は、やんわりと口の端を引いた。その既製品めいた笑みに、こんな笑い方も出来るようになったんだなと、妙なところで祐一は感心した。考えてみれば当たり前の話だ。もし学部卒なら、社会人としてはそろそろ三年目。出会った当初は才能を恃んで孤高を貫いていたこいつにとっても、ある程度の社会性を身に着けるには十分な時間だったろう。  程よく身体に馴染んだスーツ。後頭部に流した髪も固め過ぎず、かといって不潔でない程度に柔らかくまとめられている。何より、表情から漲る自信は失敗も成功も含めて重ねた人間のそれだ。その自信が、元々の見目の良さをさらに引き立てている。すらりとした長身。ほっそりと品のある面立ち。すっきりとした鼻梁に、清涼感のある切れ長の眉目。  ああ、腹が立つ。  奴にではない。あの頃と同じように、相も変わらず見惚れてしまう自分に。 「先輩とは、サークルの追いコン以来でしたっけ」 「……多分、な」  正確には、違う。が、その違いをまさか婚約者の前で正すわけにもいかない祐一は、曖昧な笑みでそう答えた。  並んで座る二人を向かいにテーブルに着く。すぐに食前酒が、続いてオードブルが待ち構えていたように運ばれてくる。それを、やはり何食わぬ顔で口に運びながら、祐一は向かいに座る男の真意をどうにかして探ろうと努めた。  宗谷幸仁は、大学のニ年下の後輩だ。  大学では二年も学年が違うと、同じサークルに属するでもない限り接点を持つことは極めて少ない。現に宗谷と初めて言葉を交わしたのも、彼が入学して半年も過ぎた頃だった。  その出会いは、今にして思えばただの偶然だった。  その頃、祐一は都内某大学の建築学科で学んでいた。当時すでに三年に進級していた祐一は、都市プランニングを専門とする教授のゼミで卒論作成に向けた資料集めに勤しんでいた。そんな祐一に、一年生ながら早くもゼミの様子を尋ねに来たのが宗谷だった。  実のところ、彼が入学した当初から宗谷の存在は認識していた。新歓コンパの自己紹介で「自分の仕事を地図に残したい」と大言壮語したイキの良い新入り。ところがその後、難しい専門書を収めた学科の書架で頻繁に彼を見かけ、その突き抜けた目的意識がただのハリボテではなかったことに密かに感心していた。  その宗谷が、ウチのゼミを検討している。嬉しかったが、同時に焼けつくような苛立ちも胸の内に生まれた。  ――都市のプランニングは、ただ自分の仕事を地図に残したいだけの人間が担っていい仕事じゃない。  名も知らない誰かの幸せを、心から願うことのできる人間でなければ大多数の人が暮らす都市のプランニングは務まらない。思えば、あの頃の祐一もまだ青かった。社会で多少は揉まれた今なら、むしろ結果に結びつくのであればどんな身勝手な願望も許せてしまうだろう。結果、つまりクライアントの満足度やら集客率、話題性――でも当時はそうじゃなかった。そうじゃなかったから結局、一人の優秀な学生を都市プランナーへの道から追い払ってしまった。  とはいえ、宗谷が自ら考えて下した結論なら、今更、祐一から言うべきことは何もない。謝罪すらも。今日こうして宗谷と再会して抱く後ろめたさは、だから、全く別の要因によるものだ。 「でね、将来は幸仁さんとお店を持とうって決めてるんだ。あ、私は美容室、幸仁くんは設計事務所ね。一緒に店舗を借りて、こう、真ん中で仕切って使うの」  そう、無邪気に将来を語る妹はどこまでも楽しげで、そういえばこいつ、子供の頃から自分の店を持つのが夢だったんだよなぁと微笑ましくなる。もっとも、すでに専門学校を出て原宿の美容室で働く今の理恵にしてみれば、それは単なる夢ではなく現実的な目標なのだろう。  凄いな、と、兄ながら素直に感心する。都市プランナーを夢見て大手開発業者に入社したものの、希望とはまるで違う部署に放り込まれ、日々の業務に忙殺される自分とは大違いだ。  ただ。  そうした感動とは別に、彼女への後ろめたさが募るのも事実で・・・いや、何もかも終わった話だ。あの頃の出来事は、今の彼女には何の関係もない。宗谷も、今は幸せそうに隣の理恵を見守っているじゃないか。これでいい。このままでいい。  この奇妙な巡り合わせも、どうせただの偶然だ。そうに違いない。  そうでなければ困る。 「・・・にしてもまあ、お前にしちゃいい男を見つけたじゃないか。てっきり売れないバンドマンあたりとデキ婚でもするんじゃないかと心配してたんだけど」 「ひどっ! あのねえ、私もう二十二だよ? 高校生ならともかく・・・ねえ?」  同意を求められた宗谷は、曖昧に「あはは」と笑う。当たり障りのない社交辞令じみた笑みに、今度は何故か感心ではなく苛立ちが募る。お前は、本当はそんなふうに笑う男じゃないだろう。 「でも確かに、幸仁さんってば私には勿体ない人かも。有名な建築事務所? に勤めてて将来も有望で。おまけにめっちゃくちゃイケメン! 初めてこの人がお店に来たとき、私、うわ芸能人! ってマジで勘違いしたもん。仕事柄、リアルな芸能人となら何度も会ってるのにさ、この人だけがなんかこう、オーラっていうの? すんごいキラキラしてた!」 「一目惚れってやつか」 「一目惚れ! そうかも、それ!」  ははっ、と祐一は笑う。その声がひどく乾いていることに自分で気付いている。やっぱり血の繋がった兄妹なんだな、俺らは。 「そしたらさ、まさか幸仁さんの方からデートに誘ってくれて。もうびっくりし過ぎてその場でOK出しちゃった」 「へぇ・・・」  さりげなく宗谷を伺うと、相変わらずにこにこと妹を見つめている。本当は、俺の妹と知っていて声をかけたんじゃないのか――そんな忌むべき問いを呑み込むのに手一杯で、旨いはずの子牛のローストが、まるでゴムでも噛んでいるかのようだ。  そんな祐一の疑問をよそに、宗谷は自分の前に置かれたデザートをさりげなく理恵に押しやる。甘いものに目のない理恵はそれを嬉しそうに受け取ると、礼を言っていそいそと口につけた。きっと、普段からこうして好物を譲ったり譲られたりしているんだろう。そんな想像が馴染む慣れた雰囲気。  ああ、終わったんだな、今度こそ。  食後のコーヒーを啜りながら、そう、祐一は自分に言い聞かせる。いや何を今更。宗谷にしても余計な邪推は迷惑だろう。そもそも・・・俺の方から突き放しておいて。 「でね、お兄ちゃん。お兄ちゃんに、どうしてもお願いしたいことがあるんだけど・・・結婚式でね、作ってほしいものがあるの」  その後、すぐに祐一はマレーシアへ戻る。次に帰国したのは半年後。理恵の結婚式の前日だった。  久しぶりに先輩と二人で呑みたい。  帰国直後、そう理恵を通じて宗谷に呼び出された祐一は、荷ほどきもそこそこに待ち合わせの店へと向かった。宗谷は、すでにテーブルで祐一を待っていた。庶民的な町という印象が強い神田にしては小洒落たイタリアンバルで、すでに二杯ほど空のグラスを並べた宗谷は、普段の紙のように白い顔を珍しく紅く染め、未来の義兄に雑な手招きをした。 「急にすみませんね。忙しいのにお呼び立てしてしまって」 「いやいや、それを言えばお前の方こそ大丈夫か? 明日は結婚式だろ」  すると宗谷は、ええ、まぁ、と気乗りのしない顔で頷く。つまみらしいつまみといえば、チーズと生ハムの盛り合わせが一皿きり。これじゃ酒が回って仕方ないだろうと、さしあたり腹が膨れそうなピザとパスタ、それから炭酸水を注文する。もちろん自分用にビールは忘れない。  さっそく運ばれたビールを呷りながら、祐一はネクタイを緩める。それにしても蒸し暑い。もう九月だというのにこの暑さは異常だ。乾季の今なら、むしろマレーシアの方が過ごしやすいぐらいだ。これも地球温暖化の影響ってやつかね。そう、取り留めもなく考えながらごくごくとジョッキを呷っていると、ふと喉元に視線を感じて祐一はぎくりとなる。  慌ててジョッキを置き、横目でそっと宗谷を窺う。・・・いや、何もかも終わった話じゃないか。なのに、未だにこんな自意識を持て余して俺は。そんな自虐はしかし、突き刺すような宗谷の視線に触れた瞬間、深い困惑へと切り変わる。  何なんだ、その目は。  まるで・・・あの頃のお前みたいな。 「あ、ああ・・・そういや乾杯を忘れてたな」  素知らぬふりを装い、宗谷にジョッキを向ける。宗谷は呑みかけのグラスを手に取ると、渋々という顔で乾杯に応じた。 「ははっ・・・何だよ、その顔」 「これは、僕らの結婚を祝っての?」 「あ・・・当たり前だろ? 他にどんな理由があるってんだよ」  すると宗谷は、何故か皮肉っぽく苦笑する。前回の顔合わせではついぞ目にしなかった――あの頃は毎日のように見かけた冷笑。孤高気取りで、そのくせ寂しがり屋なひねくれ者。  ああ、懐かしい。  そんな感慨も、しかし、纏わりつくような恐怖にゆっくりと押し流されてゆく。何か取り返しのつかない失敗を犯してしまった・・・そんな予感。 「先輩」  手の甲に体温を感じて、見ると、一回りは大きい宗谷の手が、テーブルに置かれた祐一の手に重なっていた。  その手が、何かを言いたげに手の甲を撫でる。 「偶然じゃないんです。全ては、あなたともう一度出会うためだった」 「……」  ああ。気付いていた。本当は。  この店に入って、宗谷のらしくない酔い方を目にした時から、うっすらと、こうなる予感を抱いていた。それを、ただの勘違いだと否定したのは、そんな己の浅ましい自意識を認めたくなかったから――要するに。  期待していた? 今の言葉を? 「ば・・・馬鹿も休み休み言え!」  忌まわしい可能性ごと振り払うように、そう祐一は吐き捨てる。 「そもそも・・・終わった話だろうが」  ところが宗谷は、握りしめた祐一の手を離すそぶりも見せない。 「あなたはそのつもりだったんでしょう。でも、僕の中では何一つ終わっちゃいなかったんですよ。・・・続いてるんです、今も」  そして今度は、するりと指を搦めてくる。あの頃と同じ熱を帯びた、でも決定的に違う眼差し。これは……そう、怒りだ。裏切られ、深く傷つけられた人間が密かに燃やす、暗く、つめたい炎。  わかっている。こいつに傷を負わせたのは俺だ。それでも―― 「いい加減にしろ!」  重なる宗谷の手を力づくで振り払う。  それでも、こいつの願いだけは受け入れるわけには。 「お前は、理恵の婚約者だろうが!」  そうとも。過去はどうあれ、今のお前は理恵の婚約者だ。大切な妹の。この手は、そんな彼女への裏切り。幸せな結婚を信じて疑わない妹への、あまりにも手酷い裏切りだ。  なのに幸仁は、それがどうしたと言わんばかりにすげなく答える。 「ええ、そうですよ」  折しもテーブルにピザが運ばれてくる。一瞬、店員の迷惑そうな目が視界を掠め、そういえばと振り返ると、同じような視線がいくつも祐一の背中を刺している。確かに、酒場で大声で言い争う酔っ払いがいれば、誰しもそんな目を向けたくなるだろう。  そんな祐一の居た堪れなさを見抜いたように、宗谷は――幸仁は囁く。 「場所を移しましょう。あなたも、人目のある場所でこんな話はしたくないでしょう」  店を出た二人が次に入ったのは、駅前のビジネスホテルだった。祐一も出張で頻繁に世話になる全国チェーンの安宿は、人に聞かせられない話をするには確かにもってこいの場所ではある。  でも、と、煙草臭いエレベーターで隣に立つ男を窺いながら祐一は思う。  きっと俺達は、今夜、ただ話をするだけじゃ済まない。  人けのない内廊下を進み、この手の宿ではお馴染みの、長いアクリルキーホルダーがついた鍵でドアを開く。十畳ほどの洋室には、申し訳程度のテーブルセットと作業机、それから、まっさらなシーツを敷いたシングルベッドが二つ。男二人でダブルの部屋なんか取れるか、ツインにしろとフロントで主張した祐一だったが、こうして二つ並んだベッドを目にした瞬間、要するに、ホテルに部屋を取った時点で負けだったのだと観念する。  そんな祐一の欲望を見透かしたかのように、背後から強い腕が抱きすくめる。 「・・・やめてくれ」 「どうして。ここまでついてきたってことは、そういうことじゃないんですか」 「ち、違う。俺はただ、こういう場所の方が話がしやすいから――」 「嘘」  そう、嘘だ。  わかっていた。期待していた。でも祐一は卑怯な人間で、己の欲望が負うべき責任をつい他人に肩代わりさせてしまう。相手に求めさせて、自分はそれを仕方がないという体で受け入れるだけ。そうして都合が悪くなれば――相手の存在が重くなれば、たとえ相手に非がなくとも突き放す。  思えば、あの時もそうだった。  間もなく卒業を控えた大学四年の冬、祐一は、同じゼミの女子が幸仁に想いを寄せていることを知った。  ふと、祐一は怖くなった。彼女だけじゃない、俺は、幸仁の幸せな未来をも奪っているんじゃないか。本来、女性に不足しないあいつなら、望みさえすれば人並みの幸せがいくらでも手に入る。そのチャンスを、俺は奪っているんじゃないか。  実のところ当時、祐一は、すでに一年近くも幸仁と関係していた。  ゼミに関するつれない返答にもかかわらず、その後、なぜか幸仁は祐一によく懐いた。いつしかそれは、そういう関係に発展して――ああそうだ、あの時も、なし崩しにことが進んだのだ。大学三年の寒い冬、幸仁の住む古アパートで一緒に鍋をつつきながら、気付くと祐一は、幸仁に求められるまま身体を重ねていた。祐一は、何の決断も下す必要がなかった。拒まれるリスクを負う必要さえも。  そうして全てをなし崩しに受け入れて、それが今更のように怖くなった。俺達は、いや俺は本当にこのままでいいのか。このまま幸仁の、あるいは、本来彼と結ばれるはずだった女性の幸せを踏み躙ってもいいのか。  いいわけがない。  だから告げた。卒業式の後に立ち寄った幸仁のアパートで、それが最期のつもりで熱を受け入れながら、祐一は告げた。  ――もう、終わりにしよう。 「あなたに別れを告げられたとき」  あの時と同じように祐一を押し倒し、縫い留めるようにベッドに四肢をつきながら、そう、幸仁は呻く。 「この世から、全ての光が消えた気がしました。あの時、僕は無言であなたを見送った。何も言えなかった。ショックで言葉そのものを忘れていたんです。わかりますか。いい歳した大学生が、生まれたての赤ん坊みたいに・・・」  そういえば。  別れを告げたあの時、こいつは何の返事もよこさなかった。それを祐一は、勝手にYESだと受け止め、彼のもとを去った。所詮は風見鶏の祐一は、何でも都合よく解釈して、そんな自分にすらも流されてしまう。でも――  本当は、気付いていた。  幸仁は、何一つ納得などしていなかったのだと。 「あれからずっと、僕は、独りで闇の中を彷徨っている。今もです。今もずっと」  理恵は、その光とやらになれなかったのか。  そんな問いはしかし、すぐに無駄だとわかった。暗く沈んだ幸仁の眼差し。ああ、本当にお前は闇の中にいるんだな、今も。 「・・・お前には、もっとふさわしい場所があるんだと思った。俺なんかよりずっと」 「それが、僕が苦しまなくてはならなかった理由ですか」 「苦しめるつもりは、なかった・・・幸せを願ってた。本当だ。だって俺は、男で、同性で、」 「だから何です。男だろうと何だろうと、僕には、あなたしかいなかった」  不意に唇を寄せられ、シーツの上で顔をそむける。そんな祐一の強張る頬を、幸仁は、意図を含んだ手のひらでそっと触れる。どこまでも優しい手つき。なのに胸は、針で貫かれたように痛い。 「好きだと、言ってください」 「・・・言えるわけがないだろ」 「じゃあ全部ばらしますよ! 何なら式の途中で、本当はあなたに再会するためだけに妹さんを利用したんだと皆の前で打ち明けます!」 「そんな――」  思わず振り返る。