落園愛歌

11/17
前へ
/33ページ
次へ
 それはある日の未明だった。  数百年の歴史の中で、そんな事は一度も無かった楽園を、激しい地揺れが襲った。建物は次々と倒壊し、火の手があがって、蒼い海に囲まれているはずの楽園が、赤い海原と化した。  そこへ二度、三度となく余震が訪れ、更には魔物が大挙して押し寄せ、着の身着のまま逃げ惑う人々に襲いかかって、人々の動揺は極みへと達した。  そんな状況下、黒いローブを身にまとった連中が厳かに現れ、意気揚々と人々に告げたのである。 「この大災害は、神殿と0の巫女の怠慢以外の何物でもない! 今こそ腐れた旧体制を打ち倒し、真の楽土を手に入れようではないか!」  黒は反逆者の証。それを判断する冷静ささえ欠落してしまった民は、扇動の言葉に容易く呑み込まれた。ナイフや斧、槍。手近な武器を手に取り、魔物に追われるというよりは、まるで引き連れるような状態で神殿へと迫った。  セアラ達守護者を筆頭とする守備隊は、対応を求めて管理者の部屋の扉を叩いた。だが、返事は無い。 「ご指示を!」  いくら待っても応えが返らない事に業を煮やしたアカギが乱暴に扉を開き、そして絶句した。部屋はもぬけの殻で、猫の子一匹存在しなかった。床には資料や日用品が無造作に散らばっており、慌てて荷物をまとめて飛び出していった様子ばかりがうかがえる。 「方舟(はこぶね)か」  ノーマが忌々しげに舌打ちする。楽園に万一の事があった時、脱出の救済手段として、百人を乗せても数十日の航海に耐えうる方舟が数隻用意されていた。管理者は楽園の民を救う事を放棄して、自分達の保身をはかったのだ。  足を失えば、四方を海に囲まれた楽園に逃げ場は無い。蜘蛛の糸に絡まって、食われるのを待つばかりの蝶になったも同然だ。守備隊の兵達が恐慌に陥り、喚き声をあげながら頭を抱えてうずくまる者まで出る始末だ。 「待って」  その混沌の沼に一石を投じたのは、セアラだった。十数年の記憶を辿って0の巫女の庭を思い返し、彼女の言葉を掘り返す。 『これを使う時が来なければ良いね』  何代もの巫女が住まった時を経て蔦が這う、箱庭に不釣り合いな金属質の装置を幼いセアラに見せて、ニーアはやはり外見に似つかわしくない熟女のような嫣然とした笑みを見せたものだ。 「ニーアの庭の装置を動かせば、巫女専用の方舟を出せる」  巫女の為に用意された船がどれほどの規模かはわからない。だが、ただ一人を乗せて船は動かないだろう。出来る限りの人員を乗せて脱出をはかる事は、まだ可能かも知れない。その為には、この神殿を、ここ管理者の部屋からほとんど真反対の、巫女の庭まで駆け抜けなくてはならないのだ。 「セアラ、行くんだ」  はしばみ色の瞳がふっとこちらを向いた。アカギに見つめられたと理解するのに時間がかかった事で、セアラは自分が自覚している以上に動揺している事を悟る。 「巫女のもとへ行き、方舟を動かすんだ。俺達はその間に、出来るだけの人間を助けて乗せられるようにしてくる」  管理者の指示を仰げない、巫女がここにいない、そんな今、守護者の言葉が最高位として力を持つ。本来1が2に従うのは順番としておかしいのだが、自身の判断力が鈍っている今、アカギの言葉が一番冷静で正しい、と、セアラは納得した。  深くうなずき、仲間達を見回すと、 「皆も、気をつけて」  短く残して踵を返し、ひびが入りぱらぱらと少しずつ欠片の落ちてくる白い廊下を走り出した。
/33ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加