最後の一矢

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 ずるずると。青い血の跡を廊下に刻み、身体に巻き付けた白い掛け布も青黒く染まりゆく中、カノンは船内の誰も起こさない程度に細い声で歌いながら、水の魔物の死体を引きずって、甲板へ出た。  かつてニーアからカノンだけが聞かされていた、水の魔物の真実。 『水の魔物の要素は、傷口から入った毒をもって伝播する。私の治療能力をもってしても、貴女達を解毒出来る量には限界があって、それを超えれば、最後には』  だから守護者は、数年に一度、五人いっぺんに交代せねばならなかったのだ。水の魔物を狩る守護者が魔物に成り果てるなど、楽園の民が知れば、神殿の権威は失墜する。隠し通さねばならない事実だった。  そして、五人の一番前で戦い続けたヴァンの身体は、既にその許容量を超えていたのだ。楽園を出てから、朝日を前にするとやけに眩しそうに目をすがめ、太陽の出ている内は殆どまともに活動が出来ない。夜行性の水の魔物と同じ兆候を見た時、カノンは全ての終わりを思い知った。  もっと早く、手を下しておくべきだった。もしかしたら、どこかの大陸に辿り着けば、助かる方法があるかも知れない。そんな淡い希望を抱いた結果、罪の無い人間を三人も犠牲にしてしまった。これは自分の落ち度だ。  だから、決意が揺らがぬよう、後に退けぬよう、手を打った。ヴァンの持つ魔物の毒を体内に取り入れる事で。耐えきれなければ数刻で死に至り、乗り越えても、徐々に自我を失い、最後には完全な水の魔物となって、この船の人間が全滅するまで殺戮を繰り広げるだろう。ならば今、ここで彼と共に果てるのが、一番の希望だと思ったのだ。  甲板から見渡す夜明け前の海は、恐ろしいまでに静かだった。大海原の只中で底は見えず、ここから身を投げれば、見つかる事は決してあるまい。守護者が二人同時に行方をくらませた船内は、しばらくの間混乱するだろうが、いずれ誰か、皆をまとめる者が出てきて、上手く回る。ここはごく小さな世界だが、社会とはそう出来ているのだ。  歌が途切れた。楽園が落ちた日、二度と会えなくなった友を悼んで紡ぎ、今は唯一人の愛しい相手の為に捧げた、愛と哀の旋律が。 「ヴァン」  もう二度と動かない魔物にそっと口づける。 「私は、貴方の(アイン)になれたかな?」  藍色の空を仰ぎ、そして、光の矢を生み出し、直上に放つ。まだ空に残る月へ届けとばかりに真っ直ぐに打ち上げられた矢はしかし、途中で失速し、ゆっくりと、やがて勢いを増して下降し、カノンの胸を過たず貫いた。  ごぷりと血を吐きながら、震える腕で魔物の身体を抱き締め、船縁を蹴った足元には何も無くなる。浮遊感、そして落下感の直後、冷たい水が包み込むように二人を受け止め、深みへと誘う。  その底で、白いローブをまとった、銀髪の少女と、赤髪の青年と、青黒髪の少年が、苦笑を浮かべながら各々手を振っている。  そんな幻視を最期に、カノンの意識も、ゆっくりと、遙かなる海へと拡散してゆくのであった。
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