言葉そのものの残酷な意図はもちろんだが何より、そんな残酷なことを口にする幸仁に愕然としていた。傍目にはいびつに見えても、実際、中身はどこまでも善良で美しかったこいつが、そんな。  でも、その目はどこまでも真剣で。  改めて祐一は、自分が壊してしまったものの大きさを知る。それでも―― 「・・・恨むなら、俺一人を恨んでくれ」  それでも兄として、妹の心だけは守らなくてはならない。自分の弱さが招いた不始末で、結婚まで望んだ彼女の幸仁に対する想いを穢すわけにはいかないのだ。 「できるわけないでしょ、そんなこと。そして・・・あなたはそれを承知の上で、そんな残酷なことを僕に求めるんだ。・・・卑怯ですよ、ほんと」  その通りだ、と祐一は思う。結局、この期に及んでまだこいつの優しさに甘えている。 「言ってくださいよ。もう一度、あと一度でいい、あなたに好きだと言ってもらう、ただそれだけのために、僕は、こんな馬鹿を仕出かしたんです。せめて・・・報いてくださいよ。嘘でもいい。だから」  口にできるわけないだろ、そんな嘘。  痛いほど下唇を噛み締め、目の前の双眸を睨めつける。それを拒絶と捉えたらしい幸仁は、一瞬、迷子の子供じみた所在ない顔をする。立場も手札も、祐一よりずっと有利に違いないのに――そういう男なのだ、昔から。  そんな憐れな男に手を伸ばし、そっと頬を撫でる。緊張と、そして、おそらくは悲しみに強張った頬は冷たくて、悲しい。  それでも。  言えるわけがないのだ、そんな嘘は。 「・・・好きだ」  不意を衝かれたせいだろう、幸仁の頬が弛緩する。が、それも一瞬のことで、すぐに冷えて固まってゆく。怒りと悲しみに揺れていた瞳が、ふ、と感情を手放すのがはっきりとわかった。 「ありがとうございます、先輩」  紋切型の感謝を述べる口とは裏腹に、闇よりもなお昏い瞳が彼の本心を告げている。嘘なんですよね、わかっています――その、哀しい誤解を正すことすら、この時の祐一には許されていなかった。  それから二人は、予定どおり、身体を重ねた。  それはしかし、ほとんどやけくそじみた交わりだった。それぞれが相手に失望するためだけの――想いを断ち切るためのセックスは、荒々しいばかりで気遣いも、慈悲も、ぬくもりすら持たなかった。  それでも、今の二人には必要な儀式で、ようやく一息ついた頃には、早くも窓越しの空が白み始めていた。  始まる。こいつが、理恵とともに旅立つ一日が。 「ものを頼める立場じゃないことは、わかってる」  どろどろの身体をベッドに投げ出し、隣に寝そべる幸仁に声を投げる。その声は、一晩続いた情事ですっかり枯れきっていた。 「理恵だけは・・・妹だけは、傷つけないでくれ。無理に愛せとは言わない。ただ、愛するふりだけは貫いてくれ。・・・幸せに、してやってくれ」  わかっている。それが、どれだけ身勝手な願いであるかを。  それでも、こんな無責任で卑怯な兄を慕い、頼ってくれる可愛い妹なのだ。ウェディングボード作りを頼まれたときは、正直、どうすりゃいいんだと途方に暮れた。が、彼女の喜ぶ顔を想像しながら手探りでする作業は、それなりに、いや、とても楽しかった。  傷つけたくない。たとえ、嘘で偽るとしても。 「先輩が、そう願うのなら」  そして幸仁はのろり身を起こすと、祐一に覆いかぶさるように口づけを求めてきた。これが最期のキスになる。そう予感しながら、祐一はその悲しい唇を静かに受け入れた。  その日。  祐一は風邪を装い、妹の結婚式を欠席した。出られるわけがなかった。これから彼女の夫となる男の熱が残る身体で。 「片桐課長は、なさらないんですか」  酒で赤らんだ顔を寄せながら、隣に座る部下の水野が不躾に問うてくる。「何をだ」と問い返すと、「いえ、だから結婚ですよ」と、これまた不躾な答えが返ってきた。  そういえば、テーブルではもう長いこと結婚の話が盛り上がっていて、どのみち自分には縁のない話だと適当に聞き流すうち、つい、意識が逸れてしまったらしい。  国内有数の建設大手、四井建設は、小規模なものも含めると国内外で常に百を超えるプロジェクトを抱えている。それらのプロジェクトには大抵複数の部署が絡むが、中でも祐一が属するのは地質調査部。その名の通り、主に地盤や地質の調査を担う部署だ。  専門性が高く、そのせいか人員も少数精鋭で、全員が家族のような連帯感で結ばれている。おかげで社員の誰かが結婚したり、支店や海外に赴任する時にはこうして皆で集まり、酒を飲むのが倣いになっている。いわゆる飲みにケーションが敬遠される昨今では珍しい風潮だろう。自主参加の形を取りながらも参加率は高く、不満の声も今のところは聞こえない。  この日も、結婚が決まった社員のために皆で近所の居酒屋に集まっていて、だからつい、こんな問いが出たのだろう。 「まぁ、無理にするようなものでもないしな」  何だか妙な空気になってしまったので、祐一は早々に暇を告げる。どのみち今日は金だけ置いてさっさと帰るつもりだった。自分のようなロートルが、いつまでも場に居座っていたところで邪魔なだけだ。 「ロートル……ねぇ」  自分で思いついた喩えに自分でショックを受けながら、祐一は店を出る。  どうも近頃、若くはない自分を意識することが増えた。四十二歳。青年の純粋さはとうに失い、さりとて老獪と呼ばれるほど苦楽を噛み分けたわけでもない。まさに中年と呼ばれる齢。身体のあちこちに不調が出始める以外は、これという楽しみもない中途半端な年頃。……いや、本来なら、この年代ならではの人生の味わい方もあったのだろう。背伸びして買った新居での新しい暮らし。家族との団欒。日々すくすく成長する子供たちを思えば、年を追うごとに増える責任すら愛おしく感じたのかもしれない。  でも。  そんな人並みの幸せを求める権利は、祐一には、ない。 「課長!」  背後から呼び止める声に振り返る。見ると、なぜか必死な顔をした水野が、同じだけ必死な速度でこちらに駆け寄っていた。  まさか、さっきの非礼をわざわざ謝りに来たのか?  だとしたら無駄に気を遣わせて申し訳ないと思う。どのみち、あんな言葉で傷つく権利もないのだ。 「どうした。まだお開きって時間じゃないだろ」  すると水野は、弾んだ息を肩で軽く整えながら、ひどくばつが悪そうに微笑む。 「僕も今日は疲れちゃいまして。早く帰って休もうかなって」 「何が疲れた、だ。若いくせに」  水野はまだ二十代の半ば。逞しい体躯に見合ったタフさが取り柄だ。もっとも、その立派な体躯はスポーツではなく、大学で地質学に打ち込むうちに培われたものだ。地質調査は体力との勝負でもある。山を渉猟し、標本採集で岩を砕く。その地味な作業の繰り返し。それは国内でも海外でも変わらない。 「体調でも悪いのか」 「そういうわけでは……あの、駅までご一緒しても?」 「別に、それは構わないが……」  とりあえず駅へと歩き出す。すると水野は、嬉しそうに祐一についてくる。まるででっかい大型犬だ。それを言えば、男にしてはやや小柄な祐一からすると、大概の人懐っこい同性は大型犬に見える。 「ずっとお聞きしたかったんですけど、片桐課長って確か建築がご専門ですよね。なぜ地質調査部に?」 「えっ? ああ・・・たまたまだよ。当時の上司が、お前はマネジメントを学べって今の部署に押し込んだんだ」 「へぇ、見る目あったんですねその人」 「見る目? ははっ・・・どうだろうな」  そこは多分、水野が思うほど良い話じゃない。  入社直後に祐一が配属された企画部は、主に都市再開発の企画立案を担う部署で、都市プランナーを目指す祐一にとってはキャリア構築に理想のスタート地点だった。  ところが一年後、祐一はその理想の職場から外されてしまう。  上司に盾突いて睨まれた、なんてわかりやすいドラマがあればまだ救われた。でも、現実はもっと凡庸で、そして残酷だった。祐一が外されたのは、要はただの力量不足。自分の上位互換なんて探せばいくらでもいるというが、祐一の部署はまさにその巣窟だった。資料集めの嗅覚、読み込むスピードと深さ、アイディアの新規性。その全ての面において祐一はチームの一員たりえなかった。別部署でジェネラリストとして仕切り直せという命令は、むしろ上司なりの温情だったのだろう。  こうして祐一は、今の地質調査部にチームリーダーとして配属された。  全く畑違いの世界。同僚はみな大学院で地質学を修めたスペシャリスト――と言えば聞こえはいいが要するにオタク達で、正直、人間としては御しづらい。それでも、新たに与えられた仕事は不思議と楽しかった。業務の采配と人員のマネジメント。人付き合いは苦手なはずなのに、人間相手の仕事が意外と苦ではないことも、仕事を通じて得た気づきだった。  今、部下たちが家族のような連帯感で結ばれているのは、正直、自分のおかげだと祐一は自負している。実際、努力したのだ。彼らのためにマネジメントを一から学び、休日を割いて講演やセミナーに足を運んだ。近年やかましいセクハラやパワハラの概念にもチェックに余念がない。我ながら、よくやっていると思う。  それでも、企画部を出ろと言われたときの屈辱は、今でも昨日のことのように思い出す。そして・・・あの時も結局、祐一は一言の反論もなく辞令に従ったのだ。ぐだぐだと流されながら、反感や恨みだけはきっちり溜め込んで、でも結局、それを爆発させる度胸もない。  こんなふうに、最後までだらしなく生きて死ぬんだろう。  欲しいものに一度も手を伸ばせないまま、きっと。 「でも、その人のおかげで俺、片桐課長と一緒に仕事ができてるわけですし」 「俺が来なくても、もっとデキる奴が来てたさ」 「片桐課長じゃなきゃ、俺、絶対にここで続けてないです」  ――僕には、あなたしかいなかった。 「・・・気持ち悪いこと言うなよ」  ふと、気まずい沈黙が二人を包む。この手の街につきものの呼び込みの掛け声や、電器店から漏れる音楽、人々の地鳴りに似た足音――そうした都市の雑音がなければ、耐えきれずに駆け出していたかもしれない。  その、沈黙の原因である水野は、なぜか前方を睨んだままじっと口を噤んでいる。ただ、その横顔はひどく物言いたげで、さては内々で伝えたいことでもあるのかと祐一は身構える。仕事の差配に不満があるとか、あるいは、他部署への異動を訴えたいだとか・・・  そんな祐一にも、次の水野の一言は完全に想定外だった。 「やっぱり、気持ち悪いですか」 「は?」 「いえ、ですから・・・ああもう、この際なのではっきり言いますね」  そして水野は足を止めると、身体ごと祐一に向き直る。 「好きなんです、片桐課長が、恋愛対象として」 「・・・」  祐一は、答えなかった。答えられなかったのでは、ない。混乱するふうを装いながら、その実、この場をいかに丸く収めるかを冷静に探っていたのだ。そういうこともできる齢になったんだな、と、祐一は冷ややかに思った。 「……さっきは、結婚なんて無理にするもんじゃないと強がったが、実をいうと昔、恋愛絡みでひどく失敗しているんだ」 「えっ?」  突然何の話だと言いたげな顔をする水野に、祐一はさらに続ける。 「そいつは……俺を心から想ってくれていた。俺も、悪い気はしなかった。そいつは、俺なんかよりずっと魅力的で、才能にも溢れていて、そんな奴に好かれるのは、正直、とてもいい気分だった。・・・でも結局、最後は突き放してしまった。怖くなったんだ。これだけ魅力的な人間が、俺なんかとくっついていいのかって。本当は、俺なんかよりずっと素晴らしい相手が、未来でこいつと結ばれるのを待ってるんじゃないかって。俺は、その出会いを邪魔しているんじゃないかって……」 「それは」 「ひどいと思うだろう。俺もひどいことをしたと思う」  色を失う清水の言葉を先回りするように呟く。こういうところも卑怯なんだよな、と、祐一は内心で嗤う。 「まぁ要するに、面倒になったんだよ。あいつを失う恐怖だとか、あいつのせいで抱かされる劣等感が。んで結局、安易な道を取っちまった。多分・・・何のリスクも負わなかったせいだな。だから安易に手放せてしまったんだ。手に入れた時と同じように」  結果、幸仁に癒えない傷を負わせてしまった。 「そういう人間だから、今度もきっと、俺は安易にお前を捨てるだろう。もちろん、リスクを承知で想いを告げたお前の勇気には敬意を表するよ。でもそれは、お前を大事に想う理由にはならない。保証はできないよ。こういう人間だからね、俺は」  事実上の拒絶に、水野は捨てられた子犬のような顔をする。  その悲しい表情を、祐一は羨望の目で眺める。まるで、遠くに輝く星を見上げる気分だった。自分は、これほど熱烈に何かを欲したことはない。夢も愛も、確かに求めはした。でも、手に入らないことがわかっても、それで身が千切れるほどの悲しみを抱いたことはない。  仕方がなかったのだ。  人としての魅力もそれに能力も、自分のそれは、望む舞台に立つにはあまりにも乏しかった。だから。 「構いません、ひとときでもいい、課長に寄り添えるのなら」 「は?」 「バレていないとでも? 周りが結婚だの子供の話だのでノロケてる時、課長、いつも寂しそうな顔で聞いてるんですよ。……ほっとけるわけ、ないですよ。だったら一瞬でもいい、あなたに寄り添って、その寂しさを癒したい」 「同情ならよしてくれ」  駅に向き直り、清水の視線を振り切るように歩き出す。 「俺の人生が、お前の目にどう映ってるのかは知らない。けどな、少なくとも他人に憐れまれるほど惨めなものじゃないはずだ」  嘘つけ。  自嘲の言葉が喉元までせぐり上げて、それを祐一はぎゅっと胃の底に押し込む。わかっている。本当はどうしよもなく惨めで情けなくて、生きているのも嫌になるほどだ。どうして俺みたいな人間が生きているのか。何のために。誰のために。  いっそ、理恵の代わりに俺が死ねばよかった。 「寂しいってのは図星だよ。でもな、この齢になると、そのぬるま湯みたいな寂しさがむしろ心地良くなるもんだ。と言っても、若い奴にはわからん感覚だろうがな。――話は終わりだ。じゃあな、お疲れ」 「片桐課長!」  呼び止める声には応えず、そのまま駅へと足を速める。水野は追ってはこなかった。いい加減、説得は無駄だと観念したのかもしれない。  改札に入り、山手線のホームに上がる。ちょうど目の前を電車が走り去るところで、数分後に来る次の電車を待つべくホームドアの前に並ぶ。  懐のスマホが、LINEの新着を告げたのはそんな時だった。スマホはプライベート用と仕事用とで常に二台持ち歩くが、今回鳴ったのは前者の方。さっそくスマホを取り出し、ホーム画面で通知を確認する。と―― 「……幸仁」  水野の告白には漣すら立たなかった心。それが今は、腹立たしいほど甘く疼いている。自分から捨てたくせに。その挙句、大事な妹をくだらない茶番に巻き込んで。  息を整え、メッセージに目を通す。 『お話があります。今、お電話大丈夫ですか』  話とは? ・・・まさか。でも、ありえなくはない。寂しくないはずはないのだ。妻を、伴侶を亡くして――いや何を考えているんだ俺は。その亡くした伴侶というのは他でもない、俺の妹なんだぞ。  どうかしている。  折しも次の電車がホームに滑り込んでくる。この便は見送るつもりでホームドアを離れ、アプリの電話マークをタップ。  嫌でも高揚する胸。本当に・・・どうかしている。 『・・・先輩』  五コール目で幸仁は出た。沈鬱な、それでいて品位と知性を感じさせる穏やかな低音。この、使い込んだチェロを思わせる美声が昔から好きだった。 『お忙しいところ、すみません。その・・・本当に大丈夫でしたか』 「大丈夫だから掛けてるんだろ。……で、何だ、話って」 『ええ。実は……再婚を考えています』 「……は?」  一瞬、理解が追いつかずに祐一は呆然となる。再婚。確かにそう告げられたはずなのに、意味を脳が拒絶する。 『理恵の喪も明けていないのに、こんなことを先輩にお話しするのは正直、とても気が引けます。ですが……いずれお話しすることなら、早い方が良いだろうと思いまして』 「いや……早すぎるだろ、いくら何でも」  高揚が冷たい驚きと怒りに置き換わるのを感じながら、祐一は呻く。とはいえ、この怒りが純粋に義兄としてのそれなのか、祐一自身もわからない。 「……わけを、話してくれ」 『ええ。来年、理沙は受験生になります。受験には親のサポートが欠かせません。金銭的にはもちろん、精神的にも……そうした部分を、これまでは理恵が担ってくれていました。ですが、今は、もう……』  ただでさえ沈鬱気味だった声が、さらに暗く沈んでゆく。痛みは、電話越しにも痛いほど伝わってくる。  それでも祐一は、言わずにはいられなかった。 「また、愛してもいないのに結婚するのか」  返事は、なかった。重い沈黙の中、微かな息遣いと稀に聞こえる生唾を呑む嚥下音だけが、与えてしまったダメージの重さを伺わせる。・・・ああ、また傷つけてしまった。いつもそうだ。俺は、俺を愛してくれる人間にこんな形で報いることしかできない。  ややあって、電話口から返答がある。  それは、沈黙の長さから想定されるよりもずっと強い声だった。 『わかってます。それでも僕は、理沙を護らなきゃいけない』  ふと祐一は、胸の奥にざわつきを覚える。あえて言語化するならそれは不快感と呼べるもので、なぜ、と祐一は自問する。ついさっき、再婚の訳を聞かされた時にはそよとも揺るがなかった場所が、今はカタカタと不穏な音を立てている。 「・・・理沙ちゃんには、話をしたのか」 『ええ。ただ……ひどく反対されてしまって。理沙としても、受け入れるのに時間がかかるのでしょう。なので、理沙への説得はとりあえず後回しにして、先にお義父さん方に話をさせて頂こうと考えています』 「親父に? 何だって親父たちに・・・」 『ええ。これまでお世話になった以上、義理は通した方がいいだろうと思いまして。とはいえ、お二人としても愉快な話ではないはずです。やはり、先輩のように難色を示されるかと・・・それでも理沙のためには、新しい母親が必要なんです。なので、先輩も説得に協力してくれませんか』  いやだ、と、喉元まで出かかるのを祐一は堪える。そもそも、主張を裏付ける理由がない。仮にあったとして・・・伝わらない。どうせ、ただの嘘として幸仁の心を素通りするだけ。 「……わかった。親父達には、俺からも話をしてみる」  それだけ告げると、祐一は返事も待たずに電話を切った。  その週末、祐一は久しぶりに実家に足を運んだ。  話だけなら電話で済ますこともできた。ただ息子として、理恵のことで意気消沈する老親達を慰めてやりたかったし、近況の確認もしておきたかったのだ。  東中野にある祐一のマンションから荻窪の実家へは、中央線で一本だ。が、ここ数年はほとんど足を向けていない。頻繁に海外を飛び回るせいもあるが、行けば、必ず結婚の話になる。いい人は見つかったの? もう四十になるんだし。最近は婚活サイトでの出会いも増えているんですって? ――そうした話題が鬱陶しくて、次第に足が遠のいてしまった。  久しぶりに帰った実家は、玄関先から早くも線香の匂いが漂っていた。 「おかえりなさい」  出迎えに現れた母は、ひどく疲れて見えた。空元気とわかる笑みがかえって痛々しいが、指摘するとその空元気すら萎んでしまいそうで、「思ったより元気そうでよかったよ」などと当たり障りのない挨拶で茶を濁す。  玄関ホールの右脇に位置する和室には、家を建てた当初から冷蔵庫ほどの仏壇が置かれている。そこに、祖父や祖母の古い位牌と並ぶように真新しい遺影が置かれ、線香立てから細い煙が何本もたなびいている。 「本当に、最後までよく頑張ってくれたわ」  さっそく仏壇に手を合わせる祐一の隣で、しみじみと母が呟く。昔から、友人の間で美人と有名だった母も、還暦を過ぎた今はさすがに老いが目立つ。でも今は、その順当な老いが眩しかった。理恵も、あとすこし癌の発見が早ければ、こんなふうに穏やかに老いることもできたはずなのだ。  理恵が病院から癌の告知を受けた頃、祐一はインドのムンバイにいた。JICAが出資するODA案件の入札に備えた地質調査のため、特命チームを率いて現地入りしていたのだ。  そのムンバイで祐一は、国際電話で幸仁から告知のことを聞かされた。その後、早々に仕事に一区切りつけると、ほとんど着の身着のまま空港へとタクシーを走らせた。  祐一が帰国した時にはすでに手術は終わり、身体に残った癌細胞を死滅させるべく抗がん剤による治療へと移行していた。ただ、その経過が芳しくないことは、真っ青な理恵の顔色を見れば一目瞭然だった。  その後、祐一はやり残した仕事のためにインドに戻る。本当は看病のために長期休みを取りたかったが、「幸仁さんがいるから大丈夫」、と微笑む理恵に後押しされ、それでも内心は後ろ髪を引かれる思いでムンバイ行きの国際線に乗り込んだ。  その後も、帰国のたびに祐一は理恵のもとに足を運んだ。  自宅療養の道を選んだ理恵は、抗がん剤の投与のために定期的に病院に通う以外は自宅で過ごした。老後を見据えて設置したホームエレベーターのおかげで、車椅子生活はさほど苦にならないと理恵は言った。それでも駒込の家に足を運ぶたび、シックでシンプルだった室内には手すりが増え設置型のスロープが増え、実際はひどく不便していることを思わせた。きっと、設計者の幸仁に気を遣っていたのだろう。  ある時、家に行くと介護用の巨大なベッドがリビングを占領していた。  もはや寝室からの移動もままならなくなった理恵に、さすがにもう病院に移ったらどうだと勧めると、もう髪の毛どころか睫毛すら抜けきった理恵は、「それでも幸仁さんと一緒にいたいの」と微笑んだ。  我儘を言っているのはわかってる。幸仁さんに重い負担をかけているのも。それでも、最後の一秒まで幸仁さんや理沙と一緒にいたいの。恨まれてもいいから、二人の想い出をできるだけたくさん抱えていきたいの――  結果的にそれが、理恵との最期の会話になった。  それから一か月後、ムンバイ支社で会議に参加していた祐一のスマホに、幸仁からLINEが入った。 『理恵が旅立ちました』  打ち明けるべきだった、という後悔と、打ち開けずに済んだ安堵とが同時に押し寄せて、会議を終えた祐一はトイレの個室で声を殺して泣いた。妹を見舞いながら、何食わぬ顔で昔話をしながら、本当はずっと、ずっとずっと伝えなければと焦っていた。今日言おう。今日が駄目なら明日言おう。明日が駄目なら――その明日は、しかし永遠に失われてしまった。無為に傷つけ合わずに済んだ代わりに、祐一は、永久に贖罪の機会を失ったのだ。  線香をあげてリビングに移ると、母が昼食を作って待っていてくれた。肉じゃがとポテトサラダは、どちらも祐一の子供の頃からの好物だ。ランチにしては手が込みすぎている気もするが、久しぶりに帰った息子のためにわざわざ用意してくれたのかと思うと胸が詰まる。  ふと、先日の幸仁の話を思い出す。理沙には新しい母親が必要なのだという幸仁の主張を、あの時は無下に否定したが、いざこうして自分が母の温もりに触れると、幼くしてそれを奪われた理沙が改めて不憫になる。  確かに……必要なのだろう。  たとえそのために、幸仁が愛のない結婚を繰り返すことになったとしても。 「今日は、二人に話があって来たんだ」  出された缶ビールを半分ほど空けたところで、祐一はテーブル越しに両親に切り出した。 「あら、やっといい人が見つかったの?」 「あ、いや、俺のじゃなくて幸仁……くんの方だけど。その、再婚したいんだと。理沙ちゃんのためにも、新しい母親が必要なんだ、って」  あえて軽く告げたのは、まずはジャブで二人の出方を探るため。とりあえず・・・驚いてはいるものの拒絶のそぶりはない。なら、このあたりで次のジャブを―― 「いいんじゃない? ねぇ、お父さん?」 「えっ?」  意外な言葉に振り返る。その発言主である母は、隣に座る父と顔を見合わせると、むしろほっとした顔で互いに頷き合う。 「ああ。幸仁くんには、今まで本当に良くしてもらったよ。家を建てる時も、最初は俺達に同居を勧めてくれてなぁ」 「そうなの。あんまり面倒をかけたくなくて、結局、断っちゃったんだけど」 「でも気持ちは嬉しかったなぁ。わざわざ二世帯用の図面まで作ってくれてね。結局、その話はナシになったんだが、今の家も、いざとなればリフォームなりで二世帯でも暮らせるよう作られているらしい。うん・・・幸仁くんのおかげだ。彼のおかげで、理恵も幸せに旅立つことができた。だから……理沙ちゃんさえ良ければ、俺達からは、もう、何も言うことはない」 「そう・・・だったんだ」  呆然と、祐一は呻く。ちっとも実家に寄りつかない不肖の息子の代わりに、老親を大事にしてくれたことは純粋にありがたい。再婚の件も、無駄に話が拗れずに済んだのは助かった。  なのに俺は、一体、何にこだわって―― 「その・・・理恵は、幸せだった・・・のか」  すると父は、答えの代わりによっこらせと席を立つと、壁の本棚から大判の冊子を取り出した。それを、「見ろ」と祐一に差し出してくる。冊子の正体は、どうやらアルバムのようだ。  ボール紙製の表紙には、カラフルなペンで『宗谷家の記録』と書かれている。やや丸みがかったこれは理恵の字だろう。  怖い。  反射的に、何故かそう思った。ここに収まるものと向き合うのが、怖い。 「どうした、祐一。気分でも悪いか?」 「えっ? あ、いや……」  心配顔で見つめる父母に、事実など明かせるはずもない祐一は腹を括り、ページを開く。  中身は、おもに理沙の成長記録だった。新生児の写真から始まり、ページをめくるたびに少しずつ大きくなる新しい命。最初は首が据わらず毛布に包まるばかりだったのが、やがて椅子に座り、ハイハイを始め、そして自分の足で歩きはじめる。食事は常に戦争だ。テーブルいっぱいにぶちまけられたお粥。ケチャップまみれの理沙の頬とよだれかけ。幸仁好みのシックな部屋は、色とりどりのおもちゃで雰囲気はぶちこわし。  でも。何故だろう、その全てが暖かい。  時折り見切れる理恵の、困り果てた、でも、はちきれんばかりの幸せを讃えた笑顔。その視線は娘の理沙か、さもなければカメラに向けられている。いや正しくは、カメラの後ろの人物。写真には写らない、でも確かに存在するもう一人の家族。  ――愛するふりだけは貫いてくれ。  違う。  そうじゃない、これは。 「わかるだろ。理恵は充分幸せだった。幸仁くんが幸せにしてくれたんだ。だから――」 「ごめん、仕事を思い出した。帰る」  立ち上がり、アルバムをテーブルに置く。えっ、と面食らう両親に短く詫びると、祐一は、逃げるように実家を後にした。  駅までの徒歩十数分の道をどう歩いたのか覚えていない。  ただ気付くと、東中野に向かう上り列車に乗り込んでいて、車窓越しに暮れなずむ空と、茜色の中にくっきりと輪郭を取る富士山の遠いシルエットをぼんやりと眺めた。  えもいわれない恐怖が、喉元にこみ上げていた。  俺は、とんでもない思い違いをしていたんじゃないのか。幸仁は、今でも俺を愛してくれているのだと――だからこそ、あの日の約束に、否、呪いに律儀に殉じているのだと。  ――理恵だけは傷つけないでくれ。  ――愛さないならそれでいい。ただ、愛するふりだけは続けてくれ。  ふざけるな。そんな約束がなくとも、あいつは理恵を愛してくれた。それも演技じゃない、心から。・・・じゃあ、理恵の兄として素直に喜べばいい。なのに喜べないのは何故だ。素直に笑えないのは。  わかっている。わかりたくないのにわかってしまう。  本当は、祐一以外の誰も愛してほしくなかった。それを、惨めな詭弁で糊塗したもの。それが、あの呪いの正体だった。  でも。  そんなものは、本物の幸せの前にはどこまでも無力だった。発端は確かに偽りだったのかもしれない。本当に幸仁は、祐一の「好きだ」を聞くためだけに理恵との結婚を求めたのかもしれない。・・・それでも、あのアルバムに詰まっていたのは紛れもない本物の幸せだった。幸仁と理恵が手探りで掴んだ、祐一の知らない――知ったところで望むべくもない幸せ。 「・・・俺だけしかいないんじゃなかったのかよ」  東中野のマンションに戻る頃には、空にはすっかり夜の帳が降りていた。シャワーを浴び、帰りにコンビニで買ったビールをあける。自分は、もう家族を持つことはないのだと悟った四十歳の誕生日、祐一はこの分譲タイプの1LDKの購入を決めた。自分一人が快適に暮らすためだけの住処。洒落たイタリア家具も豊富な調理器具も、望めば何でも手に入れ、好きに並べることができる場所。・・・ただ一つ、愛する人との幸せを除いて。  そんな、祐一が望むものばかりを集めた部屋にぽつんと置かれるささやかな異物。サイドボードに放置されたままのあれは、そう、葬儀の夜に幸仁から渡された理恵の手紙。  きっと、兄への無邪気な感謝の言葉が綴られているのだろう。  受け取った当初は、それが後ろめたくてどうしても封を開くことができなかった。でも今は、全く別の理由で手に取ることができない。開けばきっと、今以上にあの可愛い妹を憎んでしまうだろう。  誰も何も悪くない。祐一以外の人間は誰も。  そもそも、理恵を幸せにしろと願ったのは祐一自身だ。さらに言えば、卒業時、幸仁を突き放さなければこんなことにはなっていない。・・・わかっている。それでも孤独は容赦なく祐一を蝕み、狂わせる。お前たちがあのリビングで団欒を楽しむ間、俺はずっと、冷えた懐炉みたいにぬくもりを失った想い出を、それでも後生大事に握りしめていた。間抜けな話だ。笑えるよな。だから、なぁ、笑ってくれよ誰か――……  テーブルのスマホが着信を告げたのはそんな時だった。画面を見ると―― 「・・・清水?」  反射的に通話ボタンをタップする。先日のやりとりを踏まえるなら、もう少し躊躇してもよかったのだろう。・・・いや違う、先日のやりとりがあればこその、この反応。  救われたがっている。身体が、心が。  それでも辛うじて社会性を繕うと、つとめて穏やかに切り出す。 「もしもし。どうした、トラブルか?」 『あ、いえ……実は、片桐課長に折り入ってご相談したいことがございまして。……あ、その、別に大した内容ではないんですが、ええと……』  どこか気まずげな、それでいて一抹の期待を孕んだ声。本当に大した内容ではないのだろう。おそらくはただ、祐一の声を聞きたかっただけ。  だとしても、このタイミングはずるい。抗えない。 「お前さえよければ……どうだ、これから直接会って話さないか」  全てが終わり、乱れたベッドに身を投げ出した祐一が抱いたのは、泥のように深い後悔だった。 「……すまない」 「謝らないでください」  剥き出しの肩に、そっと落とされる優しい口づけ。背中をぴたりと覆う他者の体温は、しかし孤独を癒すどころか、過ちの証とばかりに祐一の心にざりざりと爪を立てる。  わかっていた。理解していた。自分にそれを求める資格はないと。  にもかかわらず、求めてしまった。誘ってしまった。 「いいや謝らせてくれ。・・・謝る必要があるんだ、俺には」  身体の隅々に、それこそ余すところなく注がれた若い熱。枯れた肌を念入りに愛撫され、忘れかけていた喜悦に年甲斐もなく乱された。力強い腕に抱かれ、幾度となく奥を突き上げられながら、もっと、もっとと淫らに啼いた。  ――愛してもいないのに。  自ら放った言葉が、ブーメランとなって胸にぐさりと突き刺さる。  軽蔑したはずのものに、自ら成り下がってしまう惨めさ――だけじゃない。久しぶりの熱に、思い出してはいけない感情を不覚にも蘇らせてしまった。離れたくない。失いたくない。見捨てられたくない。本当はずっと、ずっとずっと永遠に愛し合いたくて、でも、幸仁という人間は、祐一の手で繋ぎ止めておくにはあまりにも魅力的すぎた。  ああそうだ。  本当は、幸仁のためだの未来に出会う女性のためだのは所詮ただの言い訳だった。本当は、ただ恐ろしかったのだ。自分は、いつかきっと捨てられる。遊び飽きた玩具を手放すように、いつの日か幸仁は醒めた目で祐一を突き放す。その瞬間を想像するたび、祐一は怖くて夜も眠れなくなった。  だから突き放した。捨てられるよりは捨てた方がまだ耐えられる、そう思ったから。  そんな浅ましくも遠い過去を、よりにもよって清水の腕の中で思い出していた。薄膜越しに若い熱を受け止めながら、あの頃、日常とともにあった恐怖や悲しみばかりを祐一の心は反芻していた。 「俺が……俺が、悪かったんだ。俺の心が弱いばかりに、こんなことになってしまった……何もかも、俺が……っ」 「その謝罪は、僕に対するやつじゃありませんよね」  思いがけない図星に、祐一は枕から顔を上げて振り返る。いつしか祐一から離れ、ベッドの上で上体を起こしていた清水が、泣きそうな顔で祐一を見下ろしていた。  その唇が、ふ、と緩む。目は、相変わらず寂しげなまま。 「いいんです。別に咎めるつもりはありません。むしろ嬉しいんですよ。普段は滅多に隙を見せない課長が、こんなに無防備に心を曝け出してくれて」 「や、ちが……いや、そうだな、お前の言うとおりだ。すまない」 「いえ、だからいいんですって。……昨晩、電話越しに課長の声を聞いた時から、何となく、そんな気がしていましたから」  どうやら清水には、ある程度の事情は見抜かれているらしい。仕事でも勘の強い男だが、プライベートでもそうだとは恐れ入る。 「そんなに……ひどい声だったか」 「ええ。あんな声を聞かされたら……どんなに拒否られても押しかけていたと思います」 「こんなくたびれたオッサンのために……馬鹿だな」  一応、ジムに通っていて良かったと思う。これで年相応の肥満体だったら、それこそ居た堪れなかっただろう。それでも、肌や肉の張りは大学時代とは比べるべくもない。  歳を取ったな、と改めて思う。そして、それと同じだけあいつも歳を取ったのだろうな、とも。……結局、こんな時でも幸仁のことばかり考えている。  そんな祐一の心を見透かしたかのように、清水はまた苦笑する。 「諦められませんか、その人のこと」 「ああ・・・そうみたいだ」  すると清水は、そうですかと小さく呟き、ベッドを降りてバスルームに向かう。清水と待ち合わせた新宿で、酒の一杯もひっかけずに雪崩れ込んだラブホテルは、そうした目的のホテルにしてはシックな内装で、それが逆に、ビジネスの最中に道を踏み外してしまったような居心地の悪さを強いてくる。  その後、入れ替わるように祐一もシャワーを浴びると、着衣を整えてホテルを出た。 「今回のことは、本当に済まなかった」  まだ夜の明けきらない空の下を駅へと歩き出しながら、そう祐一は切り出す。突き刺すような冬の朝。それでも街全体が何となく暖かいのは、夜通し溜め込んだ人の温もりのせいだろう。それは小汚い小便横丁のそれだったり、華やかな歌舞伎町のそれだったり――何にせよそれは、誰かが誰かと身を寄せ合い、孤独を分かち合うことで生まれた熱なのだ。  そこにはきっと、清水と求め合うことで生まれた熱も含まれていて。  でもぬくもりは、熱は、いつかは醒めるものだ。 「もういいですよ・・・って、何度謝れば気が済むんですか」 「わからない。とりあえず・・・俺の気が済むまで、かな」 「トートロジー、いや、堂々巡りってやつですねそれ。じゃあ、こういうことにしませんか。俺じゃなくて、まずはその人に謝る。気持ちを全部ぶちまけた上で・・・どうです?」 「は? いや勝手に仕切るなよ。当事者でもないのに、」 「当事者ですよ。その人のせいで俺、課長にフラれたんですから」 「・・・」  振り返り、頭半分は高い場所にある清水の顔を見上げる。口調こそふざけているが、眼差しはどこまでも真摯でまっすぐだ。確かに・・・当事者ではあるのだろう。少なくとも、あれだけ浅ましく求めておいて今更赤の他人だ、は、ない。 「ちゃんとケリをつけてきてください。大丈夫、玉砕したら俺がちゃんとサルベージしますから」 「ははっ・・・本当に変わった奴だなお前は。こんな搾りかすみたいなジジイのどこが良いんだか」 「あれ、気付いていらっしゃらない? 課長、部下の間じゃかなりモテてるんですよ。ほら、イケオジって言葉を聞いたことないです? なんか、落ち着いた大人の雰囲気がいいって女子でも憧れてる子は多いですし、あと男でも、」 「あーはいはいわかった! って・・・男? いや、何だって男まで」 「今のご時世、人を好きになるのに男も女もないですよ」 「・・・はぁ」  今の若い奴はそういうもんなのか、と祐一は呆れがちに思う。二十年も齢が離れると、もはや異星人だ。  その後、清水とは改札の前で別れた。どうせ数時間後には会社で再会するだろうに、祐一の姿が見えなくなるまで子供のようにぶんぶんと手を振っていた。  中央線の階段を上がると、ホームはがらんとしていた。人の姿もあるにはあるが疎らで、普段の殺人的な人混みに見慣れていると、まるで異世界に迷い込んだ心地になる。もっとも、ようやく始発が動き出した頃合いならそれも仕方がないだろう。  蛍光灯がしらじらと照らすだけのホームに吹く風は、いつになく鋭い。  幸仁から電話が入ったのはそんな時だった。前回といい、どういうわけか清水と別れた後にばかり電話が入る。とはいえ・・・こんな早朝にかけてくるのは不自然だ。祐一が海外にいる時も、わざわざ時差を考慮して夜中には決してかけてこない。そうでなくとも、ただでさえ朝の弱いあいつが。 「もしもし、幸仁か、どうした」 『え、ええ・・・早朝からすみません』  電話口から返ったのは、ひどく慌てた声。やはり、何か不測の事態に出くわしたらしい。しかし、理恵がまだ生きていた頃ならともかく、今は―― 『その、理沙が、家出を』 「なに?」 『理沙が、手紙を残して出て行ったきり帰ってこないんです。その・・・て、手伝って、頂けますか、娘を、探すのを・・・』  最寄りの駒込までは山手線で、そこからタクシーで急ぎ幸仁の家に向かう。  インターホンを押すと、普段にも増して憔悴した幸仁が、青白い顔でビルのエントランスに現れた。よれよれのワイシャツとパンツ。葬儀の時ですら綺麗に剃り上げていた髭も、今は無造作に伸び晒しになっている。 「申し訳ありません、わざわざ来ていただいて」  今にもくずおれそうな顔と身体で、幸仁はのろのろと腰を折る。理恵の葬儀で会ったときも齢を感じたが、今朝は、あの日にも増してさらに十年以上も老いたように見える。  端正なはずの顔をべったりと塗り潰すのは、深い苦悩と悲しみ。 「気にするな。俺にとっても、理沙ちゃんは大事な家族なんだ。・・・で、状況は?」 「あ、はい。昨晩、理沙の手紙を見つけた直後に警察へ連絡を」 「なるほど。で、警察からは何か?」  問わずもがなの問いに、幸仁はゆるゆるとかぶりを振る。そうだろうな。見つかっていれば、そもそも祐一に助けを求めていない。 「まぁ、俺達素人があたふたしても仕方ない。とりあえず今は、今後に備えてしっかり身体を休めよう。その様子だと、どうせ一睡もしていないんだろ?」  そう、口では宥めてみせながらも、祐一は今後のフローを抜け目なく考えている。正直、警察をどこまで頼りにできるかは未知数だ。家出人なんて、この国、いや東京だけでも一日に何百人と出ているだろう。その一人一人を追跡するマンパワーを、ただでさえ公務員削減のあおりを喰らう警察が有しているとは思えない。かといって、素人が闇雲に動き回っても何の意味もない。  なので幸仁には、幸仁にしか――父親にしかできないことをやってもらう。大丈夫。アルバムの写真を通じて伝わるカメラの眼差しは、間違いなく父親のそれだった。その幸仁になら、きっと。  ・・・父親、か。  ふと浮かびかけたネガティブな感情を排し、改めて今後のフローを冷静に練り直す。 「ええと・・・とりあえず、理沙ちゃんが行きそうなところを虱潰しに当たってみるしかないな。わかるだろ、行きつけのカフェとか友達の家だとか。理沙ちゃんとの会話で出てこなかったか?」 「えっ? ええと、まぁ多少は・・・ただ、友人宅の連絡先は、昔から理恵が管理していたもので、その・・・スマホのロックが開かないと」 「いや、あいつはそのあたりはぬかりなくやる奴だよ。多分、いつか必要になることを見越して、手帳なりメモ帳なりに書き写しているはずだ。落ち着いて思い出してみろ」 「そういえば・・・病床で、確かに手帳に書き込みを」 「それだ。じゃあ、もう少し夜が明けたら電話で問い合わせてみよう。言っておくが、そいつはお前の役目だぞ。俺は、とりあえずお前が知ってる限りの店に足を運んでみる」  そんなことを話し合いながら、階段で三階の表玄関に上る。  ところが玄関のドアを開くや、祐一は目の前の光景に愕然となった。とにかく室内が荒んでいる。床全体にうっすらと積もったチリや埃。開封されたなり放置された宅配用の段ボール。中身が溢れたゴミ箱。とりわけ酷かったのはキッチンだ。シンクの隅に無造作に積まれた弁当の空き箱と、カップラーメンの容器。しかも洗って干されているならともかく、その様子もない。  何をやってるんだお前は。  ここは、お前たちの大事な〝柱〟だろうが。  とはいえ、今の幸仁を責めるのは色々と酷だろう。そんな幸仁を、とりあえずリビングのソファで休ませ、祐一はキッチンの片づけにかかる。弁当の空き箱は洗ってシンクの隅に立てかけ、その他のゴミは自治体の指示に従って分別する。ついでにゴミ箱のゴミも片付け、一通り部屋の片づけを終えた頃には、幸仁はソファに長い身体を横たえ、すよすよと寝息を立てていた。 「・・・幸仁」  ああ、やっぱり綺麗だなと祐一は思う。  降り積もった苦労や抱える不安、悲しみからひととき解き放たれた幸仁の顔は、あの頃と同じように無垢で、美しい。そんな幸仁の寝顔を、共に朝を迎えるたびに眺めた日々の遠さを、祐一はしみじみと噛み締める。  そうした祐一の感慨を冷たく断ち切る、ローテーブルに置かれた一冊の手帳。女性好みのキャラクターが表紙にプリントされたそれは、さっき幸仁に探してくれと頼んだ理恵の手帳だろう。  ああそうだ、もう俺達は。  気を取り直し、キッチンでコーヒーを淹れる。と、その匂いに叩き起こされたのか、幸仁がむくりと身を起こす。 「もっと寝てていいんだぞ」 「いえ、そういうわけには……あ、僕にも一杯頂けますか」 「了解」  ケトルに水を追加し、沸かし直す。やがて出来上がった二杯目のコーヒーをリビングに運ぶと、幸仁はしみじみと啜った。 「ああ、美味しい」 「インスタントだけどな」 「僕、思うんですよ。コーヒーって品質よりも、どういうシチュエーションで飲むかが重要なんじゃないかって」 「それはお前が、本当に美味いコーヒーを知らないからだ。豆もこだわると面白いぞ」  ははっ、と幸仁は声を出して笑う。そういえば、理恵が旅立ってから幸仁が笑みらしい笑みを浮かべたのは、これが初めてかもしれない。  ともあれ多少は気力を取り戻してくれたようで良かった。これならきっと、今回のトラブルの核心にも切り込める。 「原因は・・・お前の再婚話か」  すると幸仁は、手元のカップを睨んだままこくりと頷く。ややあって幸仁は、パンツのポケットから一枚のメモ紙を取り出し、祐一に差し出してきた。  メモ紙には、『これからは一人で暮らします。パパはもう、再婚の必要はありません』と、若い女性らしいこぢんまりとした文字で記されていた。気のせいか、筆跡は理恵のそれを思わせる。親子とは、こうした部分も似るものだろうか。 「申し訳、ありません」 「いや、俺に謝られてもだな・・・とりあえず、再婚の件は改めてしっかり話し合うことだな。そもそも、理沙ちゃんのための再婚なら、その理沙ちゃんに嫌がられたら意味がないだろ。それとも――」  それとも、お前が必要としているのか。残りの人生を共に歩むための伴侶を。  確かに、独り身は辛い。誰ともぬくもりを分かち合えない孤独と寂しさは、祐一も痛いほど知り尽くしている。だから責められない。たとえ幸仁が、本当は幸仁自身のために再婚を求めるとしても、それを引き止めることは、もう、祐一にはできない。  ところが。 「それとも、何です?」  そんな祐一の気持ちを知ってか知らずか、なぜか幸仁は言葉の先を求めてくる。 「は?」 「いえ、ですから・・・もういいです」  呟くと、なぜか幸仁はふてくされたように塞ぎこむ。それは昔、祐一と何か言い合うたびに見せた幸仁の反応で、懐かしさを覚えながらも、なぜ、今、ここで、と祐一は困惑する。   やめてくれ。  終わったんだ、お前とは、もう。  自分を戒めるつもりで理恵の手帳に手を伸ばし、開く。中身は案の定、理沙に関する覚書だった。予防接種や投薬歴などの情報は母子手帳にまとめられているだろうから、それ以外の、例えば学校や塾の連絡先、小学校時代も含む友人宅の電話番号、理沙が持つゲーム機の見守り機能とそのログイン方法――そうした生活に関する情報が細かく記されている。  ああ。頑張っていたんだな、理恵。  それにしても、友人宅に当たるだけでもそれなりの作業量だ。ここに、行きつけの店を探す作業も含めるとさらに膨大な手間になる。・・・こいつは、思った以上の長丁場になりそうだ。そう観念すると、祐一は懐からスマホを取り出し、ついさっき別れた男に電話をかける。  三コールほどで清水は出た。別れ際に少し仮眠を取りたいと言っていたが、さすがにそんな余裕はなかったようだ。  その水野に、事情とともに今日は会社を休む旨を告げる。この時間ではまだオフィスには誰も来ていないだろうし、人が集まる時間帯に、改めて連絡を取れる自信もない。 「と、いうわけだ。俺が連絡を取れないケースに備えて、お前の方からも部長に伝えておいてくれ」 『了解です。……あの、良ければ俺も手伝いましょうか。午後は半休を取って、その、』 「ありがとう。好意だけはありがたく受け取っておくよ」 『いいんですよ別に。これで恩を着せようだなんて思ってませんから。……昨晩の件も、俺、気にしてません』  気にしているんだろうな、と、水野のやや沈んだ声を聞きながら祐一は思う。傷ついているんだろうな、とも。そもそも、本当に気にならなければあえて触れはしないだろう。それでも、いや、だからこそ、こちらを傷つけまいとする水野の優しさを尊重しなければとも思う。たとえそれが、お得意の都合の良い曲解だとしても。 「はいはい。だったらとりあえず、今日は俺が抜ける分までしっかり働いてくれ。というか、まずは自分の仕事をきっちり済ませること。お前、また書類溜め込んでるだろ。領収書も」 『あっ・・・す、すみません、はい。じゃあ、課長の分まで俺、がんばります』 「うん、じゃ、よろしく」  言い残し、電話を切る。世代間ギャップのせいで掴みづらくはあるが、良い部下だなと改めて思う。まっすぐで前向きで。自分が今の清水の状況なら、こんなに堂々と会話はできなかった。  それとも・・・また我慢させているのかな。  ふと、視線を感じてスマホから顔を上げる。幸仁が、なぜか噛みつくような目でじっと祐一を見つめていた。 「今のは?」 「えっ? ああ・・・部下だよ。こいつがまぁ良い奴でね。今も事情を話したら、理沙ちゃんの捜索を手伝いたいとか言い出して・・・ははっ、まずは自分の仕事を完結させろってんだ。けど、まあ嬉しいよな。こんなふうに気にかけてもらうとさ」  すると幸仁は、「ですね」、と笑う。ただ、その笑みはどこかぎこちない。まるで、言いたいことを必死に堪えているような――やめろ、どうせ勘違いだ。そうに違いない。だから。  これ以上、その醜い期待を膨らませるんじゃない。  ふと、奇妙な沈黙がリビングを包み、今更のように祐一は窓枠に覗く空の青さに驚く。手元の時計を見ると、すでに時刻は六時を過ぎていた。確かに、これなら空も明るくなるわけだ。  テーブルに置かれた幸仁のスマホが着信を告げたのはそんな時だった。  表示は『駒込警察署』とある。思わず幸仁を振り返った時にはもう、すでに幸仁はスマホを取り上げていた。 「もしもし!」  そのかぶりつくような口調に、改めて、父親なのだなと祐一は思う。子供のいない祐一には、保護者としてのこうした感覚はどこまでも未知数だ。誰かを案じるにせよ大概は大人が相手だから、どこかで「まぁ上手くやるだろう」と高を括っている。出先で部下がやらかしても、それで命まで取られるわけじゃない。  でも今回は、非力で無知な未成年、しかも女の子だ。そして悲しいかな、そうした女性が陥る地獄は、それこそうんざりするほど溢れている。  やがて幸仁は電話を終えると、財布とスマホだけを掴んで玄関に走る。祐一の存在など、すでに頭から消えているらしい。自分から呼びつけておいて――いや違うな、この憤りは。  ああ、つくづく嫌になるな。この浅ましさが。  そう内心でぼやくと、とりあえず祐一は幸仁の背中を追った。  幸仁の車で警察署に赴くと、すでに理沙は保護されていた。  通されたのは保護室と呼ばれる小部屋。その片隅に置かれた長椅子に、理沙は、置物のようにちょこんと座っていた。傍らには婦人警官が寄り添い、俯く少女の手をぎゅっと握りしめている。 「理沙!」  部屋に入るなり、我を忘れたように幸仁は娘に駆け寄る。  応対した警察官の話によると、理沙を見つけたのは谷中にある理恵の菩提寺の住職だったらしい。墓前の小さな台座にダウンコート姿でうずくまっているのを発見し、保護してくれたのだそうだ。 「どうして家出なんかした。理沙」  父親の叱責じみた問いに、しかし、理沙は何も答えない。肩を包む毛布を胸元でぎゅっと掻き寄せながら、じっと足元の床を睨んでいる。  こんな顔をすると、本当に理恵の生き写しだなと祐一は思う。  昔から理恵は、どうしても譲れないことがあると黙り込み、頑なに拒絶の意志を示した。人当たりが良くこだわりのない性格に見えて、その実、恐ろしく頑固な妹がこうと決めると、兄の説得でもそれを覆すのは不可能だった。  一方の祐一は、表向きはこだわりが強いようで、その実、押し込まれるとすぐに流されてしまう。茹ですぎたパスタみたいに芯のない性根。だからこそ、余計に妹の性格が羨ましかった。何を捨てても譲れない何かが――それを護る強さが欲しかった。  それはそれとして、と、もう一人の祐一が重い腰を上げる。そろそろ仲裁に入ってやるか。幸仁も、そのために俺を呼びつけたのだろう。親子二人では冷静な会話は望めない。バッファとしての第三者が必要だろうと―― 「……いやだ」 「えっ?」 「再婚とか、いや、絶対に、やだ」  そして理沙は弾かれたように顔を上げると、縋るような、咎めるような目で父親を見上げた。 「私のために再婚とか、そんなの絶対にやだ! 私、そんなの望んでない! 新しいママなんていらない! 絶対・・・絶対やだ!」  そして今度は、それまでの拒絶が嘘だったかのように幸仁に飛びつき、胸の中でわんわん泣きはじめる。葬儀の時の、どこか達観したような澄まし顔が嘘のような――いや、実際嘘だったのだろう。こうして恥も何も振り捨てて幼児のように泣きじゃくる彼女こそ、本当の彼女だったのだ。  そんな理沙の、いまだ小さな背中を、幸仁は長い腕でしっかりと包み込む。胸元に深くうもれる娘の頭を優しく撫でながら、慈しみに満ちた声で「わかった」と何度も、何度も繰り返した。  そんな二人の姿を見守りながら、遠い、と祐一は思う。  いつの間に、こんなに遠ざかってしまったのだろう。祐一が、過去の罪と恋を空しく反芻する間、幸仁は新しい命を授かり、それを全霊で育て上げた。この、くたびれた広い背中が何よりの証だ。  数多の喜びと、それらを守るために身につけた強さ。そうしたものが地層のように堆積した男の背中は、たとえくたびれていても、強い。最初は、偽りの種だった。蒔いたところで芽吹くはずもなかった。にもかかわらずそれは芽吹き、枯れるどころか大樹となって、今、祐一の前に堂々と屹立している。  わかっていた。もはや自分は幸仁に必要とされていないのだと。  それでも、改めて事実として突きつけられると。 「・・・か、」  帰る、と口にしかけて思い直す。代わりに婦人警官に目礼すると、無言のまま部屋を後にした。  警察署を出ると、今度こそ祐一は東中野の自宅に向かう。とにかく疲れていた。身体も心も、見えない泥沼の底をのたうち回っている。そりゃそうか、と、ガラガラの下り電車に揺られながら祐一は思う。二十代の頃は、それこそ二徹三徹は当たり前だった。栄養ドリンクをの空き瓶をデスクの隅に並べながら、今から思えば驚異的な集中力で地質関連の学術書を読み込んだ。元は別の畑から迷い込んだ祐一が今の居場所を守るには、その程度の努力はむしろ不可欠だった。  が、それも三十を超える頃には難しくなり、四十路を迎えた今では、一度の徹夜でも数日は能率ダウンを覚悟しなくてはいけない。なのに馬鹿みたいに清水と求め合って・・・  いや、違うな、  この徒労感は多分、それだけが原因じゃない。  いっそこのまま会社を休むか。清水にも、今日は休むと伝えてあるし――いや、理沙が見つかった以上、休む理由がない。理由がなければダンヒルのスーツに袖を通し、何食わぬ顔で丸の内にあるオフィスに出社するしかない。それが社会人ってやつだ。大人ってやつだ。  電車を乗り継ぎ、中野のマンションに戻る頃にはすっかり日が高くなっていた。シャワーはホテルで浴びていたので着替えだけを手早く済ませ、コートを羽織りながら足早に玄関に引き返す。  そんな祐一の目に、ふと映り込むサイドボードの封筒。理恵が書き残し、幸仁に託され、そして今の今まで、祐一が存在を忘れようと努めたもの。それが、今なら不思議と読める気がした。逆に、今を逃せばおそらく一生目を通すことはないだろう、とも。  きっと、幸仁のあの背中を見てしまったから。  封筒に手をかけ、一息に開く。中身は、やはり理恵の直筆の手紙だった。見覚えのある筆跡で綴られた便箋はしかし、たったの一枚。実の兄に宛てた手紙にしてはやや寂しい気もしたが、記された日付を見てその理由に納得する。これは、彼女が亡くなる数日前に記されたもの。その頃にはもう命を繋ぐことすらやっとだったはずで、辛うじて残る僅かな体力でようようしたためたのだろう。この、たった一枚の便箋を。  そんな妹の手紙は、なぜか謝罪から始まっていた。 『お兄ちゃんへ。理恵より。  まず、謝らせてください。本当にごめんなさい、お兄ちゃん。  本当は知っていました。お兄ちゃんが、幸仁さんを好きだったこと。幸仁さんも、お兄ちゃんを愛していたこと。全部知っていました。  思えばずっと、お兄ちゃんからは奪ってばかりいた気がします。  昔、マサ叔父さんにおもちゃを買ってもらった時のこと、覚えていますか。あの時、叔父さんは私たちに一つだけおもちゃを選べと言って、それで私は、私が欲しいものを選んでしまった。お兄ちゃんは、二人で一緒に遊べるおもちゃを選んでくれたのにね。  お兄ちゃんはよく、自分は意志が弱いって言うけど、それもきっと私のせいなんです。子供の頃から私がわがままばかり言って、お兄ちゃんに譲らせてばかりいたから、自分の気持ちを抑え込むのに慣れすぎてしまったんだと思うんです。  そんなお兄ちゃんでも、気持ちを抑え込めないほど好きなのが幸仁さんだと気づいていたのに、私はまた奪ってしまった。  幸仁さんに結婚をお願いしたのは私です。たとえお兄ちゃんに一生恨まれることになっても、私、幸仁さんが欲しかったの。どうしても、幸仁さんの奥さんになりたかった。  だから、恨んでください。私を。  最期に、これだけは伝えさせて。私は、本当に幸せでした。こんな話、幸仁さんが好きなお兄ちゃんは聞きたくもないだろうけど、でも本当に幸せだったの。幸仁さんと、理沙と三人、本当に、本当に幸せでした。  だから次は、お兄ちゃんが幸せになってね。  最期までわがままばかりでごめん。今までありがとう、お兄ちゃん』  読み終えた祐一は、しばらくその場から動けなかった。  知っていた。理恵は全てを。  それだけじゃない。てっきり祐一は、幸仁の方が理恵に結婚を申し出たのだとばかり思っていた。理恵を人質に、祐一からあの言葉を聞くためだけに。  だが。  この手紙の内容を信じるなら、今度は全く違う事実が見えてくる。幸仁はむしろ、理恵を庇うためにあんな嘘をついたのではないか。祐一の憎しみが理恵に向かないように。  ・・・向き合わなくては。  そう、今度こそ真実と向き合わなくては。これまで抱き続けた悔恨と懺悔に、果たして意味はあったのか。祐一の心を過去へと縫い留めた幸仁の言葉に、真実は、愛はあったのか。    幸仁は、すでに警察署から自宅へと戻っていた。  三階の玄関前でインターホンを押すと、通話が繋がるよりも先に玄関から幸仁が飛び出してくる。つい数時間前にも見た光景だなと苦笑し、同時に、これから暴く事実の重みに改めて祐一は暗澹となった。 「どこにいらしたんですか。あれから、何度電話しても繋がらなくて」 「いや、スマホの電源が切れてて」  嘘だ。本当はただ、こいつと直接会うまでは誰とも何も話をしたくなくて、わざと電源を落としていただけ。 「で、理沙ちゃんは?」 「え、ええ……今は自分の部屋で眠っています。外で一晩過ごしたせいか少し熱が出ていて、一応、薬を飲ませはしたんですが・・・念のため、後で病院に連れて行こうと思っています」 「そうか」  それは都合が良い。こんな話、理沙に聞かせられるわけがない。 「ところで……さっき手紙を読んだんだが」  脱ぎ捨てたコートを二つに畳んで腕にひっかけながら切り出す。 「手紙?」 「理恵のだよ。それで……少し、お前と話がしたい。構わないか」 「えっ?」  返事は待たず、祐一は半ば強引に家に上がり込む。幸仁の言う通り、リビングに理沙の姿はなかった。確か、理沙の部屋は四階にあるはず。そこで眠っているのなら、多少声を張ったところで聞こえはしないだろう。 「結婚は、理恵から迫ったそうだな」  すると幸仁は、えっ、と虚を突かれた顔をする。何を言っているのかわからないと言いたげな顔。でも、伝わらないはずがないのだ。  祐一が向ける怒気の意味も。 「なぁ、どうしてあんな嘘をついた」 「・・・嘘?」 「とぼけるな! ・・・嘘だったんだろ。俺に、もう一度好きと言ってもらうためだなんてよ・・・お前はただ、理恵を守りたかったんだ。俺の憎しみが理恵に向かないように、わざと、あんな嘘をついたんだ・・・それだけだったんだ。それだけ・・・」 「あ、あの、さっきから何の話です」 「だから、お前は最初から、俺なんてどうでもよかったんだよ!」  ひゅっと息を呑む声が、広いリビングにやけに大きく響く。そりゃ何だ。どういう反応だ。バレるはずのない嘘を見破られて面食らってやがるのか。だとしたら・・・舐められたもんだな。 「……気づいてたか。俺が、ずっと理恵に遠慮してたこと。結婚式だって、それで俺は欠席したんだ。あんな身体じゃ出られないだろうって……なぁ、お前があんな嘘をつかなけりゃ、俺は、ただの気の良い兄貴でいられたんだ。理恵にも、あんな悲しい手紙を書かせることはなかった。・・・全部、お前のせいだ。お前が、全部ぶち壊しにした。どうして・・・どうして正直に話してくれなかった。理恵の方からプロポーズしたんなら、正直にそう言ってくれりゃよかった。大体、そんなことで妹を恨む俺じゃねえんだ。なのに・・・」  違う。きっと、この怒りの本質はそこじゃない。  よくも期待させやがって。  本当は枯れていたんじゃないか。心はとっくに理恵に移っていたんじゃないか。なら、そうだと言ってくれればよかったんだ。――そんな醜い本音を、この期に及んで糊塗する俺はとんだ臆病者だと祐一は思う。  理恵は、自分のせいで祐一は気持ちを抑え込むことに慣れ過ぎたのだと語った。でも、違うのだ。本当は、ただ臆病だっただけ。自分の全てを曝け出して、他者に否定されるのが怖かっただけだ。その点、相手に恨まれることを覚悟してでも願いを貫いた理恵は強かった。祐一には、幸仁に恨まれてでも在宅治療を選ぶなんて真似はできない。でも、理恵は選んだ。その強さがあればこそ、彼女は幸仁を手に入れ、そして祐一は失った。 「終わってんなら、そう言ってくれりゃよかったんだ」  ふう、と溜息が肺から溢れる。会社で部下を叱責することはあるが、それでも、ここまで疲弊することはない。それはきっと、これが理不尽な怒りだと自覚しているから。  幸仁を責めながら、それ以上に自分の弱さを責め立てているから。 「どうでもいいわけ、ないでしょう」 「……は?」  顔を上げ、そして祐一は見る。途方もない悲しみと、寄る辺のなさを無造作に晒した迷子じみた顔を。  隈が染みついた目元を、ぼろぼろとこぼれおちる大粒の涙を。 「どうして・・・伝わらないんです。昔からそうだった。どんなに愛を伝えても、あなたはそれを否定して、冷たく突き放して・・・それがどんなに残酷なことか、先輩にはわからないんですか。・・・ああ、わかるわけがないですよね。だって先輩は、一度だって心から誰かを愛したことがない。でしょう」 「は? 今・・・何つった」  すると幸仁は、ははっと笑みを浮かべる。今にも割れて砕けそうな、危うく不安定な笑みを。 「ええ。何度だって繰り返しますよ。先輩は一度だって、誰かを心から愛したことがない。今までもそうだったし、それに、これからだって――」 「てめェ!」  気付いた時には、幸仁の胸倉を掴み上げていた。大人としてあるまじき衝動的な暴力。そんな自分に愕然となりながら、それでも祐一は掴んだ胸倉を離すことができない。  許せない。今の言葉だけは絶対に。 「あ・・・愛してたよ、お前を、心がぐしゃぐしゃに潰れるぐらい愛してたんだ! だから苦しかったんじゃねぇか! 理恵に向ける顔がなかったんじゃねぇか!」  ああ、言ってしまった。  でも、もうなるようになればいい。どのみち失うものなど何もない。そもそも、最初から何ひとつ勝ち取ってなどいないのだ。 「・・・本当だった。全部、本当だったんだよ! それを・・・お前の方こそ嘘だって突き放したんじゃねぇかよクソが!」 「それは・・・」  驚きに見開かれた両目が、じっと祐一を見下ろす。あの壊れそうな笑みは、もう欠片すら残っていない。 「愛していた、ということですか、僕を」 「ほかにどんな解釈がある」 「そんな・・・どうして、今更」  それを言えば、お前こそ、どうして。  愛していたんじゃないのか、夫として男として、理恵を――少なくとも、あのアルバムに綴じられていたのは紛れもなく本物の愛だった。カメラを通じて伝わる愛と慈しみ。全て本物で、真実で、なのに・・・今こうして祐一を見つめる眼差しは、明確に、そういう意図を伝えている。  その眼差しに吸い込まれるように、唇を寄せる。  だが、唇が触れ合う刹那、不意に祐一はリビングの片隅に置かれたそれを思い出す。理恵の仏壇と位牌。そして、骨壺を収めた白木の箱――間違っている。そう、祐一は思う。よりによって理恵の仏前で、しかも、まだ喪も明けきらないうちからそんな。  そんな祐一の躊躇を見透かしたかのように、幸仁が強引に唇を重ねてくる。 「な、何やって、っ、」  ほとんど突き放すように祐一が身を引くと、幸仁は、切羽詰まった――むしろ鬼気迫る表情で答える。 「キスですよ。いけませんか」 「いけませんかって・・・り、理恵の仏前だろうが!」 「わかっています。それでも、今じゃなきゃ駄目なんです。熱が冷めて正気を取り戻したら、僕はもう・・・間違えられない」 「・・・は?」  間違う? 何の話だ? そもそも・・・間違いなんて、犯さずに済むならそれに越したことはないだろうに。 「今回、僕は再婚を焦って間違えた。いえ、それを言ったら理恵をダシに使ったことも、あなたを追いかけたことも・・・あなたを好きになったことも、きっとみんな、間違いだった。でも・・・僕、思うんです。生きるって、そもそも間違いを重ねることなんだって」  幸仁の視線が、仏壇の遺影をそっと撫でる。が、それも一瞬のことで、すぐに祐一に視線を戻し、ぎこちなく微笑む。錆びついたぜんまいを無理やり巻き取るような、そんな、痛々しい笑み。 「死んでしまったら、もう、間違えることさえできない」 「・・・幸仁」 「そして、僕は・・・どうせ過ちを重ねるなら、あなたと重ねたい。あなたと間違えたい。そう、思ったんです・・・でも、」 「頭が冷えたら、間違えられなくなる、か」  答えに代わりに、ふたたび唇が重なってくる。今度のそれは、深さを伴う口づけだった。舌先に唇を割られ、強引に押し込まれる。熱い。まさぐられた唇が、口内がそのたびに熱を持ち、疼く。  いっそ痛い。でも止められない。こちらも舌を差し出し、まずは先端で小突き合い、いい加減鍔迫り合いももどかしくなったところで、今度は祐一から仕掛ける。ぬるりと絡め、音を立てて吸うと、さらに別のスイッチが身体の奥でカチリと入った。清水と抱き合った時にはついぞ入らなかったスイッチ。  やがて幸仁の手が、祐一の首からネクタイを抜き取る。そのまま片手で器用にジャケットのボタンを解き、シャツのボタンを解く。衣服に守られた肌が冷たい冬の空気に触れ、ざっ、と全身に寒気が走る。その、生理的に敏感さを増した肌を、大きな手のひらがざらりざらりと撫ではじめる。  やめろ、それ以上はさすがに――  そんな声はしかし、不意に浮かんだ幸仁の言葉に否定される。どうせ過ちを重ねるなら、あなたと――  馬鹿野郎。  何だそりゃ。それじゃあまるで。  今度はベルトが解かれ、狼狽えたのも束の間、下着の中へと冷えた指先が無造作に滑り込んでくる。伸縮性のあるボクサーパンツと肌との間で乱暴に、かつ明らかな目的を持って蠢く幸仁の手。やがてそれは祐一の、早くも芯を持ちはじめた性器に絡みつく。 「あ、っ」  いやさすがに待て。がっついた十代のガキじゃあるまいに。お互い、もう四十絡みのオッサンだぞ。急かされたところで身体がついてこないんだ。  そう、頭では思っていたのに。 「凄いですね」 「・・・は?」 「まだ、こんなに元気・・・」  すりすりとそれを撫でながら、耳元で幸仁が囁く。使い込んだチェロのような柔らかな低音。昔から好きだったその声が、早くも濡れて熱を帯びている。あの頃と同じように。  そんな幸仁の手のひらで、祐一のそれは、本人にもわかるほどはっきりと硬さを示していた。  その事実に、祐一はまた戸惑う。  清水の時も興奮はした。が、あの時は、ちゃんと勃ってくれたなという安堵以外の感情は何もなかった。なのに、今は・・・ 「このままじゃ辛いでしょう。ソファに座りましょうか」  早くも砕けた祐一の腰を抱き支えながら幸仁は囁く。前から相手を支える不安定な体勢ながらも妙に安定感があるのは、こうして病床の理恵を抱き上げることもあったんだろうなと祐一は思う。  そんな幸仁の確かな腕力に甘えながら、祐一はゆっくりとソファに腰を下ろす。 「・・・ありがとう」 「いえ、これぐらいは」 「そうじゃない。・・・最期まで理恵を愛し抜いてくれて、本当に、感謝してる」  すると幸仁は、何かを堪えるようにぎゅっと唇を噛みしめる。 「いつだってそうだ、あなたは」 「・・・幸仁?」 「そうやって、あなたは、いつも誰かの幸せを祈ってばかりで・・・でも、そうですね、そういうあなただから、好きになってしまったんですね、僕は」 「それは・・・違う、俺はただ、臆病で」 「違いませんよ。確かに、臆病な人ですけど、でも今のは・・・」  ボタンを解かれたシャツをさらに大きく暴かれる。幸仁の顔が、はっきりと怪訝の色に歪んだのはそんな時だった。 「・・・これ」  その視線の先には、生白い胸板のそこかしこに浮かんだ鬱血の痕。ああそうだ、昨晩は清水と。これはその痕跡で、よりにもよってこのタイミングでと祐一は唇を噛みしめる。ほんの一瞬、魔が差したと言ってもいいほどの気の迷いが、この世で一番傷つけたくない相手を傷つけてしまった。 「すまない。その・・・何と説明すればいいか・・・」  思えば、清水にも本当に悪いことをした。自分を想い慕ってくれる人間を、ただ寂しさを埋めるためだけに利用した。何もなかった、なんて言えない。それは幸仁にも、何より清水にとっても不誠実だ。 「とにかく・・・彼とは、ちゃんと終わらせるよ」 「ええ、終わらせてください」  静かな、なのに叩きつけるような口調。これは怒りだと祐一は思う。きっと、かつて祐一に捨てられた時の悲しみを反芻して―― 「さっきの部下って人でしょう、わかりますよ」  いや違う。この、低く纏わりつくような口調は。噛みつくような目は。 「あなたが、当たり前のように電話をかけた時から気付いていました。ええ、昔からあなたは、海外にいる時でもこちらが夜中の時は絶対に電話をかけてこなかった。そのあなたが、まだ夜も明けきらない早朝に・・・知っていたんですよね、相手が起きていることを。知っていなければあなたも、あんな時間に電話をかけないし、相手もすぐには出られない」  そう、矢継ぎ早に問い詰める幸仁に、祐一は、後ろめたさとは別に一抹の懐かしさを覚えていた。そういえば、こいつと付き合っていた頃もよくこんな調子で詰められたっけ。そして一頻り言いたいことを並べ終えると、決まって幸仁は―― 「・・・ははっ、気持ち悪いですよね、こんな」  やっぱり。勝手に自己嫌悪に陥るのも、あの頃と何も変わらない。 「でも・・・それだけ僕も必死なんです。今更、あなたをぽっと出の誰かに取られるわけいにはいかないんですよ。僕がずっと思い続けてきたんです。誰にも譲らない」 「・・・」  ふと祐一は、こいつと理恵は案外、似た者同士の良い夫婦だったんじゃないかと思う。欲しいものは誰にも譲らない頑固さと執念深さ。そして似た者同士だからこそ、理恵も、祐一に対する幸仁の執着を、そうと知りつつ認めていたのかもしれない。その上で、理恵は理恵の幸せをしっかり握りしめて。  敵わないな。こいつらの、化け物じみたエゴには。  やがて幸仁は、祐一をソファに座らせたまま内股を割り、その間に身体を押し込んでくる。そうして―― 「ま、待て」  しかし幸仁は、制止には耳も貸さずに祐一の下着をずり下ろす。途端にこぼれ出る祐一の欲望。早くも天井を向いた先端は、はちきれそうなほど真っ赤に熟れている。  それを幸仁は、躊躇なく口に含む。 「・・・い、あっ」  背筋を貫く電流にも似た刺激。咄嗟に息を呑み、危うくこぼれかけた甘い悲鳴を必死に噛み殺す。そんな祐一を嘲笑うように、幸仁は祐一の弱い場所を的確に攻める。裏筋と亀頭の先端を舌で小刻みに弄られると、もう、正気を保つことさえ難しい。 「やめ・・・あっ、うぁ・・・っく」  身を屈め、幸仁の背中に上から被さるように縋りつく。清水にも口でされたが、こんなに感じることは――いや駄目だ、いちいち引き比べるのは清水に失礼だ。これはテクニックの問題じゃない。努力だけではどうにもならない。  好きなんだ、こいつが。 「あ……うっ」  今度はゆっくりと、竿の先まで焦らすように裏筋を辿られる。膝がガタガタと震え、腰の奥から、覚えのある熱がぐっとせり上がってくる。 「や、やめろ、それ以上は」 「出してください、このまま」  祐一の先端を小刻みに吸いながら、平然と幸仁は告げる。 「久しぶりに、あなたを味わわせてほしい」 「・・・っ、」  下腹部を引き攣るような痛みが襲って、次の瞬間、焼けるような熱が芯を駆け上がる。やばい、このままじゃ幸仁の口に――そう、意識が働いた時には何もかもが遅かった。  呆然となる祐一。こんなに蕩かされたのも、訳がわからないまま達したのも何年ぶりだろう。少なくとも、記憶する限りここ数年は、ない。プロを呼んでサービスを求めた時も、それに昨晩の清水とのセックスでも、そこには必ず生理的な処理に対する冷めた義務感が伴っていた。  その冷たさこそが、大人のセックスだとさえ思い込んでいた。 「……すまない」 「どうして謝るんです」  吐き出した様子もなく、けろりと答える幸仁に祐一はいよいよ呆れる。まさか・・・飲んだのか。あれを。不衛生で、何なら妙な病気すら抱えているかもしれないあれを。 「うん・・・昔に比べると少し脂っこいですね。年齢も年齢ですし、そろそろ油物を控えた方がいいのでは?」 「そういう問題じゃねぇ!」  抗議の意味を込め、軽く肩を突き飛ばす。幸仁は、くたびれた顔に似合わない無邪気な笑みを浮かべると、立ち上がり、今度は祐一に覆いかぶさるようにキスを求めてきた。散々あれを舐めたばかりの唇。だが、あの頃もよくこんなふうに奉仕後の疲れた唇を慰労していたことを思い出し、懐かしい気分で口づけに応じる。 「……ん」  そのまま今度は、雪崩れ込むように二人してソファに横たわる。あの頃と同じように唇と唇、舌と舌とを貪欲に絡めながら、しかし祐一は、懐かしさの中に見え隠れする未知の幸仁の姿にも気づいていた。  あの頃の幸仁はなかった気遣い。かつての幸仁は、一度火が付くとそれこそ獣のように祐一を求めた。押し倒し、夢中でまさぐり嘗め回し、時には準備の整わない身体に無理やり熱を押し込んできた。それすらもスパイスとして楽しんでいられたのは、単に、当時の祐一が若かったからだ。  さすがに今、同じことを求められも身が持たない。ところが今の幸仁は、貪欲に祐一を求めながら、同時に、つねに自身の加重に気を払っている。これは・・・理恵とのセックスで身についたんだろうなと祐一は思う。事実、壊れ物に対するような幸仁の気遣いは、明らかに、非力な女体とのセックスに適応したものだ。  気遣い自体は嬉しい。というより、それがなければ耐えられない年齢だ。ただ―― 「俺は……理恵じゃない」  ああ、これは嫉妬だなと祐一は思う。介助はいい。でもセックスの名残は許せない。俺は男で、そもそも理恵じゃない。俺を抱いてほしい。  そんな祐一の視界を掠める、サイドボードに置かれた理恵の仏壇。その手前に置かれた遺影に、心の中で祐一は宣言する。  見てろ、理恵。  俺はこれから、お前以上のエゴイストになる。罪も後悔も関係ない。俺は、俺が欲しかったものを手に入れる。  たとえ、お前から奪うことになっても。 「女じゃないんだ。お前の体重ぐらい、何でもない」  そうでなくとも幸仁の身体は、肉が付きやすい年齢のわりには恐ろしく痩せている。若い頃の、筋肉の成長が身長のそれに追いついていない身体とも違う。仕事と、そして家族のために心身を削り尽くした男の、辛うじて残る貧相な骨殻。  本当に、そのためだけに尽くしてきたんだな。  そんな幸仁の半生を慰めるように、白髪混じりの頭髪をそっと撫でる。これは・・・治るのかな、いや、治らないんだろうな。でも、この髪のお前も綺麗で、セクシーだ。  今度は髪から頬に手を移し、早くも目立ちはじめた目元の皺を撫でる。俺がもう少し強ければ、その穏やかな老いも共有できたのだろうかと祐一は静かに悔やむ。 「そう、ですね・・・すみません」 「いや・・・もう、いい」  幸仁のベルトに手をかけ、解く。そうして今度は、祐一の方から幸仁の熱に触れる。  下着越しに触れたそれは、早くも硬く膨張していた。  その事実に、強い感動と安堵を祐一は抱く。よかった。こんな見苦しいオッサンの身体にもちゃんと欲情してくれた。・・・不安だったんだな、と、今更のように気付く。  その熱を、大事に育てるつもりで布越しにゆるゆると撫でながら、祐一は、もう一方の手で自分のパンツと下着を剥ぎ取ってゆく。それでも幸仁にのしかかられた状態では限度があり、もどかしく感じていると、気づいた幸仁が身を起こし、代わりに足から抜き取ってくれた。  そんな幸仁の首に縋りつきながら、囁く。 「欲しい」 「ええ。でも、まずは解さないと――」 「いらない。今すぐ欲しい」 「・・・はい」  膝を抱えられ、恥ずかしい場所を晒す。四十絡みの中年男が、まるで赤ん坊みたいに。恥ずかしい。でも今はそれ以上に、幸仁の熱が、愛が欲しい。 「ゴムはしませんよ」  早くも剥き出しの先端をあてがいながら、そう、幸仁は宣言する。 「あなたの中に注がせてください。マナーに反しているのは百も承知です。でも」 「ああ」  たとえ祐一が女の身でも、この男は注ぎ、そして宿った命を全霊で護るだろう。その覚悟が伝わるから、祐一は許し、剥き出しの幸仁を受け入れる。 「やってくれ。俺も・・・欲しい」  返事の代わりに、幸仁はおもむろに身体を沈めてくる。その顔がほんの一瞬、嫌悪の色に歪む。あまりにも抵抗の薄い肉に、自分以外の男の存在を感じ取ったのだろう。  そのノイズめいた反応も、しかし一瞬だった。すぐに無心の貌に戻ると、一気に深い場所まで押し込み、そのままゆっくりと、馴染ませるように小刻みな抽挿を開始する。そうして内壁に幸仁の熱が染み入るたび、祐一の身体は喜悦に震えた。懐かしい、でもどこか新鮮な刺激。かつての勢い任せのセックスとは違う、じっくりと蕩かすような交わり。 「祐一さん」  不意に名前を呼ばれ、脳髄が痺れる。これだけは、あの頃のそれと同じ強い執着を示す響き。 「な・・・んだ」 「いえ・・・名前で、呼びたかっただけです。祐一さん」  ずしんと奥を突き上げられ、ギアが上がったのだと感じる。事実、それを契機に幸仁は欲望の速度を増していった。それまでの繋がりを重んじる抽挿から、繋がりはそのままに腰の動きだけが激しくなる。骨張った腰と腰とがぶつかるたび、ごつごつと色気のない音が響いて、改めて、何をやっているんだろうな俺達はと祐一は思う。いい歳こいたオッサン二人が盛りのついたガキみたいに。でも、これはこれで必要な儀式なのだ。あの日、ただ互いに失望するためだけに抱き合ったように、今の俺達にはこれが必要なのだ。  もう一度、始めるために。 「・・・好きだ」  あの日、届かなかった言葉を、あの日と同じだけの熱を込めて告げる。幸仁は――微笑んだ。悲しみではなく、心からの充足を示す眼差しで。 「僕も・・・愛してます。祐一さん」  やがて、祐一の中で熱が爆ぜる。遮るものなく叩きつけられた熱を身体の奥で味わいながら、それが、次第に己の体温と一つに溶け合ってゆくのを、祐一は慈しむように味わった。  シャワーを借りてリビングに戻ると、テーブルには温かな朝食が並んでいた。具だくさんの味噌汁とサラダ、ひじきの煮つけ、そして納豆。大学時代は一週間ぶっ通しでもやしと袋ラーメンなんてことも珍しくもなかったのになと微笑ましく感じながら、そういえばこいつは、もう長いこと理恵の代わりにキッチンに立っていたんだなと思い直す。いや、代わりどころか最初から、そのあたりの分担はしっかりしていたのかもしれない。理恵も自分の店を構えて、人並み以上に忙しかっただろうから。  その幸仁は、キッチンで目玉焼きが焼けるのを待っている。 「ご飯、もうすぐ炊けますから」 「お、おう・・・ありがとう。ところで、悪いな、着替え用意してもらって」  結局、下着とシャツは洗濯に出さざるをえなかった。代わりに今は、幸仁がおろしてくれた新品を身につけている。スーツが無事だったのは不幸中の幸いだが、念のため明日にでもクリーニングに出した方がいいだろう。ロンドン出張中に仕立てたもので、一応それなりに気に入っているのだ。 「いえ、僕の方こそ、その・・・いきなりすみませんでした」  照れくさそうに謝りながら、幸仁はコンロの火を止め、目玉焼きを皿に移す。見ると、その隣で鍋が湯気を立てている。カウンター越しに覗き込むと、中身はどうやらお粥らしい。ふわりと香るでんぷん特有の甘い匂い。  理沙のために作ったのだろう。改めて、よくやっているなと思う。  やがて炊飯が完了し、さっそく茶碗に炊き立てのごはんをよそう。それも一緒にテーブルに並べる頃、粥の火を止めた幸仁が、冷蔵庫から牛乳を取ってダイニングにやってくる。 「何というか・・・やっぱりいいもんだな、こういう、ちゃんとした朝食ってのは」 「朝はいつも何を?」 「ははっ、適当だよ。出社の途中にカフェでモーニングとか、それでも間に合わない朝はコンビニで買ったおにぎりとか」  何ならカロリーメイトで済ませる朝もある、と言いかけてやめたのは、幸仁の顔があからさまに曇りつつあったからだ。 「じゃあ、これからはうちで食べていってくださいよ。作りますよ、僕」 「は? い、いやいや・・・理沙ちゃんに悪いだろ、そんな」  そうでなくとも祐一は、間もなくここに立ち寄れなくなる事情を抱えていた。 「今度は、トルコだそうだ」 「えっ?」 「出張だよ。デカいプロジェクトで、もしウチで落札すれば、数年は向こうで暮らすことになる」 「そう・・・ですか」  俯くと、幸仁は何かを思い出したようにはっと顔を上げ、慌てて食器棚から茶碗を取り出す。そこに半分ほどご飯をよそうと、味噌汁の椀と一緒に理恵の仏壇の前に置いた。そのまま仏前で手を合わせ、りんを鳴らす。  その幸仁に倣い、祐一も隣で手を合わせる。 「すみません・・・ええと、じゃあ頂きましょう」  促され、テーブルに着く。その向かいに幸仁はのろのろと腰を下ろす。どこか呆けて見えるのは、今の言葉で相当驚かせてしまったのかもしれない。  まずは味噌汁を啜る。小さく切った人参と白菜、しいたけと油揚げが入った味噌汁は、祐一の実家でもよく出されていた具材の組み合わせで、これも理恵に教わったのかなとふと思う。程よく効いたかつおだしが、野菜の旨味とともにじんわりと舌に沁みる。 「これ、お前が作ったのか」  今度は小鉢に盛られたひじきの煮つけを箸でつまんで問うと、 「いえ、それは出来合いです。さすがにこんな手の込んだものは作れませんよ」  そういえば、最近は真空パック入りの総菜も増えている。かくいう祐一もちょくちょく世話になっていて、料理が面倒な日などは、炊いたご飯とその手の総菜で済ませることもある。 「ところで、さっきのお話ですが・・・」 「さっきの? ああ・・・実をいうとな、ボスポラス海峡にもう一本、海底トンネルを掘ろうって話が出てるんだ。今はまだ受注先の選定段階で、ウチも入札に参加することになってるんだが、そうなると、まずは予算を立てる必要がある。で、予算を立てるにはとにかく地盤の調査が要るってことでね。俺は、その特命チームのマネージャーとして現地入りすることになってる」 「そうですか。でも、入札が終わったら、結果はどうあれもう、」 「と、いうわけにもいかなくてだな。何せ海底トンネルだ。いくら念入りに調査を施しても、実際の工事で思いがけず緩い地盤を掘り当てることもある。そのたびに再調査をして、情報のアップデートを図る必要があるんだ」  もっとも、祐一の真の存在意義はそこじゃない。はっきり言って、調査そのものに祐一が絡むことはない。それはスペシャリストである部下たちの仕事だ。祐一の仕事は、調査のたびに止まる工事で迷惑を被る関係者に、リーダーとして頭を下げて回ること。  そんなことのために。でも、仕事というのは〝そんなこと〟の地道な積み重ねなのだ。 「でも、たまには帰ってくるんでしょう」 「そりゃ、本社でも色々とやることがあるからな」  ご飯に軽く醤油を垂らし、目玉焼きを茶碗にすべらせる。それを、醤油の染みたご飯の上でぐしゃぐしゃと箸で潰す。  ふふっと笑う声が聞こえて、見ると、何が可笑しいのか幸仁が嬉しそうに笑んでいた。 「どうした」 「いえ、そういえば理恵も同じことをやってたなって」 「ああ・・・みっともない食い方だろ。昔からあいつ、何でも俺の真似ばっかしてさ。女なんだから男の真似なんかすんなっっても、今はそういう時代じゃないから、なんて」 「あはは。理恵らしいや」 「ガキの頃なんか俺よりも言動が男みたいでさ、でも、あんなのでも男にモテてたんだから世の中わかんねぇよなぁ」 「可愛い人でしたからね。それに、とても綺麗だった」 「見た目だけな。あんなの中身はどうせゴリラだよゴリラ。せいぜい元気だけが取り柄のな。・・・ほんと、唯一の取り柄だったのにな」  改めて、わからないものだなと思う。てっきり祐一は、自分の方が早く死ぬだろうと思っていた。海外ではテロや犯罪は日本以上に日常茶飯事で、祐一も、危うく遭遇しかけたことが一度ならずある。  そうでなくとも理恵のバイタリティがあれば、それこそ百歳ぐらいは余裕で生きるだろうと思っていた。 「そういえば・・・祐一さんと理恵の話で盛り上がるのは、これが初めてじゃないですかね」 「そう・・・かもな」  むしろ避けていた。さすがに理恵の癌が発覚すると、そういうわけにもいかなくなったが、それでもなお、病状に関する以外の話題は慎重に避けていたように思う。お互いに。  でもきっと、これからは。 「・・・この食い方さ、生卵をかけて食うより黄身の味が濃くて美味いんだよ。見た目はひどいけどな」 「それも・・・言ってましたね、でも、ゆで卵じゃ駄目なんですよね。白身の焦げ目がないと」 「そうそう。ガキの頃はそれでよく喧嘩してさ。こっちのが焦げ目が多いって取り合いになって。まあ結局、最後は俺が折れてたんだが」  あはは、と、幸仁が笑う。つられるように祐一も笑う。笑いながら、改めて心の中で理恵に詫びる。本当は、お前が生きている間にこんな会話ができたらよかった。 「パパ」   見ると、いつの間に四階から降りてきたのだろう、リビング脇の階段前に理沙が立っていた。やはり熱があるのか、マスクから覗く顔がひどく赤い。目も、何となく焦点が合っていないようだ。  その目が、ぎこちなく祐一に向けられる。 「あっ・・・お、お邪魔してます。ええと、身体は大丈夫?」  すると理沙は、こくりと小さく頷くと、猫が逃げ場所を探すようにおろおろと視線を泳がせる。いや、確かに彼女に言わせれば他人も同然だろうが、一度は本気で心配した相手にここまで拒絶されると、さすがに少しやるせなくなる。 「あー・・・ごめんね。朝食を済ませたら、すぐに出て行くから」 「えっ、あ・・・その」 「理沙。祐一さん、また海外に行くんだって」 「えっ!?」  途端に振り返る理沙。その目は、今までの怯えがちな眼差しが嘘のようにじっと祐一を見つめている。 「えっ、うそ、次はどこに行くですか?」 「えっ・・・? え、ええと・・・」 「トルコだよ。新しい海底トンネルを掘るための調査をしに行くんだって」 「トルコ・・・海底トンネル・・・ってことは、ボスポラス海峡?」 「え?」  そしてなぜ、その地名がポンと出てくる。祐一ですら、今回の案件に触れるまでは世界史でうっすらと触れただけの馴染みの薄い地名だった。黒海から地中海へと抜けるルートとして、また、ヨーロッパとアジアを分かつ海として、古来より経済的にも、また軍事的にも要衝とされた海峡だ。旅行好きな人間には、古都イスタンブールが面する海峡だと説明すれば大抵は伝わる。  それでも大概の人間は頭に「?」を浮かべるのがせいぜいで、理沙のこの反応は、正直に言えば予想外だった。 「えっうそ、見たい見たい、掘ってるとこ見たい。えっ、いつ掘るんですか、私が大学出る頃はまだ掘ってたりします?」 「えっ? いや、そもそも入札しないと・・・なあ」  助け船を求めるつもりで幸仁を振り返ると、なぜか幸仁は愉快でたまらないと言いたげに一人でニヤニヤしている。 「ファンなんですよ、祐一さんの」 「は? ファン?」 「ええ。――理沙、あれって君が持ってたよね。持ってこられる?」  すると理沙は、またしても無言で頷く。ただ、そこに怯えの色はもう見られない。代わりに、理恵に似た大粒の瞳がわくわくと輝いている。 「あ、やっぱりお父さんが持ってくるよ。辛いだろ、身体」 「大丈夫!」  そして理沙は、熱が出ているにもかかわらず勢いよく階段を駆け上がってゆく。ややあって再び忙しない足音がして、階上から転がるように理沙が駆け降りてきた。  その手には、手帳よりは大きいがノートにしては小さなボール紙製の冊子。それを祐一は、理沙に差し出されるまま受け取り、わけがわからないまま中を開く。と―― 「えっ」  思わず目を瞠る祐一。中身は、どれも祐一には見覚えのある――むしろ、ありすぎるものだった。世界各地の写真。正しくは、それを印刷した絵葉書。それらは、いずれも透明なポケットに収納され、冊子から取り出さなくともページを捲れば裏側が見える仕様になっている。  その裏側には、祐一の筆跡で記された宛先と、いかにもな義務感で書き添えられたメッセージ。ああ、そうだ、近況ならメールで逐一伝えているし、かといって、素の絵葉書を送るだけでは味気ないので、とりあえず「こっちは元気です」、なんてありきたりなメッセージで毎度お茶を濁していたのだ。  それを、こうも大事にファイルされていると、送った側としては居た堪れない気分になる。  まして・・・ファンだって? 「理沙は、祐一さんに憧れてるんです」 「・・・憧れ?」 「ええ。昔から、よく理恵が話して聞かせていたんですよ。伯父さんは、海外で凄い仕事をしてるんだって。その結果何が生まれて、どんなふうに僕らの暮らしを支えているのか、って」  な? と幸仁が同意を求めると、理沙は照れくさそうにこくりと頷く。そのはにかんだ笑みに、祐一はぐっと胸が詰まるのを感じた。祐一が理恵に遠慮して妹一家を避ける間、理恵は、兄との絆を必死で繋ぎ止めていたのだ。  改めて、良い妹に恵まれたなとしみじみ思う。そして・・・その感謝を二度と伝えることができない事実を、今更のように祐一は噛み締めた。  そんな理恵によく似た姪が、おずおずと口を開く。 「しょ・・・将来は、伯父さんみたいな仕事、したい・・・」 「それって・・・地質調査がしたい、ってこと?」 「うーん・・・とにかく、世界中を飛び回って、橋とか、港を作りたい」 「あはは。地図に残る仕事がしたいってことか」  まるで昔の幸仁を見ているようだなと、祐一はじんわり嬉しくなる。ただ、ここは幸仁の手前、やっぱりあの忠告を入れるべきだろう―― 「ううん、誰かの役に・・・立ちたい、みたいな」 「・・・ははっ」  どうやらこの姪に対しては、あんな差し出がましい忠告は要らなかったようだ。 「ちょうどいい。話があるんだ、理沙」  突然改まる父親に、理沙はびくりと首を竦める。部外者の祐一にも、これは何か重要な話の前振りだなという緊張感が伝わる。当事者である家族なら尚更だろう。まして、あんな騒動の直後でもある。  そんな祐一にも、幸仁の次の言葉はさすがに予想がつかなかった。 「理沙が成人したら、祐一さんと結婚しようと思う」 「・・・は?」  思わず驚きの声が漏れる。理沙に至っては完全に処理落ちしているのか、大粒の瞳を皿のように見開いたまま固まっている。 「いやお前、さっき再婚はしないって、」 「理沙に母親を宛がうためだけの結婚はしない、という意味で言ったんです。でも、祐一さんとなら」 「い、いや・・・確かに俺は、母親にはなれない、が・・・?」  困惑する祐一。そんな祐一をよそに、幸仁はふたたび理沙に向き直り、続ける。 「もちろん、今すぐに、じゃない。理沙が成人するまでは、理沙ただ一人を家族として大事にしたい」  すると理沙は、「ええと」と目を泳がせる。フリーズこそ解けたものの、頭の方は相変わらず混乱しているらしい。当然だ。母親を亡くして、その喪も明けきらないうちに父親が伯父と――同性と一緒になりたいだなんて。 「い、今ここでする話じゃねえだろ! 理沙ちゃんはまだ中学生だぞ!」 「わかってます。でも、そうやって子供だと侮った結果、理沙は家を飛び出した。確かに、理沙はまだ大人ではありません。でも多分、僕が思うほど子供でもない。だから・・・話したいと、話さなければと、思ったんです」 「それは・・・」  何とか反論を試みるも、幸仁の強い眼差しを前に祐一は断念する。そもそも、他所の子育て論に口を挟むのは野暮というものだ。それが明らかなDVでもない限り、他人は大人しく見守るべきなのだろう。  それでも、大人としてはやはり理沙の胸中が気になってしまう。幸仁はもう子供じゃないと言ったが、それでも、精細な年頃ではあるだろう―― 「いいよ」 「・・・は?」  見ると、その理沙は祐一の懸念とは裏腹に、強い眼差しでじっと父親を見据えている。 「パパが、したくてする結婚なら、いいよ。私のために、とかじゃなかったら、うん、全然いい」  ――私のために再婚とか、そんなの絶対にやだ!  そういえば、警察署でも同じようなことを理沙は言っていた。確かに、理沙は大人じゃないが子供でもない。少なくとも、押しつけられる無駄な善意と、相手の心からの願いを見分けられる程度には成熟しているのだ。 「・・・ただ、」 「ただ?」 「うん……パパは、ちゃんとママを愛してたのかな、って・・・やっぱりその、早すぎるなって、思う。切り替えっていうか、そういうのが」  そこは、まさに祐一が懸念するところだった。母親が旅立ったそばから父親にこんな話を聞かされたら、子供なら誰しも抱く疑念だろう。理沙の家出も、それが原因でなかったとは言い切れないのだ。  そんな娘の問いに、幸仁は―― 「それは、理沙もよく知っているはずだ」 「・・・うん」  答えを成していない返答に、それでも理沙は深く頷く。見つめ合う親子。そこに祐一は、親子でしか共有できない何かを感じ、これ以上の口出しは無用と悟る。  やがて幸仁はテーブルを立つと、キッチンでお椀に粥をよそい、スプーンと一緒にダイニングに戻ってくる。 「食べられるか」 「うん」  頷くと、理沙はいそいそとテーブルに着く。父親から茶碗とスプーンを受け取ると、ふうふうと吹きながら啜りはじめた。 「おいしい」  実際、幸仁の粥は程よいとろみと艶やかさで、見るからに美味そうだ。それもそうか、と祐一は思う。きっとこれまで幸仁は何十、あるいは何百と粥を炊き続けたのだ。愛する妻の看護のために。  その背中を理沙は知っている――だからこその。 「ありがとう、理沙ちゃん」  すると理沙は弾かれたように顔を上げ、「いえ」、とぎこちなく、でも優しく微笑んだ。  国際線をいくつも乗り継ぎ、丸い小窓にようやく見慣れた地形が覗く。  改めて、緑の多い国土だなと思う。いや、これが羽田発着便ならまた違った感慨を覚えたのだろうが、これから着陸する成田国際空港の周辺は緑が多く、日本に帰ってきたなという実感を強くする。  ボーディングブリッジを渡り、入国審査と手荷物検査のフロアに向かう。こうも海外出張が重なると、いい加減、手続きも慣れたものだ。混み合う職員窓口の列を避け、自動化ゲートを通過する。開いたパスポートをふたたび懐にしまう間際、何となしに顔写真が視界に触れ、それが、今の自分に比べて随分と若いことに祐一は気付く。こいつを作ったのは、まだ三十代の頃だったか。・・・まだ三十代の。そう、しみじみと加齢を噛みしめる祐一は今年で四十八歳。いい加減、アラフィフと呼ばれる年頃だ。  保安区域を抜けると、ほのかな醤油の匂いが鼻腔を撫でた。この匂いも、ああ、日本に帰って来たなと思わせてくれる。イスタンブールに横溢するスパイスとシーシャの香りも良いが、そうした好き嫌いとは別に、馴染む、と思う。どこまでも自分は日本人、醤油と味噌の国民なのだ。  この六年は、それこそ日本とトルコを行ったり来たりだった。  凄絶な受注合戦の末、その権利を勝ち取った四井建設だったが、今なお続く工事は想定以上の困難を極めている。掘削が始まったあとも頻発するトラブルと、その都度強いられる地盤の再調査。そのたびに、祐一は各方面に頭を下げて回った。そのためのリーダーなのだと覚悟はしていても、時には全てを振り捨てて逃げ出したくなることもあった。  それでも耐えることができたのは、時差で夜中でも構わず電話を取ってくれた幸仁のおかげだ。  預けていた手荷物を受け取り、保安区域を出る。色とりどり、言語もとりどりの看板を掲げた出迎えの人垣。その賑やかな一群に何となしに目を向けた祐一は、ふと、そこに存在するはずのない人物を見出し、足を止める。 「……理恵?」  まさか・・・幽霊?  ところがその幽霊は、祐一と目が合うなり大きく両手を上げると、「伯父さーん!」と大声で手を振る。 「こっちこっち!」 「え……理沙、ちゃん?」  おそるおそる歩み寄ると、確かにそれは理沙なのだった。細身のジーンズが似合うすらりと長い脚も、人形のように愛らしい顔立ちも、確かに、往時の理恵によく似ている。ただ、理知的な切れ長の目元だけは間違いなく父親譲りのそれだ。  肩の高さで切り揃えた黒髪が、動きに合わせて小刻みに揺れる。中学の頃から変わらない髪型(ミディアムボブと言うらしい)は、理恵が最期に施術した時のものを、彼女の元アシスタントで、今は一階の美容室を任される店長にケアしてもらっているらしい。成長しても子供っぽさで浮くどころか、かえって年々馴染んでゆく髪型に、娘のすこやかな成長を願った理恵の想いを感じて祐一は切なくなる。  二年前に都内の大学に進学した理沙は、そこで父親と同じ建築学を学んでいる。それと並行して地質学関連の授業にも顔を出し、積極的に知識の幅を広げているそうだ。 「やあ理沙ちゃん。勉強は進んでる?」  広大な空港ターミナルを理沙と並んで歩きつつ問うと、理沙は「ええと、まぁ」とはにかむ。 「勉強より、今は就活の準備のが大変っていうか・・・私、絶対に四井さんに入りたいのに、こないだ私よりデキる先輩が落とされてて、うわぁって」 「あらら」  祐一も就活では相当に辛酸を嘗めたし、不採用の通知ならそれこそ山のように貰った。その先輩とやらの気持ちは、だから、痛いほどよくわかる。 「でもまぁ、インターンや説明会にしつこく足を運んだら、顔見知りも増えて面接も有利に運べるかもだよ? あと・・・俺の方でも、多少の根回しはできると思う、けど、うん」 「それは嫌です」  案の定、きっぱり拒まれてしまった。まあ、理沙の性格を考えるなら駄目だろう。とはいえ、社会に出ると、そうした個人的な縁にも縋らなくてはいけない場面が出てくる。どんなに〝汚い〟ゴールでも、得点は得点なのだ。  でもまぁ、理沙が自力で戦いたいと言うのなら、そこに水を差すのは野暮のすることだ。 「ところで、幸仁・・・お父さんは?」 「ああ、パパですか? すみません。パパはその・・・今日はどうしても外せない用事があって」 「あ、そう。でもまぁ、夜には帰ってくるんだろ?」 「えっ? え、ええ・・・あの、がっかりしないんですか?」 「別に。用事なら仕方ないさ」  すると理沙は、いかにも拍子抜けという顔をする。てっきり落ち込むかと思っていたのだろう。でも、この齢になると皆それぞれ何かしらの責任を背負っている。抜けられない用事があるのなら、無理に引っ張り出す必要もない。まして、今の幸仁は。  一昨年、とある有名なデザイン賞を受賞した幸仁は、今や日本で最も忙しい建築家と呼ばれている。舞い込む案件はひきもきらず、他にもインタビューやコラムの執筆の依頼も増えているそうだ。 「忙しそうで何よりじゃないか、仕事があるってのは良いことだ」 「でも・・・おかげでなんか騒々しくて。私にまで声をかけてくるライターの人もいて、うざ、って感じ」 「あはは」  そんな理沙の案内で駐車場へと向かう。普段は京成線で都内に戻るので、少し新鮮な気分だ。駐車スペースには、若葉マークを貼りつけた可愛らしい軽が停まっていて、まさか、と理沙を窺うと、「去年取ったんですよ」と誇らしげに免許書を突き出された。そうか、あの食卓に嵐を呼んでいた赤ん坊がもう運転免許を。そんな感慨を噛みしめつつ祐一はトランクにキャリーケースを積み、やたらフローラルな香りのする助手席に乗り込む。  理沙の運転は、初心者にしてはハンドルもブレーキも安定していた。これなら安心して任せられそうだ、と、祐一は助手席に深々と身を沈める。 「見たよ。成人式の写真。・・・あの着物は、理恵の?」  すると運転席の理沙は、フロントガラスを見つめたまま「はい」と頷く。 「ママが成人式で着たやつを、おばあちゃんが大事にしまってくれてて。昔のやつだけど、デザインとか普通に可愛かったし・・・その方がママも喜ぶかな、って」  そりゃ喜ぶだろう。願わくば、そんな娘の晴れ姿を天国からではなく現世で見てほしかった。 「あの、一つ訊いていいですか」 「何だい?」 「その・・・伯父さんはどうして、パパと結婚したいと思ったんですか」 「・・・」  いつか来るだろうなとは思っていた。むしろ、今まで向けられて来なかったのが不思議なほどの真っ当な問い。確かに、これまでは幸仁と結婚することは告げても、その理由についてはあえて言及を避けていた。  それを語るとなると、大学時代の関係も明かす必要が出てくる。  そうなると今度は、その後の成り行きについても話さずにはいられなくなるだろう。幸仁が理恵との結婚に踏み切った、その、どうしようもなく身勝手な理由。  もう一度、祐一に好きだと言わせるために。  そんな理由で自分の両親が結ばれたのだと知れば、やはり娘としてはショックだろう―― 「昔、ママが話してたんです」 「えっ?」 「パパは昔、伯父さんのことが好きだったんだって・・・でも、ママの若い頃は、同性同士のそういう関係は難しくて、それで、結局別れちゃったんだって・・・だからもし、ママに何かあって、残されたパパが伯父さんと一緒になりたいって言ったら、その時は、応援してあげてね、って」 「そ・・・んなことを、」  あの理恵が――欲しいものは絶対に手放そうとしなかった理恵が。子供の頃、一緒に売り場でおもちゃを選んだ時も、理恵は、欲しいぬいぐるみを抱きしめたまま頑として手放さなかった。その頑なな目を前に祐一は、手にしたレゴを棚に戻さざるをえなかった。  いや違うな。レゴを諦めた本当の理由はそこじゃない。 「・・・社会がどうだったとかは、関係ないよ」  そう、そんなものは関係なかった。これが理恵なら、たとえ男だろうが異星人だろうが幸仁を抱きしめて離さなかっただろう。仮に幸仁本人に恨まれようが、掴んだ手を決して離さなかっただろう。  でも祐一は弱かった。少なくとも、理恵ほど強くはなかった。 「怖かったんだ。俺は・・・何かを願うってのは、それを否定されるリスクも伴うものだ。俺は・・・君のママほど強くなかった。だから、できなかったんだ。君のパパと、幸仁と一緒になりたいと、願うことができなかった」  伝わらなくてもいい。軽蔑されても。  それでも、祐一のこれまでの迷いを、苦悩を何とか言葉にしようと思えば、そう表現する以外にない。もっと器用に、小奇麗な言い訳で繕うべきだっただろうか。・・・いや、幸仁に似て賢いこの子は、そんな欺瞞はすぐに見抜いてしまう。 「それ・・・ちょっとわかるかも」 「え?」 「うん・・・何かを願うって、怖いですよね。私も、こんなに必死に勉強して就活の情報も集めて、それでも四井さんを落とされたら、めっちゃヘコむと思います」 「あはは・・・そうか、わかっちゃうか」  そうだよな、もう、子供じゃないんだから。 「でもね、これだけは信じてほしい。君のパパは、君とママのことを誰よりも深く愛してる。嘘だと思うなら、おばあちゃんちでアルバムを見せてもらうといい。あれは……偽りの愛情で撮れる写真じゃない」 「わかってます。そこは」  フロントガラスを見つめたままにこり微笑むと、理沙は、今度はひどく遠い目をした。 「疑うわけないですよ。パパがどれだけ必死にママを救おうとしたか、私、忘れてませんから」  ようやく駒込の宗谷家に着いた時には、すっかり日が傾いていた。  中野の分譲マンションは、イスタンブールへの赴任と同時に賃貸に出してしまった。以来、帰国時にはホテルを借りていたのだが、ならばうちに泊まってくださいと幸仁に強く勧められ、近頃では帰国のたびに義弟一家に甘えている。  違和感に気付いたのは、玄関の三和土を目にした時だった。  いつになく大量に並んだ靴。それによく見ると、明らかに幸仁や理沙の趣味ではない男物のスニーカーやワニ革のブーツ、高齢女性向けのローヒールなんかも紛れている。まるでホームパーティーでも開いているみたいな――  まさか。  いそいそと靴を脱ぎ、キャリーケースを玄関に残したままリビングに急ぐ。予想は的中していた。いつになく人で溢れたリビングには、親父とおふくろ、祐一の大学時代の友人。そして―― 「……幸仁?」  どういうことだ。幸仁には外せない用事が――そう疑問を口にしかけた祐一は、視界の隅でにやにやとこちらを見守る理沙の視線で全てを悟る。いや、それを言えば、最初に幸仁の姿を目にした時から状況は理解できていた。  いっそ漫画じみた白タキシード。それが、すらりとした長身に腹立たしいほどよく似合っている。 「おかえりなさい、祐一さん」  そして幸仁は、やんわりと祐一に微笑みかける。テーブルには料理とワインの瓶がふんだんに用意され、さらに、幸仁自慢のキッチンカウンターには、とても素人の作には見えない細工のケーキが鎮座している。見事な三段仕様のケーキの頂上には、砂糖細工と思しき白タキシード姿の人形が二つ。 「ほら、伯父さんも着替えて着替えて!」  見ると理沙が、幸仁のそれとよく似た白スーツを腕に抱えている。着ろ、ということか。周りを見回すと、やはり期待に満ちた目で祐一を見守っている。それは、あの、祐一に散々結婚を急かしていた両親も同様だった。  両親には、同性の恋人がいることを告げてはいた。  反応次第では、そのまま幸仁とのことも打ち明けようと思っていた。が、両親の見せた否定的な反応に、祐一は計画を断念せざるをえなかった。その両親がここにいるということは、ひょっとすると、幸仁の方でも説得を試みてくれたのかもしれない。  ありがたい、と思う。  しかし祐一には、彼らの祝福を受け止める資格はない。 「……俺は、ちゃんと祝ってやれなかった」  五十路近くにもなって、二十年も前のことをぐだぐだと悔やむなんて。それでもあの日、理恵の門出を祝ってやれなかったことは、悔恨として胸の奥に刺さったまま祐一の心を疼かせている。 「風邪なんて、嘘だった。・・・俺は、ただ後ろめたかったんだ。理恵に対して。でも、それを呑んででも俺は、参加すべきだった。あいつを、笑顔で送り出してやるべきだったんだ」  他人の幸せを願うことのできない人間に、幸せを祈られる資格などない。こうして自分のために門出の場を用意され、その幸福を噛みしめるほどに、あの日、理恵が抱いたであろう落胆がリアルに胸に迫るのだ。まるで遅効性の毒のように。 「祐一さん」  そんな祐一の前に差し出される、一抱えほどのガラスケース。その中には、スチロールで作られた小さな建築模型が収められている。ただ・・・幸仁の作にしてはどうもデザインが凡庸だ。かといって、理沙が大学で作ったものにしては明らかに経年劣化がひどい。 「憶えていますか。理恵との結婚式で、祐一さんがウェルカムボード代わりに作ってくれた建築模型ですよ」 「えっ? ……あ!」  そういえば。  確かに、そんなものを作った覚えがある。理恵にウェルカムボード作りを頼まれ、ただの看板じゃつまらないだろうと少し尖ってみせたのだ。都市プランナーとして躓いた自分とは違い、建築家の卵として順調なスタートを切った後輩へのやっかみも、正直、ゼロだったといえば嘘になる。  それでもやっぱり、ここに込めたのは妹への素朴な愛だったのだろうと素直に思う。自分とはタイプも性格もまるで違う妹。しかも、相手は自分の元恋人。それでも、家庭を儲ける以上は幸せになってほしい。こういう素朴な家で温かな団欒を囲んでほしい。  そうだ。道理で見覚えがあると思った。このビルは―― 「この模型をベースに、僕らの自宅をデザインしたんです。祐一さん、あなたはちゃんと、僕らを祝福してくれていたんです」  そして幸仁は模型をテーブルに置くと、カバーを外し、模型の二階から上をまとめて持ち上げる。この模型はフロアごとに中身もきっちり作り込んでいて、あの頃、激務の中でよくもまぁこんなものを作ったなと改めて思う。  現れたのは一階フロア。いつか自分の美容室を開きたいという、理恵の夢を想いながら作ったパーツだ。 「理恵さんの美容室ですよね。その上に僕の設計事務所。この二層構造が、いいなぁと思ったんです。横ではなく縦に並べる。これなら、少ない土地でも僕らの夢を叶えられる」 「いや・・・これぐらいは誰でも思いつくだろ」 「まあまあ。賞賛は素直に受け取りましょうよ」  やんわり微笑むと、幸仁は、今度は四階のフロアを持ち上げる。現れたのは、いま祐一たちが立つ三階のリビング。 「このカウンターキッチンですけど」 「まだ続くのか!?」 「ははっ、続けさせてくださいよ。これ、どんな時でも僕らが一緒に語らえるよう用意してくれたんですよね? 料理をしながら、お皿を洗いながら、今日はこんなことがあった、って」  そして幸仁は、祐一の隣に立つ理沙と笑い合う。テーブルに所狭しと並ぶ料理やそれにケーキも、二人であれこれと語らいながら用意したのだろうか。あるいはこれまでも、この場所で幸仁と理恵と理沙、三人で楽しく語らうことはあったのだろうか。  あったんだろうな、と祐一は思う。だからこそ、今の幸仁と理沙がいる。父親の二度目の結婚式で屈託なく笑い合う父子が。  そしてこれからは、俺達が―― 「幸せになりましょう。一緒に」  気持ちを汲んだかのような幸仁の言葉に、祐一は素直に頷く。悪かったな。そして、ありがとう理恵。俺達はこれから、幸せになるよ。 「ああ・・・そう、そうだな」  ほとんど声にならない声で、そう、祐一は答える。俯き、年甲斐もなく溢れて止まらない涙を必死に拾っていると、不意に左手を取られ、その薬指に何かが通された。  見ると、それは指輪だった。某映画のそれを思わせる飾り気のない金のリングは、シンプルだからこそ日常向きだと一目でわかる仕様だ。それでも、装飾品に慣れない肌にはひどくむずがゆい。  しかし、それもいつかは肌に馴染んでゆくのだろう。新しい建物が、やがて景色に馴染むように。 「俺も、幸せになりたい。お前と」  今はまだ違和感のある指輪の感触を噛みしめながら、そう祐一は願う。今度は、もう決して手放さない。誰に恨まれようとも。  この、握りしめた願いを。決して。
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